218話 かけがえのないもの
裁は、棒立ちのままで固まった足を無理矢理に動かすと、玄関へと向かった。
そこには、目出し帽とサングラスを身に付けた紫乃の姿があった。
「紫乃くん、君も来ていたのか・・・それにしても、なぜまだ目出し帽なんて被っている?完全に治ったはずだろう?」
「えぇ。ラブくんに封じ込めてもらいましたからね。おかげさまで、目出し帽を被っていたときの嫌な思い出すらありませんよ?」
「・・・話も聞いていたんだね?なら、君も一緒に考えてあげると良い。紫乃くん、君のその普通をどうするか。裁の責任の所在を一緒に考えてあげることはできるだろう?」
「・・・だから、なめないでって言ってるでしょ!?わたしは取り戻したい。例えこの先にどんなつらいことが待っていても、どんな我慢が待っていても。
・・・今のこのつらさ、痛みを超えるものはきっと訪れない。そう、これはきっと、わたしにとっての災厄なんです。最大の、最悪の災厄がわたしに訪れたのです。
思い出そうとしても思い出せないことが多すぎる。モヤモヤ、モヤモヤ・・・ずっと、ずっとモヤモヤしているんです。わたしの心はずっと、便秘なんですよ?封じ込められたかけがえのないものが、出たくても出てこれない。出したくても出せないんです!
初めは、何かがすっぽりと抜け落ちたような感覚でした。でも、あるんです。心のどこかにある。それが出せないから苦しいし、痛いんですよ!
完全な普通を手に入れた?普通ってなんですか?この痛みに耐えて、いつかこの生活に慣れて?痛みが消えればそれ即ち普通?
バカ言ってんじゃありませんよ!封じ込められたこの何かが普通なんです。わたしにとっての普通を、かけがえのないものを勝手に封じ込めないでよ!!」
「あぁ、そうか・・・わたしは、また間違った方向に走っていたのか・・・。誠志、お前にもよく怒られたな・・・。わたしの普通は、人とは違っていた。だから、誠志がわたしに普通を感じさせてくれた。ときには叱って、わたしを普通に導いてくれていたんだ・・・あぁ・・・すまん・・・・・・ごめん、誠志。わたしは、お前への思いを背負っていたのに、ただ封じ込めようと、目を背けようとしたんだ・・・・・・お前もきっと、言ってくれただろうな。『バカなこと言ってんじゃねぇよ』って・・・あぁ・・あぁ!!」
祖父はその場に膝を付き、涙を流した。
初めての涙。紫乃に大事な友達を重ねたのだろう。
その友達への謝罪の気持ちが、目から溢れたのだろう。
紫乃はずっと、祖父の頭を撫でていた。
手袋で覆われたその手からでも、優しさ、温かさを感じることができる。それは、裁もよく知っていた。
感情が落ち着くと、祖父は少し微笑み、帰って行った。
いつもの『くくっ』ではなく、それも、初めて見る本当の笑みだった。
腕を組みその笑顔を睨み送った紫乃に、裁は質問した。
「紫乃ちゃん・・・どうしてここに?」
「俺が声をかけたんだ。俺も、もしかすると一度解放した体質は二度と封印できないんじゃないかって考えた。だから、最後まで悩んだんだが・・・
『裁も苦しんでいる』
それだけを伝えることにした。後は紫乃に任せるなんて、無責任なことをしてしまったが・・・」
「全くですよ!・・・事情は全て聞きました。でも、わたし、サイくんのこともろくに思い出せないんですからね?それで、裁も苦しんでいる?なんのこっちゃですよ。でも・・・ただでさえ痛い胸が、さらに痛くなって・・・大便を我慢していたら小便までしたくなった。そんな感覚を覚えたんです」
「お前のその大便中便小便話は封じ込められなかったんだな」
「生理現象ですからね。封じ込めても次から次へと湧いてくるものなのです」
「・・・でも、紫乃ちゃん。もう一度よく考えてほしい。今の紫乃ちゃんの体質は、封じ込められて、治っている。これまでに抱いてきたいろんな思いも、だけど。でも、天照奈ちゃんはいないけど・・・僕たちは、これまでどおり一緒にいることはできる。だから・・・」
「あなたも、バカ言わないの。それとも、わたしのことをバカにしたいの?ただの虚勢であんなことを言うわけが無いでしょう?そりゃ、わたしは虚勢張りでしたよ。自分を安心させたくて、いつも強がりばかり。自分の弱い部分を隠してきた。
でもね、今のわたしは、自分の弱い部分も封じ込められているんです・・・たぶん。
だから、今のわたしには虚勢を張る理由なんて無い。わたしが言ったことは、紛れもなく本心なんです。それにね・・・紫音が、すごく悲しい顔をするようになったんです。きっと、紫音に対する違和感さえも封じ込められたに違いありません。
でも、わかるんです。泣いているんです。紫音だけじゃありません。サイくんも、他のみんなも・・・心の中に封じ込められたみんなが泣いているのが伝わってくるんです。だから・・・サイくん。元の、普通のわたしに戻して?ねぇ、お願い・・・」
サングラスの奥で泣き始めた紫乃。
肌を覆って駆け付けたのは、音波で危害を受ける体質に戻るという決意の表れなのだろう。
そんな紫乃の決意を受け取り、そして、近づくことで解放される重荷を受け持つことをあらためて決意し、裁は近づいた。
だが、一歩近づくと、紫乃は二歩後ずさりした。
「・・・紫乃ちゃん?」
「あはは・・・なんだか、サイくんに近づきたくなくて、無意識に離れちゃいました」
「おそらく、じいさんの体質だろう。裁に近づかないように言われたんだろうな」
「じゃあ、どうする?」
「無理矢理しかないだろう」
「お?じゃあ、バッ」
「バックドロップするな!しかも、相良は紫乃に触れてくれるな!紫乃のこの決意が封じ込められたらどうするんだ!?」
「おお、すまん・・・」
「相良も、何かを感じたらすぐに触れるように言われているからな。仕方が無い・・・でも、バックドロップを出そうとしたのは久しぶりに面白かったけどな」
「わたし、お墓に封じ込められちゃいますけど!?」
「くくっ・・・じゃあ、俺が無理矢理近づけてやる。良いな?」
「・・・わかりました。でも、サイくん。目を瞑ってもらっても良いですか?」
「目を?でもそれじゃあ、解放はされない・・・」
「散々格好つけておいて、実は虚勢を張っていたことに気が付きました。まずは、サイくんに近付きたい。いろいろと封じ込められてから、あなたに近付くことも無くなった。
・・・紫音に言われたんです。わたしの特等席は、サイくんの横だった、って」
裁は、紫乃の言うとおり、目を瞑った。目を瞑っても、そこには三人の姿を感知できた。
皇輝に押されるように、紫乃が近付いてきた。
特等席を探しているのか、正面から右手方向にぐるりと回り、そして、左手の横に落ち着いた。
すぐに、左手が触られる感覚があった。紫乃が両手で握ってきたのだ。
・・・すっかり忘れていた、紫乃の温もりだった。このことを、裁も忘れていたのかもしれない。
そう、紫乃はいつも、左側にべったりとくっついていた。『左側が落ち着くんです』と言い、可愛い笑顔と、温もりを与えてくれていた。
もしかすると、目を閉じることで、自分の内にある蓋が開けられたのかもしれない。
そう、全てを思い出したのだ。
ある日を境に、紫乃は自分から距離を取るようになった。
天照奈とはいつも一緒にいたが、いつもとは何かが違っていた。その何かは、日に日に大きくなっていった。
同時に、二人の表情が、何かを我慢するようなつらいもの。そして、悲しいものへと変わっていった。
それに気付くこともできなかったなんて・・・。
でも、幸い、封じ込められていたのはその違和感だけだったようだ。
紫乃の温もりは、ただ、時間が経って忘れていただけのもの。そして、紫乃の特等席のことも。
同時に、思い出した。
・・・自分のその左側を居心地が良いと言ってくれた、もう一人の存在のことを。
気が付くと、涙が流れていたようだ。
左手を握ってくれていた両手のうち、紫乃は左手だけを離し、その手で頭を撫でてくれた。
さらに大量の、大粒の涙が頬を流れ落ちた。
「サイくん。目を開けて下さい」
紫乃の声が、右耳に優しく響いた。
「でも・・・」
「特等席に着いて、触れてみて、わかりました。この場所が、わたしの普通なんです。だから、目を開けて下さい」
「・・・」
「ふふっ。目を開けないのなら、それでも良いですよ?目を開けるまでずっとここに居座ってあげます。何をするときもここにいます。
だとしたら・・・きゃっ!お風呂も一緒に入ることになりますよ?でも、同性だから平気ですかね。さすがに女の子とは入れませんけどね」
お風呂欲も封じ込められていた紫乃。
その優しい言葉に、裁は目を開けた。
いつの間にか、紫乃の頭部を覆っていたものは外されていた。
そこにあったのは、いつもの笑顔だった。
いつもの、普通の笑顔。
普通の、でも、優しくて可愛い笑顔だった。
「ただいま!」
笑顔でそう言う紫乃に、裁は、
「おかえり!」
と、笑顔で返した。
普通が、いつもの日常が帰ってきた。
その夜。
明日は土曜日だからと、三人はアパートに泊まることになった。
今後のことを、裁と遅くまで一緒に考えた。
皇輝が見ていた限り、紫乃と天照奈以外の封じ込めはそれほど深刻ではないという。
『裁と同じように、違和感だけが封じ込められているのだろう』そう言っていた。
まず、不動堂と朱音は、その体質を含めて解放する必要が無いと結論付けた。
次に、彩。相良と接触する機会がほとんど無かった彩は、ただ祖父の体質に『裁と接触をしないこと』と言われたに違いない。
その操作だけを消すことができれば良いのだ。その体質を解放する必要は無いだろう。
体質を治すことを希望しなかった太一、そして綱は、封じ込められた違和感を消すかどうかだけ。
だから、本人に確認した上で判断することにした。
そして、相良。
口では言わないが、ずっと申し訳無さそうな、悲しい顔をしていた。
「相棒の全力のバックドロップを受ける。それで許してくれないか?」
謎の罪滅ぼしに、
「今度こそ死ぬもしれませんよ?」
という紫乃の脅し。だが、
「だからこそだ。みんなに死ぬほど辛い思いをさせたんだ。地獄に落とす勢いでぶん投げてくれ!がはは!」
そう言って笑っていた。
最後に、天照奈のこと。
誰も、天照奈の体質、思いを解放すべきだとは口にしなかった。
わかっているのだ。天照奈にとって、普通の体質がどれほど重要なものなのか。
何者も触れることができない。だから、その身に何か起こったとしても、誰も天照奈を助けることができない。
極端な例だと、屋上から落ちそうになってかろうじて片手で手すりにしがみついている天照奈を、誰も引き上げることができないのだ。
幸い、これまでは何も起きなかった。でも、天照奈の心情を考えると、今の普通の体質でいるのが一番良いと思える。
かけがえのない思いが封じ込められて、今は激しい胸の痛みに耐えていることだろう。
でも、普通に生活をして、普通の友達ができたら、いつかその思いも上書きされるんじゃないか。
体質に、裁に守られる自分をどのように捉えていたかはわからない。
そんな思いは、でも、封じ込められたままの方が良い。中にはそんな思いもたくさんあるのだ。
「サイくん。天照奈ちゃんに会うべきです。ここばかりは、わたしたちは手も口も、大便も出せません。わたしたちはきっと、天照奈ちゃんを、都合の良い方に後押ししてしまうだけ。
サイくんだけに押し付けるのは心苦しいですが・・・天照奈ちゃんの、そしてサイくんのことを思うと、これが最善でしょう」
明日、天照奈に会いに行く。
それを決めると、紫乃は、『まだお風呂に天照奈ちゃんの名残があるはずです!ぴゅーっ!』と言い残し、二階へと姿を消したのだった。