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一 水音

 水音がした。

 湖の黒い水面は普段より大きな満月を映していた。一つ大きな音とともに水面は揺れ、月を二つに割り、また何事もなかったかのように静まった。

 なんの音もない。

 しばしの沈黙のあと、男たちは笑った。

「ああ……よし、よくやった」

「帰るぞ。酒がまだ残ってる」

「いやー、気分がいいな」

「環ちゃんも安心だなあ」

「これであと三百年は安泰だ」

「帰るぞ帰るぞ」

 不自然なまでに明るい声で騒ぐと、男たちは湖に背を向けて、逃げるように帰っていった。

 虫の鳴き声一つ聞こえず、風一つ吹かず、辺りは静まり返っている。

 湖面は夜を映し、ただ黒々と沈黙していた。

 その水のなかで、男たちに投げ入れられた娘が、ゆっくりと沈んでいた。

 粗末な着物から伸びる手足はひどく細いが、まだ若く健康だ。縄などで戒められているわけではない。

 娘にはまだ意識もあった。冷たい水のなかでもがく力もあった。

 だが、希望はなかった。痩せ細った肉体は痛みと苦しみと諦めに満たされて、ただみなそこに沈んでいった。

 意識が薄れていく。何も思い浮かばない。懐かしむような過去もない。誰にも愛されず、誰からも蔑まれて生きてきた。思い出はどんな些細なものもすべて痛みと恥辱と悲しみに汚れていた。生きること自体が痛みだった。

 薄れた意識で、思う。

 この痣がなければ、最初から私が選ばれたのだろうか。

 最初から、こうしてくれればよかったのに。


「なんだ。人間か」


 不意に、声がした。低く深くなめらかな声。労働に荒れた村の男たちとはまったく違うが、男の声だろう。娘は慌てて目を開いたが、夜のほかなにも見えない。


「ふむ。面白い柄の娘だな。連れて帰るか」


 死ぬ前には、知らない男の声が聞こえるものなのだろうか。

 それとも、他に思い出したい相手がいないせいだろうか。


 いつの間にか娘の苦痛は消えていた。

 みなそこにたどりつく前に、意識を失った。

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