232話 思惑
十月三十一日、日曜日。雛賀家のリビング。
友達の来訪を待ち望み、天照奈は朝からずっとソワソワしていた。ソワソワしながら部屋を片付け、昼食を取り、ソワソワしながらリビングで父親と談笑していると、インターホンが鳴った。
『ピンピピピンピン、ピンポーン』
「この鳴らし方、エミリ先輩だよ!」
「……やっぱり、紫乃ちゃん系かな……?」
父と玄関に向かいドアを開けると、そこには戸田エミリ、篠田彩夏、柊碧、そして三人の後ろに隠れるように稲葉葛の姿があった。
「遠いところご足労いただきまして。こっちのおじいちゃんぽいのが父です」
「ふぉっふぉ。おじいちゃんぽいって! 天照奈がいつもお世話になっております」
いつもどおりニコニコ微笑む父の表情を、天照奈は横目でチラチラと確認していた。まずは、無関係な女子二人を速やかに部屋へと案内しなければいけない。
「じゃあ、部屋に案内するね!」
天照奈の言葉を合図に、エミリと碧が「おじゃましまーす」と言いながら靴を脱ぎ始める。
葛と彩夏を残して二階に上がろうとすると、
「あの……初めまして。稲葉葛です。……三年前、天照奈さんの背後からボールを投げつけた、張本人です……」
さっきまでニコニコしていた父の表情が一変し、さっきまで和やかだった雰囲気が凍り付いた。『ちょっと、わたしたちが姿を消してから言う予定だったでしょ!?』葛のフライングに、天照奈は慌てて二人を引き連れて階段を上る。すると『お、おじゃましまーす』と、葛に付き添う予定だった彩夏も慌てて靴を脱ぎ、後に付いてきた。
仁王立ちをする父の背中と、『おい彩夏、お前……』そんな目で彩夏を一瞬だけ追いかけた葛を残し、天照奈は三人と自室に入った。
部屋のアニメグッズはクローゼットの奥底に封印していた。予定どおり、机の上の食玩フィギュアだけが残されていた。
「さて、天照奈ちゃん。まずは、出すもの出してもらおうか?」
唐突に、エミリが物騒なことを言い始める。『隠したものがあるだろう!』とでも言っているのだろうか。つまり、『隠したアニメグッズを出しなさい!』ということか。そんな推測をして身構える天照奈だったが、
「卒アルに決まってるでしょ!」
どうやら小学校と中学校の卒業アルバムをご所望らしい。だが、小学校は通信教育で、中学校は我慢の日々を過ごしてきた天照奈。アルバムという出力された思い出すら持っていなかったのだ。
「わたし、小学校は通ってなくて。それに、中学校のアルバムは先生に『いらない』と言ったので持ってません」
「なんと!? ……まぁ、仕方無いか。わたしたちは今を生きている。わたしの天照奈ちゃんは今の天照奈ちゃんだからね。過去の思い出など関係無い!」
ベッドにダイブしながら当たり前のことを言うエミリ。だが、天照奈はその言葉になぜか心を打たれた。胸の痛みは無かったから、もしかすると今の自分にとって重要な言葉だったのかもしれない……よくわからないことを考えつつ、天照奈はカーペットの上に座った。彩夏もすぐ横に座ったようだが、天照奈はその意識も目線も、立ったままの碧に向けていた。
碧は、机の上のある一点を見ていた。そう、食玩フィギュアを見ていたのだ。
エミリたちが家にやって来た思惑は他のところにあるのだが、天照奈はせっかくの機会を利用しようと考えていた。
まず、卒アルも何も無いつまらない部屋をつくる。碧が、机の上のフィギュアを見つける。少しでも負の感情を見せたら、そこで仲良くなる道筋は途絶える。何の反応も見せない、あるいは少しでも食いつきを見せたら、第二段階へと移る。エミリとともに碧の眼鏡とマスクを外させて『あれ? なんだか、フィギュアのキャラクターと似てるよね?』と言う。必ずしも、事態が良い方向に動くとは限らない。まずは少しでも動きを見るのだ。
カワイちゃんフィギュアを見つめる碧の反応を見過ごさないように、でも勘付かれないように、天照奈は横目でじっと見つめた。そして、碧のそのカワイい目が一瞬だけ大きくなったのを見逃さなかった。
だが、反応はそれだけ。碧はすぐにフィギュアから目線を外し、椅子を引くとそこに座った。
『ど、どっちなの!? ほんとこの子、何て鉄面皮してるの!? ……とりあえず第二段階に移行するとして……エミリ先輩ならすぐに本題に移るでしょ。お願いします!』
「と・こ・ろ・で、碧ちゃん? ずっとずっと、思ってたことがあるの」
「外しませんよ?」
「うんうん。その眼鏡とマスクを……え!?」
『か、かぶせてきた!? この子、なかなかどうして……』
「ちょっとくらい良いじゃーん! ね、二人も見たいよね?」
「はいはーい、見たいでーす!」
事前にエミリから協力を促されていた彩夏が雑に賛同する。
「わたしも、碧ちゃんの素顔を見てみたいな……」
天照奈も、その素顔を心から見たいという気持ちを込め、言葉にした。すると、碧の表情に揺らぎが見られた。
この状況に、碧は激しく動揺していたのだ。
『くっ……雛賀さん、そんな顔でお願いなんてズルいよ……ていうか、なんで机の上にカワイちゃんフィギュアがあるわけ!? しかもあの食玩ってクローズドパッケージで、八種類もあって位置はランダムだし、一個六百円もするの。わたしのお小遣いじゃ三個しか買えなかった! しかもカワイちゃんどころか推しゼロ……二週間前に発売されて、既にすっごい価値ついてるんだよ!
でも、雛賀さんってやっぱりアニメには興味無さそうだし……てことは前の友達にもらったとか? いやいや、発売日は転校してからだし……もしかして、自分で買った? でも、何の興味も無いのに六百円も出さないよね……姉妹もいないっぽいし……近所に面倒見てる幼子でもいるとか?
……あぁ、わからない。いや、ここでメガネとマスクを外すのは何の問題も無いんだよ? いや、無かったよ? あのフィギュアを見るまでは。だって絶対、あのフィギュアのキャラと似てるって言われるよね? 髪型なんてまんまだし、もしかして意識してる? なんてことも、主にエミリ先輩に言われて……アニメ脳を隠してたんかーい! って馬鹿にされる可能性が高い! あぁ、もう! あのフィギュア、何なの!?』
碧は決めた。この場では眼鏡とマスクを絶対に外さないことを。
「しっかしバカ面、遅いね。予想以上の雰囲気に逃げちゃったけど……あのときのこと、激しく怒られてるのかな?」
「今さら怒ることは無いと思うけど? お父さん、あのときのことを話したいって言ってたよ」
「……たぶん天照奈のお父さん、『何か考えがあったのだろう。その顔を見て改めて判断しようじゃないか!』って思ってたけど、実際会ってみたらあのバカ面でしょ? 『思ってた面と違う! やっぱりこいつは厳重注意だ!』ってなったんじゃない?」
「あらら。じゃあ、整形するしか無いじゃーん!」
「整形はしないっすよ!?」
ツッコミとともに葛が部屋に入ってきた。その顔は、いつもの生徒会室と同じ、対エミリボケ用のそれだった。何を話していたのか、その表情から読むことはできない。
「バカ面、何を話してたの?」
「……注意されただけだ」
「そのバカ面、けしからん! って?」
「この面ってけしからんの!? ……ちゃんと反省してるって、誠心誠意で話した。そしたら、『うむ』って言ってくれた」
「良かった! ……んだよね?」
「お父さんの『うむ』に悪い意味は含まれないからね。じゃあ、わたしも教室で会話できるね!」
「それなんだけど……前科持ちの印象なんて悪くなっても良くはならないだろ? たとえ雛賀が俺のことを許してくれても、俺のバカ面がそれを許さない」
「じゃあ、やっぱり整形しか無いじゃーん!」
「……俺は、このままで良いんすよ。雛賀の親父さんに許してもらっただけでも、俺自身かなりすっきりしたし。それに、雛賀が話しかけてくれるだけで嬉しいし」
「よしよし。じゃあ、雛賀邸に来た目的の一つは達成だね」
「……他はどうなんすか?」
「うん。葛の罪は滅んだ。天照奈ちゃんのアルバムは果たされなかった。そしてもう一つ、碧ちゃんの素顔。なかなか難航してんのよ、これが!」
「本人の前で目的を明かすって……最悪、無理矢理にでも外すんすか?」
「男手もあるし、四対一ならいけるっしょ!」
エミリの物騒な言葉に、椅子に座っていた碧が動いた。だがそれよりも速く立ち上がったエミリは、出入り口のドアの前に立ち塞がる。
「逃がしません!」
少し考える素振り見せた碧は振り返り、一直線に窓へと走った。
「うそーん! ここ、二階だよ!」
窓を開けると、だが約四メートル下のコンクリートで固められた地面を見て諦めたのか。碧はまたさっきまでと同様に椅子に座った。
「あのさ、エミリパイセンだけに見せりゃ良いんじゃね?」
「やーん、さっすが葛! 碧ちゃん、それでどう?」
「……しぶしぶ了」
両手を挙げて喜ぶエミリは、そのままドアの前に立ち膝になった。碧はエミリの前に向かうと、他の三人に背を向けて立ち膝になった。
「それでは、ご開帳!」
エミリの合図で、碧はその眼鏡とマスクを外した。当然だが、天照奈からはその横顔すら見えない。
「きゃーっ!」
エミリが奇声を上げると、碧はすぐに外したものを付け直した。そして、何も無かったかのように、さっき座っていた椅子に戻る。一方でエミリは、さきほどの光景を反芻しつつ記憶しているのか、顔を手で覆って固まっている。
「ぐふふ……げへへ……思ったとおり、超可愛いんだけど!」
「エミリパイセン、超気持ち悪いっすよ?」
「はぁ、はぁ……もしもこの先、わたしにつらいことがあったら。災厄が訪れたら。今日のことを思い出して頑張ります!」
「何の決意表明!?」
「可愛い子三人に囲まれるなんてわたし、幸せすぎるんだけど! ……ていうか葛、あんたはわたしも含めて四人に囲まれて……何て欲張りなの?」
「そっすね。運が良いみたいっす」
「……まぁ、そのおバカ面で可愛い度を中和してるのかもね。神様も、一箇所の可愛い度が百を超えないように調節してるんだよ」
「可愛い度!? みんながいくつで俺はマイナスいくつ?」
「……ところでさ、碧ちゃんて、そこのフィギュアの子にそっくりだよね!」
『キタ!』天照奈はあきらめかけていた作戦を思い出した。ここで碧が取る反応によっては、まだ思惑の続きが望めるのだ。
「あぁ、俺もあのフィギュアは気になってたんすよ。人気アニメのキャラってのはわかるけど、なんで雛賀が持ってんのかなって」
『こら、そこ! 余計な疑問を持つんじゃない!』
「そういえば天照奈ちゃん、意外にもアニメ観るって言ってたもんね。もしかしてあのキャラクターが好きなの?」
『こっちに話を振るの? ……でも、そうだよね。アニメ好きを隠すとか、碧ちゃんと仲良くなりたいとか、今はそんなの関係無い。カワイちゃんが好きなのかって聞かれたんだ。そんなの、答えは一つしか無いよね』
「……はい。わたし、カワイちゃんが大好きなんです!」
言った途端に恥ずかしくなり、天照奈は手で顔を覆った。碧の顔を見ることなどできなかった。
すると、真っ赤になったその耳は、信じられない言葉を聞いた。
「わたし、帰ります」
驚いて碧を見ると、既に立ち上がったところで、部屋から走り出てしまった。
『終わった……さよなら……』天照奈はカワイい背中に別れを告げた。
「急にどうしちゃったんだろう?」
「アニメのキャラに似てるなんて言ったからじゃないですか?」
「えー? 可愛いんだから良いじゃん!」
「可愛いし人気キャラみたいですけど。でも、碧がそれを好きとは限らないですもん」
「そっか……じゃあ今後、碧ちゃんの前でこのキャラの話をすることを禁ずる!」
碧と仲良くなる道が、完全に閉ざされた瞬間。天照奈は人知れず、涙を流していた。
――「たまらず帰っちゃったけど……ちょっと待って、嘘でしょ? 雛賀さん、カワイちゃんのことが大好きなの!? しかも、カワイちゃんって呼ぶってことは本当の本当に好きってことだよね?
……あぁ、こんなことがあるのね。まさかあの美少女と共通の『好き』があって、それがカワイちゃんだなんて……はぁ……急に帰るなんて、最悪な印象持たれただろうな。だって、あの場にいたら『わたしも大好き!』って大爆発して、超早口マシンガンで雛賀さんを撃ち殺してたと思う……きっと、エミリ先輩たちはドン引きしただろうし。それに、カワイちゃんのファンって多いんだよね。その中には『にわか』だって多い。近年の美少女キャラの中でも上位を争う可愛さだもん。
昨日もカワイちゃんTシャツを着てる美少女を見つけたんだけど……話しかけたけど、全然目を合わせようとしなかったから……キモいって思われたんだよね……
雛賀さんの言う大好きと、わたしの大好きにはきっと、温度差がある。だけど……雛賀さんは『大好き』って言った。チラッと見えた耳が赤くなってた。にわかかもしれない。でも、好きなことには違いないんだ。
……わたしも、好きなものは好きと言えば良いだけだ。早口にならないように、わたしの思いを伝えるんだ。でもちゃんと、雛賀さんのペースに、温度に合わせよう。
よし。今日はこのまま帰る。明日、急に帰ったことをみんなに謝って、そして、雛賀さんにこう伝えるんだ。
『わたし、柊碧も、カワイちゃんのことが大好きです!』」