223話 初めてのお昼休み
『愛称で呼んだなら、これ即ちズッ友です!』
これは誰の言葉だったろうか。どこかの国の偉い人が言っていたような……いや、偉い人はそんなことは言わないか。
天照奈は、頭を振るとそんな考えを放り出した。この前、幼なじみの男の子が『クロキサイ』という名前だと知ったが、結局名前を呼ぶことは無かった。
転校してからは、まだ人の名前を呼んだことが無い。天照奈は、まずは目の前の篠田彩夏をどう呼ぶべきか、考えてみた。なんとなく、さん付けは嫌だし、呼び捨てるのも得意じゃない気がする。とすると、篠田ちゃんもおかしいから……自ずと一択に絞られた。
「あのさ。彩夏ちゃん、って呼んでも良い?」
「もちろん! じゃあ、あたしは……天照奈って呼びたいな!」
「呼び捨てかよ」
「あんたは黙れ。あたし、『さん』とか『ちゃん』とか付けるの好きじゃないんだよね」
彩夏は、見た目としゃべり方どおりの性格のようだ。きっと、嘘を付くことも嫌うに違いない。
「もちろん、良いよ! 下の名前で呼んでもらえると嬉しいから、たぶん、前もそうだったんだと思う」
「前?」
「あ、いや……ところで彩夏ちゃん、クラス違うよね?」
「そうなんだよねぇ。また一緒のクラスになれないって、よほど縁が無いんかね。って、友達になれたから関係無いか。めっちゃ嬉しいんだけど!」
「友達……?」
「え? 名前で呼んだら、これ即ち友達じゃないの?」
やはり、どこかの偉い人が言った言葉なのかもしれない。放り出した考えを拾うと、頭の片隅に戻した。
「ところで、天照奈ってさ……」
「俺は!?」
彩夏が何かを言おうとすると、おバカ面、稲葉葛がつっこみとともに割り込んできた。
「俺は何て呼ばれて、何て呼んだら良いわけ!? ずっと待ってたんだけど?」
「バカ面と呼ばれて雛賀様と呼ぶ。終わり」
「雑! バカ面で呼ばれるのは良いとして、雛賀様!? あ、いや……やけにしっくりくるなこれ……」
「はい決定」
「ちょっと待って、さすがにそれだとわたしが嫌なんだけど?」
呼び方はおバカ面でも良いとして、雛賀様とは呼ばれたくない。『カワイ』と言われるよりはマシだが、さすがに様を付けられるのは嫌だ。
「そりゃそうだろうが。俺に『彩夏様』なんて呼ばれて嬉しいか?」
「ぶっ殺す」
「だろ? え、ぶっ殺すほど嫌なの? ……これまでどおり雛賀って呼ばせてくれ。って、口にしたのは今日が初めてだけどな」
口には、と言うことは、どこかでは呼んでいたのだろうか。どうしよう、『キモい』と言ってあげたいけど、さすがに悪いかな……天照奈がうずうずと悩んでいると、
「お前、口にしたこと無いのにこれまでどおりって……もしかして、いつも天照奈のこと考えてたのか? 妄想の中で雛賀って呼んでたのか。キモっ!」
おお、代弁してくれた……代弁……大便? なぜか大便のことを考えてしまい、天照奈は頭を振ってその大便を放り出した。さすがに大便を拾うことは二度と無いだろう。
するとここで、
「……注目、浴びちゃってるね。あたし、教室戻るよ。天照奈、またね!」
なぜかおバカ面の肩に右ストレートをくらわせると、彩夏は逃げるように教室を出て行った。
「痛ぇな。ったく、あいつは……」
おバカ面も、何と呼ばれるかを決めないまま、自分の席に戻って行った。
彩夏も、そしておバカ面も、少し表情が暗いのが気になった。もしかすると、二人とも聞いていたのかもしれない。
天照奈は二人と話している間ずっと、クラスメイトのヒソヒソ話も聞いていた。そしてそれは、これまでに聞いたものとは違うものだった。
「何であいつが雛賀さんと話してるわけ?」
「もはやデリカシーの問題じゃ無いよね」
「雛賀さん、自分を殺そうとしたヤツとまた同じクラスなんて、可哀想……」
「でも、あんなやつと話してあげるなんて。雛賀さん、可愛いだけじゃなくて優しいんだね!」
「進学校に入ればあいつと離れられると思ったのに……なんであのバカ面で勉強できるわけ?」
「関わらなきゃ良いだけだよ。でもさ、なんであの女までここにいるわけ?」
「隣のクラスのくせにね」
「わたし、あの人苦手なんだよねぇ」
「わかる。威圧感すごいし口悪いし。ねぇ、聞いた?」
「うんうん、二組のあの子の話でしょ? ひどいよねぇ」
「あんなことしてよく学校に来れるよね」
「あの女にも関わらなきゃ良いだけだよ」
「でもさ、初めて話しかけてきたのがあの二人なんて……雛賀さん、可哀想」
「じゃあ、わたしたちも早くお近づきに……」
天照奈は、このヒソヒソ話を聞きながら「友達九人なんて言ったけど、もしかしたら二人で打ち止めかな……」と思っていた。
少なくとも、同じようなヒソヒソ話をしていた十数人とは気が合わないだろう。だが、おかげで、どうやって友達をつくっていけば良いかわかった。おバカ面、彩夏と仲が良い人と友達になれば良いのだ。
友達の友達は友達。いや、ズッ友のズッ友はズッ友だったか、相棒の相棒は相棒だったか。いや、何のことだろう。
初めてまともに授業を受けると、なぜかずっと物足りなく感じた。それでも、復習をするにはちょうど良い時間だった。ずっと、黒板と教科書を眺めて、記憶の中の知識との整合を確認していた。
午前中の授業が終わると、お昼休みになった。
初日は午前中だけで帰宅し、二回目はほとんどを保健室で過ごした。実質、この学校で過ごす初めてのお昼休み。カバンから今朝つくったお弁当を取り出すと、机の上に置き、教室内を見回した。
校内に学食は無いようだが、パン、おにぎりの販売はしているらしい。財布を片手に教室を出る生徒たち、机をくっつけ始める生徒たち、一人黙々と弁当を食べ始める生徒たち。
さて、どうしようか。考えようとしたそのとき、
「お、雛賀、手作りか?」
おバカ面が話しかけてきたのだ。いつもなら気配と足音で人が近づくのを察知できるのだが……まだ二回目とは言え、この男はいつも不意に話しかけてくるのだった。
「うん。バカ面……おバカ面くんは?」
「やっぱ俺、バカ面で確定!? しかも、『お』をつけりゃ良いってもんじゃないだろ」
「そうなの? じゃあ……否バカ面くんとか?」
「バカ面を否定してくれた!? って、それ、俺の本名じゃん。名前にバカ面が入ってると思ったら、ちゃんと否定もしてくれてるじゃん! サンキュー、今気付いたわ!」
おバカ面は、心から嬉しそうに、そのおバカ面をくしゃくしゃにして笑っていた。面は別として、その気持ちの良い笑顔に、天照奈もなぜか嬉しくなった。
「でも、おバカ面くんも否バカ面くんも、長いから嫌だな。他に名前無いの?」
「本名はいつも一つ! だろうが。え、なに、名前が二つある人もいるわけ?」
「ごめん、他にニックネームとか無いのかなって」
「あぁ……俺も、ほとんど友達いないからな……」
俺も、ということは、わたしにも友達がいないとでも思われているのだろうか。前の高校に友達が八人いたという事実を伝えてやろうかと思った天照奈だったが、
「誰も呼んでくれないけど、俺、葛って名前好きだからさ……下の名前で呼んで欲しい、な」
少し耳を赤くして言うおバカ面に、
「ふふっ。よろしくね、葛くん!」
笑顔でそう言うと、葛はその顔全体を真っ赤にしたのであった。
そんな葛に連れられて来たのは、生徒会室だった。
驚くことに、このおバカ面……葛は、生徒会の書記を務めているらしいのだ。
「俺が悪いんだけどさ、雛賀の一件でかなりの悪党扱いされてんだ。そんな俺を更生させる意味も込めて、書記にさせられたってわけ」
そんな書記の葛は、いつも生徒会室で弁当を食べているという。
部屋には長机四つがくっつけられた打合せスペースがあるだけ。パイプ椅子の一つを引いた葛に、
「どうぞ、雛賀様」
と言われたので、天照奈はその隣の椅子を引いてそこに座ってあげた。
目を見開く葛を無視していると、部屋の外、ドアの前に人が立つ気配を感じたので、目を向ける。
ドアを開けて入って来たのは女子生徒だった。ウェーブがかかった金色の長い髪。鼻筋が整っており、その瞳は綺麗な青色をしていた。
「あ、エミリ先輩、こんにちわっす!」
エミリ先輩と呼ばれたその女子生徒は、天照奈を一瞥すると、何も言わずに二人の対面に座った。
「……誰?」
『WHO?』という英語が飛び出しそうな風貌だったが、日本語の発音からも、どうやら日本育ちのようだ。
「転校生の雛賀天照奈さんっす。この人は戸田エミリ先輩。お母さんがあっち系の人なんだってさ。こう見えて生徒会の副会長なんだぜ?」
「どう見えるわけ? しかもあっち系ってどっち系だよ。てかさ……もしかしてこの子、例の、バカ面のアレなわけ?」
「……です」
「ふーん。ま、そんなのはどうでも良いわ。てかあんたさ、なんでじじ臭い眼鏡かけてるわけ?」
「えっと、呪われた顔面……じゃなくて、諸事情ありまして……」
「そ。でもさ、全っ然隠せてないからね?」
「え、もしかして……カワイらしさのことですか?」
「そうそう、超可愛いんだけど! 可愛過ぎるから顔を隠してるんだろうけど。やーん、隠せてナイナイ!」
超カワイ、カワイ過ぎる……しかも、それを隠していることもバレた。この先輩、なかなか鋭い人間のようだ。
「眼鏡のチョイスは絶妙だね。そのジジ臭さが可愛いさをちょっとだけど隠せてる。まぁ、わたしの目はごまかせないけどね」
さすがは父のファッションセンス。教えてあげたらきっと喜ぶだろう。
「エミリ先輩、無類の可愛いもの好きだからな!」
「あんたは可愛さのかけらも無いけど、良くやった! これからも毎日ここに来てよね、天照奈ちゃん!」
「は、はい……」
「そうだ、運命の出会いをした記念にさ、一緒にお」
「お風呂には入りませんよ?」
なぜか咄嗟に、反射的に口から出た言葉だった。「へ?」と口を開いたまま止まるエミリよりも、天照奈自身が驚いていた。
「……一緒にお好み焼き食べに行こうって思ったんだけど……え、お風呂?」
「あ、えっと…………そう、前の高校の友達が、事あるたびに『一緒にお風呂に入りたい』って言ってきたんです。その子、中身は女の子だけどからだは男の子だったから……いつも全力でかぶせるように断ってたので、つい!」
友達の一人を変人扱いしてしまった天照奈。だが不思議と、罪悪感は一切無かった。もしかすると、本当にそんな友達がいたのかもしれない。そうでもなければ、咄嗟にあんな言葉も出ないし、こんな言い訳だって思いつくことも無さそうなのだから。
しかし……「生徒会室に誘われて本当に良かった」天照奈は弁当の蓋を開けながらそう思っていた。なぜなら、教室で弁当を食べるときにマスクを外すかどうか、迷っていたのだ。
カワイらしさを隠すためのマスク。外すと大きな騒ぎを引き起こすに違いない。マスクをしたままの食事も可能だと思うのだが、友達をつくるためにも変な人だとは思われたくない。
でも、生徒会室ならこの二人しか見ていないのだから、マスクを外しても問題無いだろう。
「!?」
天照奈がマスクを外すと、エミリは目と口を稼働限界までかっ開いて一時停止した。かけ慣れない眼鏡も外し、呪われたカワイを全解放したのだから無理も無いだろう。
「きゃーっ! 予想以上の可愛さなんだけど!? 何、この美少女、国宝級!? そりゃ、隠さないと世界中がパニックになるわ。わたし史上最大の衝撃なんだけど!? これ、もしかして拝観料必要? でも、わたしたちもう友達だよね? 友達割引、適用されるよね? ね?」
拝観料のことは全くわからないが、わたしたちは友達になったらしい。
嬉しいのと同時に、目の前でパニック気味のエミリを見て、改めて「この顔、隠さないと大変なことになるんだな……」と思った天照奈だった。