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2.幽体離脱

翌週、吉田の通夜と告別式がごく限られた親族だけで行われた。

式の翌日、京王井の頭線、高井戸駅から徒歩十分の吉田の自宅に向かった。入口の郵便受けで八〇五号と確認した。喪服に黒ネクタイの郷原は、エレベーターで八階に上がり、プラスチックの簡易な表札に「吉田」と書かれてある玄関前に立った。

若い頃から営業一筋で、初対面の相手にも躊躇せず懐に入って行けたのに、さすがにインターホンを押せずにいた。適切な言葉が見つからない。何を言ったところで、空虚な言い訳にしか聞こえない。ただここは、上司としてけじめを付けなくてはならないところだ。そう言い聞かせ、震える指でインターホンを押した。

――どちら様ですか?

抑揚のない年配の女性の声がした。

「丸岡商事の郷原と申します。(ゆたか)さんの上司です。この度はこんなことになってしまい……、お詫びの言葉もございません」

とにかく頭を下げて、お悔やみだけでも述べようと覚悟を決めていた。

「ごうはら……」

考え込むような間があった。

「せっかくですが、お引き取りいただけますか。わたくしも嫁も、気持ちの整理がついておりません……」

絞り出したかのような冷たい声が通路に響く。考えてみれば当然だ。息子が遺書で名指しした男の訪問など喜ぶはずがない。

「せめてお線香の一つでもあげさせてはいただけないかと……」

「わたくしはあなたを許しません。一生、許すことはありません。豊がどんなに苦しんでいたことか……。あなた、おわかりですか?」

何も言えなかった。

「失礼ですがお一人ですか? こんなことになっても上の方は来られないのですね……」

 嫁の震える声が聞こえてきた。

憔悴しきった郷原は、持参した菓子折りを玄関ノブに掛け、重い足取りで階段を下りていく。

駅に向かって歩きながら、居酒屋でのやり取りを思い出す。

「吉田、よく聞けよ。ちゃんとやればちゃんとなるんだよ」

「また、課長の口癖ですね……」

「そうだよ、これはオレのポリシーだ」

「その肝心の “ちゃんと”が、わからないんですよ。ちゃんとやるって言う、そのやり方がわからないんです」

「ちゃんとやるやりかたなんて、いろいろあんだよ。お前のやり方で、ちゃんとやればいいんだよ」

「でも、会社にはマニュアルもあるし、勝手に何でもかんでもできませんよ」

「ばーか。そんなもん、いらねえんだよ。いいか吉田。マニュアルなんてな、営業を一度もやったことねー頭でっかちの本部ヤローが、想像で作ったものよ。所詮、なんの役にも立たんのさ」

「そうでしょうか?」

「何だよ、お前オレを疑うのか? あんなもん、読むだけ時間の無駄よ。百害有って一利なしってやつだな。オレなんか一度も見たことない。電話帳みたいな表紙見ただけでうんざりするよ」

「それ、自慢ですか?」

「自慢もクソもあるか。いいか、客だって百人いたら百人いろいろだろ。そんなの、全部が全部マニュアル通りいくわけねえだろう。相手の出方を見て、自分で考えるんだよ」

「でも課長、口では簡単におっしゃいますが、やっぱ難しいですよ。ぼくなんか、マニュアルがないと何からやっていいか、さっぱりわからないんですよ」

「難しく考えすぎなんだよ。そんなの簡単よ。何をやったら相手が喜ぶか。それだけ考えて、考えて、考えまくって行動すればいいんだよ。いちいちマニュアルなんて読んでる暇はねえんだよ!」

「何をやったら相手が喜ぶか、考えて、考えて、考えまくる……」

「そうだ、よく覚えておけ。でも、まあ、お前も若いから、今日はオレが特別にヒントを出してやろう」

そう言って得意のセールストークを披露すると、

「課長、ありがとうございます。そのトーク、頂きました!」

奴は嬉しそうに目を輝かせ、何度もセールストークを反芻していた。帰り際、吉田とがっちり握手をしてお開きにした。あの握手に嘘偽りなど微塵も感じなかった……。

駅前にコンビニがあった。

仕事で壁にぶち当たると、ビールを買って家の近くの公園で飲むことがよくあった。ネクタイを外し、靴を脱いでベンチに座り、あれこれ自問自答していると、外の空気とアルコールが気持ちを落ち着かせ、解決策が浮かぶことが多かった。

いつもの癖で缶ビールを二本買い、店先のベンチで立て続けに飲み干した。酔いが回るのがいつもより早かった。悶々としながら自問自答する。

――オレは部下の指導だけは自信を持ってやってきた。部下からも信頼されていると思っていた。でも、その部下が自殺したのだ。しかも、オレの指導について行けずと言って……。でもあの日、オレは奴としっかり握手をし、奴も嬉しそうに握り返してきた。奴の瞳には、揺るぎない自信が溢れていた。それがどうしてこんなことになったのだろう。奴と別れた後、何かあったのか?  今まで自信を持って積み重ねてきたやり方が、根底から覆されてしまったような気がした。

再びコンビニに入り、ハイボール二本とワンカップ二個を追加で買った。アルバイトの女子店員が怪訝そうな顔でレジを打つ。郷原はいつもの公園のベンチと同じよう、ネクタイを緩め、靴を脱いでベンチにあぐらをかいて飲み出した。いつもならそろそろ解決策が出てくるころだが、その日はいくら飲んでも出てこない。

 コンビニのオーナーらしき中年男が、わざとらしく咳払いをしながらベンチ周りを掃除しはじめた。我に返った郷原は、残りのワンカップを一気に飲み干すと、重い腰を上げ、ふらつく足取りで駅に向かった。

 改札を抜け、ホームのベンチに腰掛けても悶々としていた。

――わたくしはあなたを許しません。一生、許すことはありません――吉田の母の、憎しみを絞り出した声が呪文のように聴こえてきた。

田中が言ってた、パワハラという言葉が頭を過る。

オレのやってきたことはパワハラだったのか? 

疲れがドッときた。隣のベンチで若いOLがスマホゲームに熱中していた。上り線のホームに、井の頭線の小さな車両が入って来るのが見えた。先頭車両の水色のパステルカラーが吉田のワイシャツを連想させた。正面の二つの窓が、トレードマークの四角い眼鏡と重なった。

「ファオ~ン」という警笛が、「課長お~」と聞こえたような気がした。

酩酊していた郷原は、吉田が手を振りながら走ってきたような錯覚を覚えた。

「吉田ぁ~ そこにいたのかよー」

郷原は大声を出して立ち上がり、電車の近づくホームに向かって歩き出していた。スマホゲームの指を止めたOLと目が合った。恥ずかしくなって無理に足を止めたとき、外れていたクツヒモを踏んづけ大きく前のめりになった。コンビニで靴を脱いだあと、ヒモを結び直していなかったのだ。郷原はそのまま吸い込まれるように、もつれる足でホームに向かって飛び込んでいった。

後ろからOLの悲鳴が聞こえてきた。運転手の顔が引きつり、大きく口を開けるのがコマ送りで見えていた……。


次の瞬間、身体全体に大きな衝撃を感じ、空気銃で弾き飛ばされたような感じがした。

電車にまともにぶつかったはずなのに、何の痛みも感じなかった。ただ、いつも見ていた景色より、視点が五メートルぐらい高くなったような気がした。

電車が止まり、騒然としたホームで駅員があたふたしていた。駅長らしき年配の男があわただしく電話をかけ、ショックで立てなくなったOLが駅員に抱えられていた。三十代と思われる電車の運転手が、憔悴しきった顔つきでヨタヨタと現場に現れた。連絡を受けた駅前の交番の警察官が、目撃情報の聞き取りをはじめていた。

「男が勝手に飛び込んで来たんだ。俺は悪くない。ブレーキを掛けたが間に合わなかったんだ」

青ざめた運転手が涙声で警察官に訴えた。

「酔っぱらった男の人が、突然何か叫びながら、電車に飛び込んで行きました……」

真っ青になったOLは、震えが止まらない。

「何て叫んだか覚えていますか?」

「たしか……、吉田、そこにいたのか。みたいなことを……」

「吉田ですか。間違いないですね」

出てきた固有名詞をメモしていた。

ちょっと待ってくれよ、そこの姉さん! それじゃあ、オレが自分から電車に飛び込んだことになっちまうだろうが。違うんだよ。オレは酔っぱらって自分のクツヒモ踏んじまったんだよ。これは事故なんだよ!

必死に叫んだつもりだが誰も気がつかない。淡々と事情聴取が進んで行く。救急車が到着し、白衣にヘルメットの救急隊員が担架を運んできた。

そのとき、線路上に横たわる自分の死体を見た。真っ赤な血液が、泣いているかのように、両目から頬を伝って流れていた。

――オレが死んでいる……。

じゃあ、今ここで死んだオレを見ているのは誰なんだ?

郷原は混乱した。改めて自分の身体を見渡すと、全体が薄白い光に包まれ、喪服姿で宙に浮いていた。

――これが幽体離脱というやつか?

試しに頬をつねってみた。自分の身体に触れた感触があるし、はっきりと痛さも感じた。胸元に野球のボールぐらいの、黒っぽくて丸い(かたまり)がぼんやり光っていた。これが(たましい)だろうか? 

身体が軽くなり、こんな状況なのに気分がいい。

今までやってきた努力の積み重ね、仕事上の悩みやトラブル。生きているときに無意識に背負っていた小さな重石の数々が、一瞬でどこかに飛んで行ったような感覚だ。今となっては、吉田の死でさえも、些末なことに思えてきた。

死とは、こんなものなのか……。

空中に浮かぶ自分の身体がゆっくりと上昇しはじめた。高井戸駅の駅舎の屋根が真下に見えた。地上の景色がだんだん小さくなっていく。人身事故のアナウンスが次第に小さくなり、やがて何も聞こえなくなった。水平に目線を移すと、新宿の高層ビルが同じ高さに見えていた。その後ろには東京タワーのオレンジ色が輝いていた。その更に向こうには、スカイツリーのブルーの環が周期的に回っていた。東京の夜景がどんどん下になる。柔らかな風が頬をつたい、空を見上げるとゆっくりと雲が流れていた。

周りが少しだけ明るくなったときだった。

突然雲の切れ間に、見たこともない巨大な白い天体が現れた。

――何だ、あれは! 

月よりもはるかに近いすぐそばに、太陽よりもはるかに大きな天体が、空の大部分を占める大きさで浮かんでいた。

っしかし突然現れた巨大な天体に不思議と怖さは感じない。昔からそこにあるかのように、当たり前の顔で、静かに浮かんでいた。

郷原の身体が謎の天体に向かって加速しはじめた。眼下を見ると、青い地球の見慣れた日本列島が、だんだん小さくなっていく。


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