3.シャレにならない誤解
白い天体はゆっくりと回っていた。目を凝らしてよく見ると、薄い雲の隙間から、疑いようもない日本列島が現れた。しかもその左側には茶色がかったユーラシア大陸が、赤道の下側には見慣れたオセアニア大陸がはっきりと見えた。
――地球が二つ並んでる!
青い地球と白い地球が向かい合い、鏡に映したように同じ形と大きさで、静かな宇宙に浮かんでいる。
この二つの地球の中間地点に近づくと、周りは真っ白な霧状の煙に覆われて、ぼんやりと三角屋根の建物が見えてきた。上昇する力が弱まり。足を突っ張ると地面に立つことができた。ちょうど地球と白い天体の中間地点あたりのようだ。
建物の中は駅の待合所のような作りになっていた。長めの白テーブルが二列に並び、十人前後の子供から老人が、それぞれの佇まいで座っていた。ラクダの股引のじいさん、風呂上がりのシャツ一枚のばあさん。手術着みたいなものを羽織った中年女や、スーツ姿のサラリーマンもいた。奥には幼稚園の帽子に短パン姿の男の子……。みんな死んだときの姿でここに来ているのだろうか。
顔見知り同士なのか、話し込んでいるものもいれば、呆然と頭を垂れているものもいた。みんな胸の辺りで魂が、蛍のように鈍く光っていた。服の上から透けて見える魂は、色や大きさがそれぞれ微妙に違っていた。子供の魂はどれもきれいだが、老人のはくすんだ色で輝きも弱い。油汚れのようなものが付着し、奥まで染み込んでいるように見えた。魂も年季が入ると汚れていくのだろうか。思わず自分の魂と見比べた。
建物の入口から白装束の若い女が出てきた。
「ようこそプラットフォームへ。天国行きのチケットです」
表情一つ変えない女が木札を差し出した。『T302・三十二番』とある。
――てんごくゆき?
あの白い天体って天国なのか? それにしても、プラットフォームって何なんだ?
混乱しながら建物に入り、部屋の片隅に目を移すと更に驚いた。
吉田が座っていたのだ。
「課長おぉぉぉ――、どうしてここにぃぃぃ――」
吉田が泣きじゃくりながら郷原の胸に飛び込んだ。
「どうやら、オレも死んじまったようだ」
「何で課長が? 先日お会いしたときはあんなにお元気だったのに」
「色々あってな。お前のことを考えているうちに、酔っぱらってホームに落ちて電車に轢かれちまったんだ」
「それって、ぼくの営業成績が上がらないのを苦に電車に飛び込んじゃったってことですか?」
「まさかそんなことで死んだりしない。オレが自分で自分のクツヒモ踏んじまってホームに落ちたんだ。これはお前のせいじゃない。自己責任だから心配すんな」
「課長はいつもぼくをかばってくれましたよね。死んでまでかばってくれるんですね……」
営業会議で支店長に詰められるたび、タバコ部屋で励ましてもらったことを思い出しているようだ。
「いやいや、これは本当に違うんだ。とにかくお前のせいじゃないから安心しろ」
先週会ったばかりの吉田が懐かしそうに見つめていた。
「それより吉田。オレはお前になんて言って詫びたらいいか……」
「詫びる?」
神妙な顔つきで郷原を覗き込む。
「オレの指導が行き過ぎていたようだ。オレは良かれと思ってお前に厳しくしてきたが、結果的にお前を苦しめていたようだ。全く気が付かなかった。取り返しのつかないことになってしまった。オレは恥ずかしながら、パワハラの定義を理解していなかったんだ。課長失格だよな。本当に申し訳ない。この通りだ!」
郷原は膝を付き、白い地面に頭をこすりつけた。
「課長、何するんですか! やめて下さい。それに、パワハラって何のことですか?」
顔を上げると、吉田が豆鉄砲を食らった鳩のような目で立っていた。
「居酒屋でお前と飲んだ後、意気投合して元気に帰ったじゃないか。でも、あの後お前は自殺した。それが何でなのか、いまだにわかんねーんだよ」
「あの日は……、課長と別れて家に着くと、妻と母が喧嘩をし出して……」
「ちげーよ。『郷原課長についていくのはしんどいです。ぼくは疲れました』って書き残して、死んだんだよな!」
「あっ!」
吉田が何かを思い出し、いつもの軽い調子でしゃべりだす。
「なーんだ、あれですか。あれは日記の下書きですよ。誰にも言ってなかったんですけど、ぼくは会社に入ってから日記を付けていたんです。あの日は、妻と母の喧嘩がはじまったものだから、下書きの途中で気が散って、直接日記に書いたんです。だから日記の方には『でも、課長を信じてついて行きます! 今日はありがとうございました。明日のプレゼン、頑張ってきます!』と、続きを書いていますから……。いやだなぁ、課長。そんな怖い顔しないでくださいよー、誤解ですよぉー」
「はあ~~。貴様、何たわけたこと言ってんだ! 仕事もなんでも中途半端なところで終わらせやがって! その下書きのせいで、オレはお前を自殺に追い込んだ張本人になっているんだぞ。そうなることぐらい予想できなかったんか!」
「ま、まさかぁ……。えー、す、すみません……」
頭を抱えて蹲る。困ったときのいつもの吉田のポーズだ。
「シャレにならんぞ。どうしてくれるんだ!」
「そ、そ、そのときは死ぬつもりもなかったんで……」
「だったら聞くけど、じゃあお前、何で死んだんだ?」
「あの日は律子と母の喧嘩がエスカレートしたんです。――あなたは私とお母様のどっちの味方なの? ――豊ちゃん。私の言うことが聞けないの? っていう感じで……」
二人のセリフを交互に繰り返す。
「ぼくは母も妻も大切で、どっちも裏切ることができないんです。ぼくは一人で屋上に行きました。喧嘩がエキサイトすると、いつもそこに逃げるんです」
屋上には給水用の貯水槽や電気系統の配電施設が並んでいたが、入口のカギが故障していたのでいつの間にか住人の喫煙スペースになっていた。
「部屋の窓が開いていたので二人の喧嘩が屋上でもはっきり聞こえてきました。律子が食器を叩きつけ、何かを叫びながら駆け上がって来るのが聞こえてきました。屋上の手摺りに腰を付けていたぼくは、ドアが開き、律子の怒り狂った顔を見た瞬間、びっくりしてバランスを崩してしまいました。そのとき、魔がさしたというか、どうでもよくなったというか、このまま死んだら楽になれるよな。という気がして、体勢を立て直す努力をしなかったんです」
「お前っていうやつは……」
それを聞いて力が抜けた。
「オレはな、お前の中途半端なメモ書きのせいで、すっかり犯罪者のパワハラ課長になっちまったんだぞ。その上、それを苦にして電車に飛び込んだ、責任逃れのクソ課長って……、きっと明日のワイドショーは持ちきりだよ」
「そんなぁ……。ぼくのせいで課長が犯罪者だなんて。とんでもない誤解ですよ。ぼくは何てバカなことを。このままじゃ課長の名誉が……」
吉田がまた頭を抱えて蹲る。
「それよりお前の日記ってどこにあるんだよ」
「それが……」
決まり悪そうに言い淀む。
「何だよ、はっきり言えよ」
「妻や母にも言えないことを書いていたので、見つからない場所に隠してあります」
「だから、何処にだよ」
「見かけは百科事典なんですが、中に隠し場所があって。その中に……」
「しょうがねー野郎だな。何でそんな分かりにくいところに隠すんだよ」
「すみません……」
申し訳なさそうに項垂れた。
「でも少しだけホッとしたよ。オレは自分の指導のどこが間違っていたのかわからなくなって悶々としてたんだ。今まで自信を持ってやってきたことが崩れてしまってな。このまま本当のことを知らないで生きてても、一生悩みながら、十字架背負っていくしかなかったものな」
倒れかけていた自分の信念がギリギリのところで息を吹き返し、なんとかバランスを取り戻した感じだった。だが、それに続いて、投げやりな気持ちが溢れ出た。
「オレはお前と違って独身だし彼女もいない。オレが死んだって悲しむやつなんて誰もいないのさ。ワイドショーや週刊誌で、パワハラクソ課長って叩かれたって、今更どうでもいいのよ」
「でも、課長のご両親がいるでしょう」
「本当の親は子供のころ死んじまったのよ。オレは養子で育ったのさ。誰にも言ってなかったけどな」
初めてきく話に吉田の顔が険しくなった。
「両親と二つ上の兄貴の四人家族で育ったんだけど、中二のとき戸籍見たら、オレの本当の名前は田中剛志で、六歳のとき、郷原家の養子になってたのよ。しかも生みの親は二人とも同じ日に死んでいた。オレが何で養子になったのか、生みの親は何で死んだのか、何度か聞こうとしたけど、複雑な事情がある気がして聞けなかったのよ」
「複雑な事情って?」
「そりゃあ想像つくだろ。二人ともオレだけ残して同じ日に死んでんだぞ。家が火事になってオレだけ助かったとか、家族で心中したけどオレだけ生き残ったとか、考えれば考えるほど、悪いことばかり想像しちまうんだよ」
「そんなぁ……」
温室で大切に育てられた吉田は、こんなときどう答えてよいか分からないようだ。
「オレな、養子になる前の田中剛志の記憶って、まるっきりねーんだよ」
「記憶喪失ですか?」
「たぶんな。人間ってものすごい恐怖とか、思い出したくないような出来事があると、自衛本能が働いてその記憶を脳のどっかに鍵かけて、出てこねえように閉じ込めてしまうことができるのよ」
「聞いたことがあります」
「高二のときにな、唯一オレに優しかった養父が病気で死んじまったのよ」
「お母さんや兄さんとは仲良くなかったんですか?」
「兄貴なんか冷たいもんよ。中一のときだったかなぁ……、兄貴の同級生に因縁つけられてボコボコにされてるのに、遠巻きに見てるだけで知らねーふりよ」
頭の中に、思い出したくない過去が回りだす。
「養母は目が怖くてな。顔だけ笑って目の奥で監視しているような感じだよ。本人は意識してなくても子供ながらに感じるものよ。まあ、優しい両親に育てられた豊ちゃんじゃわからんかもしれんがな」
「すみません……」
「成績は良かったのよ。田舎の学校だったけど学年で一番取ったこともあったしな。とにかく早く家を出たくて、学校推薦で丸岡商事の内定もらって、卒業式の日に荷物まとめて東京に出てきたんだよ。それ以来一度も連絡してないし、向こうもしてこない。きっとせいせいしたんだよ。どこの馬の骨とも分からん子供を高校まで出したんだから、十分責任果たしたって思ってるんだよ」
「課長にそんな過去があったなんて……」
自分のことのようにショックを受けたようだ。仕事の出来は良くないが、こういう憎めないところが吉田にはある。
「こんな辛気臭い話、誰にも話すつもりなかったけど、死んじまったから解禁よ。お前にはいつも偉そうなことばかり言ってたけど、本当は意気地なしで、ひねくれ者のしょうもない男なのよ。その上、友達も少ないし、上司や信頼してた部下にも裏切られた。オレが死んだって悲しむ奴なんかいねーのさ……」
話している途中で悲しくなってきた。