05話 本当の体質
それは、裁にとっては初めて聞く名前だった。
父は『お前を産んだ』母さん、と言い、『本当の』母さんとは言わなかった。
すぐ隣で、涙で目を腫らしているお母さんのことを思ってのことだろう。
「俺はその後すぐ、三階の部屋にいるお前のところに向かった。
病院の人からは、今は身内の人が付き添ってくれている、と聞いた。
身内と聞いて、思い浮かぶのは一人だったから、部屋に入って顔を合わせても特に驚きは無かった。
付き添ってくれていたのは、美琴の妹、
『白銀美守』
そう、お前のお母さんだ」
母の方を見ると、泣き腫らした目でこちらを伺い、小さく頷いた。
母は一息つくと、父に続いて、当時のことを話してくれた。
「その日わたしは、お父さんとお母さんの死を知らされてすぐ、葬儀の準備を進めていたの。
お父さん、学校の先生だったから、たくさんの人に見送ってもらいたかったし、見送りたいっていう人もいっぱいいたと思う。
今でも慕ってくれる先生とか、生徒だった人で、顔の広い人に、とりあえずは亡くなったことだけは知らせてもらうことにしたの。
でも、葬儀は、やっぱり身内だけで執り行うことにした。
一旦実家に帰って、遺影の写真で悩んでて、一休みしているところに、姉さんから電話があった。
夜、二十二時過ぎくらいだったと思う。
姉さんからの、最初の言葉は、『ごめんね』だった。
お父さんとお母さんのこと、わたしに全部任せてることを謝ったと思ったの。
だから、『姉さんは赤ちゃん産んだばっかりなんだから、何も気にしないで』って言った。
そしたら、姉さん、『違うの』って。
姉さんは、周りで起きたことをすべて教えてくれた。
そして、姉さんは、ある考えを持っていた。
『この子に触れた人は、たぶん、今一番我慢していることを我慢できなくなってしまうんだと思うの』
姉さんの考えは、信憑性のあるものだった。
だって、お父さんはどんなに辛くても、お母さんを手にかけるなんて、あり得なかった。
それに、正義さんのお父さんも。わたしは正義さんに憧れて警察庁に入った。だから、お義父さんのこともいろんな人から聞いていたけど、容疑者を殴るなんてことは絶対にしない人だった。
だから、わたしは姉さんの考えが正しいと信じた。
そして、姉さんは言った。
『でもね、この子が悪いんじゃないの。わたしが産んだのに、そんなことも知らなかったから、周りの人を不幸にしてしまったの。
悪いのはわたし。責任はわたしにあるの』
責任と聞いて嫌な予感がしたわたしは、病院に向かう支度をしながら、姉さんの言葉に耳を傾けた。
『この子にだって、幸せになる資格はあるの。
人に触れてはいけない。だけど、触れてもいい人だってきっといる。
そして、わたしはそんな人を、二人、知っている。
その二人がきっと、この子を守って、幸せにしてくれる。
ひとりは正義さん、そしてもうひとりは美守、あなた。
ねぇ、美守、お願いがあるの。
わたしの代わりに、正義さんと二人で、この子を守って。
この子を幸せにしてあげて?』
電話が切れるのと同時に、わたしは車のアクセルを踏んだ。
実家から病院までは車で三十分くらいだったから、着いたのは二十二時三十分くらいだったかな。
わたし、次の日に病院に行こうって思ってたの。だから、姉さんの病室を聞いていた。
三階の南側、駐車場に面していて、日当たりが良い、って言っていた。
駐車場に車を停めて、三階を見たの。そしたら、一部屋だけ電気が点いていたから、おそらくその部屋だろうって思った。
よく見ると、カーテンが動いていたから、窓が開いていると気付いた。
そして、何気なく、その部屋の下を見たの。
何かが落ちてた。
わたしは車を降りて、その何かに近寄った。
頭の中で、『見てはいけない』っていう声が聞こえたんだけど、見てしまった。
それは人だった。
頭が割れて、出血の量からも、明らかにもう生きてはいないってわかった。
それは姉さんだった。
すぐに、病院のインターホンを押して、人を呼んだの。
その病院だけど、逮捕された院長さんの身内の方が、今病院にいる人が退院するまでは、なんとか運営してくれていたみたい。
対応してくれた人に、警察への電話と、なにか、ブルーシートのようなものが欲しいとお願いした。
もらったブルーシートを持って、姉さんのところに戻って、シートをかけてあげた。
その後、病院の中に入れてもらって、三階に向かったの。
部屋に入って、ベッドの手前、赤ちゃん用のベッドにあなたが寝ていた。
お母さんの死を感じていたのか、ひどく泣いていた。
部屋がひどく冷えていたから、まずは、開いていた窓を閉めた。
次に、あなたに近寄って、抱き上げたかった。
でも、姉さんからの電話で言われていたの。
『正義さんが来るまで、近づかないでいて』って。
だから、少し離れたところに置いてあった椅子に座って、正義さんを待つことにした」
この日、このとき、裁に話すためにずっと、何度も頭の中で思い返してきたのだろうか。
母は、話を終えると、『ようやく話せた』、そんな顔をしていた。
「そしてその後、三十分後くらい、俺が病室に到着した、ってわけだ。
泣いている赤ちゃんから、わざと距離を置いて座っている美守を見て察した。
おそらく美琴から事情を聞いたんだろう。
だから、美守には、
『美琴はこの子のこと、何て言っていた』
と聞いた。
『この子に触れると、我慢ができなくなるのではないか』
という美琴の考えは、俺と同じだった。
でも、『触れてもいい』というのはなぜだろう。しかも俺と美守の二人。
俺は、病院に向かいながらずっと、今、一番我慢していることは何か、考えていた。
もしかしたら、今一番したいこと、あるいは願望かもしれない。
でも結局、何も思い浮かばなかった。一刻も早く病院にたどり着きたい、その思いが強いだけだった。
でも、なぜか、病室に入って赤ん坊のお前の顔を見たらすぐ、思い付いたことがあった。
美琴の言葉を聞いたからかもしれない。
それは、
『もしもお前が悪人に触れたら、悪事を暴けるのではないか?』
という思い。
自分勝手な願望だった。
でも、もしこれが、お前に触れたことで発現するものであれば。
俺は、人も自分も殺しはしないだろうし、誰も不幸にならないのではないか。
でも、何も知らないこの子を、『正義のため』と託つけて利用すること、それだけが気にかかるが。
もしかすると、美琴も俺がこう思うことを知っていたのかもしれない。
俺は、少し距離の離れたところにいる美守に、その思いを話してみた。
すると、美守は言った。
『あなたは、正義のためとは言え、人を利用するような人じゃない』
俺はまだ、お前に触れていなかった。
すぐ横、五十センチメートルくらいの距離に座って、お前を見ていたんだ。
はっとした。
もしかすると、『触れる』ではなく、『近づく』ことが、発現する条件なのか。
だとしたら、この子は、なんというものを与えられたのか。
果たして、この子を幸せにすることができるのか、と思った。
でも、俺はお前を抱っこした。
小さくて、温かい。紛れのない普通の赤ちゃん、そしてかけがえのない自分の息子だ。
この子を守る。
自分が、そして周りが不幸になろうと、この子だけは不幸にしないと誓った」
父は、話終えると、大きく一息吐いた。
長い台詞を終えたから、というよりは、胸のつかえが下りたかのような、そんな一息であるように感じた。
「お前の本当の体質の事、と言っても、ここまでだと憶測だが。
悪い、こんなに重い話をするつもりは無かったんだ。
ただ、俺も美守もずっと、いつかお前に話さないと、って思っていたことだった。
あとは、本当の体質のことを話すつもりだけど、これまでの話で、何か聞きたいことあるか?
産んでくれたお母さんこととか」
正直、裁は、産んでくれた母のことはあまり気にしていなかった。
なぜなら、話を聞くに、生後二日後から、今隣にいるお母さんが母なのだとわかったから。
そして、父が『正義のために僕を利用する』ということ。
たしかに、物心ついてからも、警察署の見学と称して取調べ風景を見たり(模擬だと言われていたが)、見るからに怪しい知らない人に会わされたりしていた。
では、母はどうだったのか?
僕を産んでくれたお母さん。紛らわしいから美琴さん、と呼ぶが、美琴さんは、母は触れてもいい、と言っていたらしいが、実際どうだったのだろう。
「お母さんは、僕に触れても大丈夫、だったの?」
「ぎくっ!えっと、ねぇ。気になるよねぇ?」
昭和のリアクションを口にして、母はなぜか裁から目をそらした。
「全部話すって決めたんだから、ほら、美守。話せないなら俺から話すけど?」
「わかった。ちょっとアレだけど、話す」
何がアレなのかわからないが、あまり良いことが起きなかったのか。
母は深呼吸し、心を落ち着かせると、当時の病室での続きから話をしてくれた。
「正義さんがあなたを抱っこするのを見て、わたしも覚悟を決めないと、って思ったの。
姉さんのためにも、正義さんと二人であなたを守るし、幸せにする。
そのためには、触れなくちゃ始まらないんだ、って。
わたしもね、姉さんとの電話の後、ずっと考えていたの。
今、自分が何を我慢しているか、強く思っているのかって。
最初に思っていたのは、お父さん、お母さん、そして姉さんを失ったことに対する強い悲しみ。
そして、それらを失った原因がこの赤ん坊、あなたにあるかもしれない、ということに対する気持ち。
でもこの気持ちが何なのかは、はっきりしなかった。怒りなのか、恨みなのか、恐れなのか。
でね、姉さんの、最後の言葉を思い出しているうちに、もうひとつ、思ったことがあったの。
『わたしの代わりに、正義さんと二人で、この子を守って』
姉さんはそう言った。
姉さんの代わり、つまり母親にならなくてはいけない。
そして、この赤ん坊に触れる、あるいは近づくことができるは、正義さんとわたし二人、ということ。
少なくても、仕事を続けながら育てることは不可能だろう。
でも、当時、実は仕事に関して、悩みを持っていたの。
正義さんに憧れて警察庁に入ったのは本当。
でも、警察官である正義さんへの憧れであって、警察という仕事に憧れたのではない、って気付いたの。
大学で専攻してたことを生かせると思って、化学職で入庁したんだけどね。
働き始めて、自分が思い描いたものと現実との乖離に気づくにつれて、その悩みは大きくなっていった。
だから、もしかすると、あなたに触れることで、
『仕事を辞めたい、転職したい』
っていう思いが溢れるかもしれない。
それはわたしの我慢、というよりもおそらく心の底にある願望だ。
きっと、姉さんはわたしの日々の愚痴から、こうなるだろう、と予想したんじゃないだろうか。
わたしは、覚悟を決めて、あなた、そして正義さんに近づいた。
『もしかしたら、この子に危害を加えるかもしれない。そのときは、わたしはどうなってもいいから、止めてほしい。
いずれ、この子を守れないのであれば、わたしの役目は無いのだから、そのときは姿を消す』
そう言って、正義さんからあなたを受けとったの。
初めて抱っこする赤ちゃんは、思っていたよりも温かくて、そしてあまりにも愛しかった。
思わずあなたを抱き締めた。
途端に、ある、強い思いが口から飛び出したの。
あぁ、わたしはなんてことを……」
母は、父の方を見るとすぐに手で顔を覆ってしまった。
バトンを受け取ったのか、父が代弁する。
「美守は、俺の目をじっと見つめたまま、口を開いた。
言動を見定めて、場合によっては一秒でも早く動かなければいけない。
そう身構えていた俺に、たった一言。
美守は言った。
『好き。結婚して』