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十八 旅

 環は都に向かっていた。

 誰にも言わずに村を出てきた。路銀は村の娘には似つかわしくない飾り物や小物を近くの村で売って作った。環は村から出たことがなかったので自分の持ち物の正確な相場はわからないが、落ち着きが大事だということはわかっていた。慌てず、わかったような顔をする。ある程度の損はしてもかまわないが、足元を見られてはいけない。そうやって、なんとか都まで往復できる分の路銀は確保できた。

 都まではそう遠くない。娘の脚でも五日も行けばつく。いかにももの慣れないふうな娘が粗末な服装で一人で旅をしているのは目立ったが、変わった村で変わった存在として育った環には普通の娘にはない雰囲気があり、何か深い事情があるのだろうと思わせた。村の娘には似つかわしくない洗練された物腰で、金持ちの老人の繰り言や甘やかされた子供や若い娘の我儘に悪い顔をしない環は、自然身元のしっかりした相手と行動を共にすることとなり、道中の苦労は大きくはなかった。

 それでも夜、宿で疲れた脚を揉み、知らない同室者の寝息を聞いていると、心細さに泣きそうになった。慣れ親しんだ村を出て、都に行く理由などあるだろうか。

 でも、行かなくては。

 仁は本気で環との結婚を取りまとめるつもりのようだった。環の了承を得る前に、待てないとばかりに環の両親に話を通していた。両親は喜んでいた。環が断ることなど考えもしていないようだった。

 姉さんが帰ってくるまでは、お嫁に行かないわ。

 環がそう言うと、紅潮していた両親の顔がすっと白くなった。

 宵の話はやめなさい。

 そう強く言われたが、納得できなかった。何度断っても、少し時間を置けばそのことがなかったように話してくる。環の拒絶を、本当に忘れてしまうようだった。それが恐ろしかった。

 家だけでなく、村の様子もおかしくなっていった。ずっと安定していた天気が荒れ、また何人かの男がいなくなった。あの日、環を宵と見間違えた男は、その夜消えた。村人たちも平静を装う余裕がなくなってきた。環をもの言いたげに見つめる者もいる。不穏な予感は、おさまるどころかどんどん顕実化していく。

 ここを出て、都に行こう。

 村を出る直前、環は一人で湖に行った。湖は変わらず静かで、美しかった。恐ろしいほどの美しさだ。神の花嫁であると知ったときから、ここに来るのは恐ろしかった。輝く湖面が、自分を呑みこみたがっているように見えた。だが今は、その湖面が自分を拒んでいるように見えた。

 姉さん。

 頭で考えるのではなく、口が勝手にそう呟いていた。姉さん。姉に会いたかった。会いたくて会いたくて苦しかった。一番近くて、一番遠かった人。一番恋しい。姉だけが、環には恋しかった。涙が出そうだった。

 行ってきます。姉さん。

 だが、涙をこらえてそう言った。これからは泣いていられないのだ。自分には未来がある。自分で選んで自分で行く道。ただ自分の運命に泣いていたあの頃、どうしてもほしかったものだ。それを涙で濡らしたくない。もう一生分は泣いた。

 夜、寝静まった頃にひっそりと出て行った。村の夜は、この頃ますます濃くなり、荷を負う環の細い肩にのしかかるようだった。逃れるように足を進めた。行かなくてはいけない。疲れて挫けそうなときも、一人で自分に言い聞かせた。もう誰もいないのだ。行かなくてはいけない。これが私のやるべきことだ。

 環自身は知らぬことだったが、道中危ない場面はいくつもあった。あと少しで森で獣に行き会うところだったり、よからぬ輩に目をつけられたこともあった。幸運と、善良な人々の好意に恵まれ、なんとか無事に、都にたどり着いた。

 こんなに人がいるなんて。

 見知った顔しかいない静かな村しか知らぬ環には、都の喧騒はそれだけで脅威だった。どこからともなく溢れて流れていく人、人、人。これまで通ってきた街でさえ圧倒されたのに、都はまったく桁違いだ。歩き方さえわからない。立ちすくむ環の肩に、誰かがぶつかる。よろめいて、ふいに心細くなる。都まで同行していた相手は都の家族の家に帰った。自分は一人だ。こんなに人がいても、一緒にいてくれるものは誰もいない。一人ぼっち。

 でも、行かなくては。

 環は白い顔を上げ、都の人込みに突入した。

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