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プロローグ

北海道南西部の沖合にポツリと浮かぶ島、奥尻(おくしり)(とう)がある。

島の入口に『なべつる岩』という、真ん中に穴の開いた、ドーナツ型の岩がある。ちょうど、囲炉裏(いろり)の上から吊るす、鍋の取っ手のような形をしているのでこう呼ばれているようだ。島のシンボルといわれるこの岩も、地元のものか、この島を訪れたことのあるもの以外、知るものはない。

この岩のてっぺんに、両膝を抱え空を見上げる妙な男が座っていた。擦り切れだらけのボロを纏い、黒頭巾のようなものを被っていた。逆光で島に背を向け顔の表情も(よわい)もわからないが、小柄で猫背のシルエットはどことなく身軽そうにも見えた。


二〇九一年――

「とうとうこの日が来た、あっしはこの日のために全ての手筈を打ってきた……」

男は独り(ひとり)()ちながら、空に向かって伸びをした。

文明の発展から取り残されたのどかな島の湾岸に、昔と変わらぬ磯船のエンジン音が心地よく響いていた。

男はふと、背中に視線を感じた。振り返ると向かいの小さな砂浜に、車椅子に乗った老女がこちらを見つめていた。

「ばあさん一人かい。寒いじゃろう、風邪ひいちまうぞ」

誰もいない砂浜で、一人海を見つめる老女に問いかけた。

曾孫(ひまご)に、毎日ここさ連れて来てもらって、ひなたぼっこしとるんじゃ。あたしゃあ、ここが好きでな。日が暮れるまで、毎日ここで、なべつる岩さ見とるんじゃ。それにしても、あんたあ、そんなとこさ上って、危ないじゃろうが」

遠くから見るとちっぽけでユーモラスなその岩も、近づくと高さ二十メートルはある大岩だ。ごつごつとした岩肌は、どこか不気味で怖い印象さえある。

「あっしは大丈夫じゃ。それよりばあさん、あっしの姿が見えるんかい?」

「そげなとこさ座っとったら、危なかしくってすぐにわかりおるよ。でも、あんたあ、島のもんじゃねえな。見慣れん顔してっから」

珍しい動物でも見つけたような面持ちだ。

「不思議じゃのう、この日に限って、あっしが見えるお(ひと)に会えるとはなあ……」

「何じゃって? あたしゃあ、すっかり耳が遠くてなあ」

丸まった背中を少しだけ起こし、人差し指で愛嬌のある小さな目をこすっていた。

「ん。いいんじゃ、いいんじゃ。今日のめでてぇ日に、ばあさんみてえなお人に会えて、あっしは嬉しいんじゃ」

「だども、どうやって、そげなとこ登ったんだ? えらい骨折ったべさ」

何の警戒心もない、つぶらな瞳がこちらを見つめていた。

「ばあさん、あっしのこと怖くないんかい?」

「百年以上も生きとっちゃあ、怖いもんなんて何にもねえさ。津波さ来たときは、いまだに忘れられんがな。あんたが今腰かけとる岩がすっぽり見えんくなる、おっきな波が襲って来てなぁ。みーんな波さ飲み込まれてあの世に行っちまったのよ……。あたしゃ寂しくて、早く迎えがこんかと、毎日ここで海さ見とるんよ」

今年百三歳になった老女は右手を額の上に当て、まぶしそうに太陽の光を遮った。

「そりゃあたいへんじゃったのう。それにしても、ホントにあっしのことが見えるんかい?」

「さっきから妙なこと言いよるな。そこにはっきりおるじゃねえか」

トンボをつかまえるときのように、人差し指をクルクル回していた。

「そうかあ……。じゃあ、驚かんでくさせえな。実はあっし、とうの昔に死んじまってるんですよ」

驚かないように、お道化(どけ)た調子で言ってみた。

「死んどる? そうかあ、あんたあ、死神さんですな。とうとう迎えに来たんですな。お待ち申しておりましたわ。これで、みんなのとこさ行けるんじゃな。遠いとこ、ご苦労さんでしたなあ、ありがたや、ありがたや……」

予想に反して笑みを浮かべると、両手を細かくすり合わせ、何かのまじないを唱えだした。

「いやいや、あっしは、死神ではございません」

「う? 何じゃあー。あたしゃあ、てっきりお迎えが来たのかと……」

肩を落として手を止めた。

「何か、すんまへんなあ。ご期待に沿えんくて……」

間の悪い沈黙が続く。

ポンポンポンと磯船のエンジン音だけが青い空の中に溶けていく。

――困ったなあ、そんなにがっかりせんでもいいのになあ……。

男は沈黙に耐えられなくなり、余計な話を語り出す。

「人間死んじまったら、成仏して天国行ったり、ロクでもないことばかりやってたら地獄へ落ちたりするけど、あっしのような半端もんは、どっちにも行けなくて、こうして現世を彷徨(さまよ)っているんです。まあ、俗にいう、彷徨(さまよ)い(い)幽霊(ゆうれい)っていうやつですわ」

老女は半分目を開け、なべつる岩の先の遠い海を見つめていた。

「でもばあさん、自慢じゃねえが、あっしは彷徨い幽霊の中じゃあまともなほうなんですよ。何故って? そりゃあ、天国で世話になった恩人に教えてもらった魔法の言葉、――ちゃんとやれば、ちゃんとなる――これを知っとるからですよ。この言葉、あっしの宝物なんですよ……」

老女は無表情のまま海を見つめていた。

「そうそう。たまに、ばあさんみてえに、あっしの姿が見える人に出会うんですよ。この間なんか、かわいらしいお嬢ちゃんが、あ、黒いおじさんだ。なんて、あっしを指差して言いよるんですわ。ハハハ……」

気がつくと、夢中になって話を続けていた。

「あっしは、わけあってちょいとだけ天国に行く機会がございまして、そこで恩人に出会ったんです。でも、天国なんてところは肌が合わず、結局、彷徨幽霊になっちまったんですがね……」

見上げるとウミネコの群れが空を舞っていた。太陽はまだ南西に高く、恩人が来るには時間があった。男はもっと話を聞いてもらいたくなった。

「実は今日、その恩人が天国での修業を終え、ここに戻ってこられるのです。あっしはここで恩人をお迎えし、やらなければならない大仕事があるんです。それが、あっしにできる唯一の恩返しなんです」

男の中に熱いものが込み上げた。

郷原(ごうはら)はんっていうんです。あっしの恩人。せっかくですから聞いてもらえますか? もう七十年以上も前の話になりますが……」


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