1.パワハラ疑惑
二〇二〇年――
郷原剛志は、明け方二時過ぎの着信音で起こされた。二日酔いの目をこすり、手探りでベッド脇のスマートフォンを手に取った。
支店長からだ。嫌な予感がして応答ボタンを押す。
前置きなく怒声が耳をつんざいた。
よく聞き取れなかったが、吉田が何かをしたと言っていた。
「すいません。吉田がまた、何かをしでかしましたか?」
話の状況が理解できない郷原が、たんの絡んだ声で聞き返す。
「おまえ俺の話を聞いてんのか! 吉田が自殺したんだよ。貴様の部下の吉田が! 自宅のマンションから飛び降りて即死だよ。今、警察から電話があった」
――吉田が自殺……
理解しがたい言葉が二日酔いの頭に染み込んだ。全身に粟が立ちベッドから跳ね起きた。心臓の鼓動が早打ちのメトロノームのように鳴り続く。
「ウソですよね……」
スマートフォンを持つ手が震えだす。
「警察は――郷原課長についていくのはしんどいです。ぼくは疲れました――って書かれたメモ書きがあると言っている。貴様名指しの遺書だ!」
全身の力が抜け、右手からスマートフォンが転げ落ちた。
――おい、郷原。聞いてるのか!
支店長のがなり声が、床の振動を通し静寂の部屋に響いていた。
郷原は、東京・名古屋・大阪・福岡など国内十か所に支店を持つ中堅商社の丸岡商事、東京支店食品部の課長だ。三十三歳で独身。営業成績は常にトップで、今春、東京支店の二人の同期を差し置きトップで課長になった。
東京支店の売上を牽引するやり手課長として支店長の評価も高く、面倒見のよい熱血課長として部下の信頼も厚かった。
――今回の異動で、係長に昇進することが出来ました。これも課長のご指導の賜物です。
――ぼくがあるのは課長のおかげです。課長には、足を向けて寝られません。
――課長は人生のお手本です。一生ついていきます。
関わりのあった部下が、昇進したり転勤になったりすると、感謝のメールや挨拶状がよく送られてきた。
食品部は十名で、吉田はその中で入社三年目の最若手。二年前、五歳年上の総務課のベテラン社員と結婚し、すっかり尻に敷かれていたようだが、半月前、妻がおめでただと、嬉しそうに報告を受けていた。
昨日の帰り際、大事な商談を明日に控えた吉田が、心配顔で相談してきたので、アドバイスを兼ね、居酒屋で夜の十時まで二人で飲んだ。多少説教じみたことも言ってしまったが、最後は自信に満ちた表情で、しっかり握手を交わしてお開きにしたはずだった……。
先週の残業後の帰り道、同期の田中に言われた言葉が頭を過る。
「吉田の指導、ちょっとやりすぎじゃないのか?」
「あいつは今が頑張りどきなんだ。あえて厳しく指導して成長させる。それがオレのやり方だ」
部下の指導には絶対の自信がある郷原は、係長の田中ごときにグチャグチャ言われたくなかった。
「いまどきの若いもんは結構打たれ弱いんだぞ。お前のように心臓に剛毛生えてるわけじゃないからな。パワハラで訴えられても知らねえぞ」
「パワハラ? おい田中。パワハラって言うのはな、愛のない指導のことを言うんだよ。オレのように奴のことを思って厳しく指導することは、パワハラには当たらねえんだよ。それを証拠に、今年二個下でトップで係長になった伊藤と佐々木、あいつらオレの厳しい指導に感謝してるんだぜ」
田中の横顔をウザそうに眺め、自分の持論を展開する。
「パワハラに愛もクソもあるのかよ」
田中はあきれたように言い返す。
「お前にはわからんよな。オレと伊藤や佐々木との濃密な関係はな」
「そんなもん知るかよ。お前が良かれと思ってやった指導も、吉田がどう感じているかは分からんぞ。同期としてあえて忠告するけど、パワハラの定義ぐらいしっかり勉強しておかないといつか痛い目にあうぞ」
並んで歩く田中が、いつになく真剣に忠告してきた。
「はいはい、ありがとよ、田中ちゃん。ところで、お前もセクハラ気をつけろよ。総務のエリちゃん。お前この間、一次会の帰りにこっそり誘って断られただろう。彼女、本気で嫌がってたぞ……」
うるさい忠告を半分馬鹿にして、右肘で田中のわき腹をツンツンしながら、取っておきの隠し玉を出した。
「え! お前、なんで知ってるんだ」
分かりやすく動揺した田中の顔が引きつった。
「ふ、ふ、ふ……。オレの構築した社内情報網だよ。人の振り見て我が振り直せってか」
うろたえる田中の表情に満足し、軽く手を振り地下鉄の入口階段で別れた。
郷原は考えれば考えるほど吉田の自殺を信じることができなかった。
もしかして、これはよくあるテレビ番組の真似をした、質の悪いいたずらではなかろうか。そんなことを考えながらいつもの電車に乗り、気づくと会社の前に立っていた。見慣れた警備員と目が合った。階段を上がり二階の食品部の前に立つ。時計を見ると八時半。静まり返った扉の向こうからは、物音一つ聞こえない。いつもなら、がやがやと話し声が聞こえるはずなのに……。
恐る恐るドアを開けると、一斉に視線が突き刺さる。真っ先に吉田を探すが見当たらない。一瞬ドアに視線を向けた連中は、気まずそうに下を向き、話しかけられるのを避けるかのように仕事を続けている。
明かにいつもと違う空気に耐えられなくなった郷原は、カバンを置くと席を立ちトイレに向かった。途中、給湯室から庶務課の女子社員のひそひそ話が聞こえてきた。
「郷原課長と吉田さん、昨日も二人で飲みに行ったらしいわよ。課長ったら、またいつもの調子で、散々説教したんじゃないかしら……」
背中から汗が引いた。
――これは事実なんだ!
テレビ番組の真似でも何でもない。吉田の自殺は紛れもない事実なんだ。
そう確信せざるを得なかった。しかも社員のほとんどが、すでに彼が自殺したことを知っている。
食品部に戻ると、目をつり上げた支店長が入ってきた。
「お前、昨日吉田とサシで飲みに行ったそうだな。奴に何を言ったんだ!」
昨日まで絶大な評価を受けていた支店長から罵声を浴びた。この日を境に評価が一変した。東京支店を牽引するやり手課長から、自分勝手で自己中なパワハラ課長に転げ落ちたのだ。
今回の事件が起こるまで、パワハラのことなど一切気にしていなかった。吉田とは信頼関係が出来ていると思っていた。確かに奴は抜けていて頼りないところはあったが、世話がかかる分、素直でかわいい部下だった。毎週月曜の営業会議で、支店長から見せしめのような叱責を受けるたび、喫煙所であれこれとアドバイスをしてきた。一緒に取引先に出向き、自ら頭を下げ、営業の実地指導を行ったことも数えきれないほどあった。その甲斐もあり、少しずつ成長が見えてきたところだった……。
――パワハラの定義ぐらいしっかり勉強しておけよ――田中の忠告を思い出し、今更ながらネットで検索した。「同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為」とある。
また、言ってはいけないパワハラ語録の具体例として、
・バカヤロー、何やっているんだ
・こんな仕事が出来ない奴は初めて見た
・この程度の仕事も満足にできないなんて驚いたよ
などと例示されている。
背筋に冷たいものが走った。思い当たる節がある。指導の一環と称し、同じようなことを何度も言ってきた。こんなことがパワハラになるのか。田中の言ってた通りじゃねえか……。
『郷原のこれまでのパワハラの証拠をメールで送れ。証拠を出せば、人事評価の情報収集力でプラス評価を与える』その日支店長は、東京支店のメンバーと過去に郷原と接触があった社員全員に、『人事評価の情報収集力でプラス評価を与える』のところを赤の太字で強調したメールを一斉送信した。
夕方支店長室に呼ばれた郷原は、出てきたパワハラの証拠を突き付けられた。その中には、特に目をかけてきた伊藤や佐々木のものも含まれていた。
・お前はほんと使えない奴だな!
・給料分ぐらい働け!
・この成績で明日休むのか?
・数字上げるまで帰って来るな!
・犬よりひどいな!
確かに使った覚えのある言葉もあるが、身に覚えのないものも並んでいた。
こんなことは言ってないと喉元まで出かかるが、飲み込んだ。
部下の吉田が自殺したんだ。言った言わないでこんなところで責任のなすり合いなどもってのほかだ。
「俺もお前を助けようと思ったが、こんなにも証拠が出てしまっては助けようもないな」
郷原を模範社員として褒めちぎってきた支店長が、手のひらを返したように難しい顔をした。
「これを見れば分かるよな。お前の指導が行き過ぎたんだ! 直にお前のところにも警察の事情聴取が入るだろう。いいか! この責任は全てお前だぞ!」
次の株主総会で、役員候補に名があがるこの男は、サラリーマン人生の重要な局面で降りかかったこの危機を、彼一人の責任として押し付けようとしているのが目にみえた。
「お前はパワハラのことを、何にも理解していなかったそうじゃないか。同期の田中が言ってたぞ。完全に課長失格だな。この証拠は警察と人事部に提出する。残念だがお前のサラリーマン人生は終わったな」
吉田を毎週の営業会議で見せしめのように締め上げてきたことを棚に上げ、勝ち誇ったように言い放つ。
「これで菓子折りでも買って家族に詫びてこい。お前いつも、クイックレスポンスが大事だって言ってたよな。パワハラ課長さんよ……」
財布から一万円札を取り出すと、床に落として出ていった。