212話 あの日に戻っただけ
個人端末をバッグに入れると、帰りにSクラスを覗いてみた。
もしかしたら皇輝がいるかもしれないと思ったが、隣の紫音の席共々、空席だった。
彩のこと、あわよくば天照奈のことを何か聞けないかと思ったが、おそらくアルバイトなのだろう。
そういえば、ここ最近お昼も集まらないし、見かけることも無かった気がする。
少し前に授業料の話をしていたから、おそらく貯金が底をついて、また忙しくなったのだろう。
アパートに戻ると自室に入り、少しの間何もせず、何も考えずにただ机に向かった。
十八時五分前になると、玄関で普段着に着替えた。
今日から自炊をしなくてはいけないのだ。
買い物袋と財布だけを持つと、スーパーへと向かった。
スーパーには十八時ちょうどに到着した。
人目を気にして、天照奈とは、初めの数回しか一緒に買い物をしたことが無かった。
太一から、お店にも『天照奈はもう来ない』という情報が入ったのだろう。
いつも天照奈が訪れていた時間だが、天照奈シフトが取られることも、参拝客が集う様子も見られなかった。ただの、普通のスーパーに戻っていた。
だけど、きっと、太一の心遣いだろう。買おうと思っていた鳥のモモ肉に、割引シールが貼られていた。
これを機に、食べる量を減らしてみよう。そう思い、だが食費のことを考えて、大量に購入して冷凍保存することにした。
いつも買い物袋をいっぱいにして帰ってきた天照奈。
きっと、ひどく重かったに違いない。
自分はただの大食らいで、迷惑ばかりかけていた。
結局、天照奈の身には何も起きなかったから、何の役に立つこともできなかったのだ。
部屋に戻ると、冷蔵庫に食材を入れようとした。
だがそこには既に大量の食材が入っていて、買ったものを入れるスペースが無かった。
天照奈が入れていってくれたのだろう。
最後まで気を遣わせてしまった。
そう、天照奈は決して、薄情ではないのだ。
これが最善だったのだ。
普通に生活するには、普通じゃない自分と一緒にいてはいけない。
誰よりも気遣いができる天照奈は、きっと、初めて自分のことを考えて行動したのではないか。
昨日までの日常。普通。
普通だと思っていたけど、普通ではなかったのだ。
ただそう感じていただけ。みんなでそう感じさせ合っていただけだったのだ。
でも、みんなはこれから、本当の普通を感じることができるだろう。
そして、自分は・・・
そうだ。あの日に戻っただけ。
天照奈と出会う一日前。
中学校の卒業式の日。本当の体質を教えられた日。
犠牲の上に立って生きていることを知り、自己責任で悪に立ち向かおうと決意した、あの日に。
部屋のインターホンが鳴り、我に返った。
食材を袋から出さないまま、キッチンに膝をつき、ただ泣いていた。
カメラを見ると、そこには母の姿が映っていた。
そうだ、家に帰るんだった・・・。
涙をふき、心を落ち着かせると、玄関へと向かった。
「はーい!元気?・・・じゃ、ないよね。天照奈ちゃんのことはすごく残念だけど・・・でも、天照奈ちゃんのためだから、仕方無いよね」
「・・・うん」
「夕飯どうしよっか?買い物して、ここで食べていく?それとも途中で何か買って食べようか?」
「今日帰るの忘れてて、食材いっぱい買っちゃったんだ。でも、冷蔵庫に入らなくて・・・」
「そっか・・・でもちょうど良かったよ。料理するから、食べて帰ろ?」
母を手伝いながら、鳥の唐揚げと味噌汁の作り方を教わった。
すっかり天照奈の料理の味に慣れていたから、母の味を懐かしく感じた。
夕飯を済ませると、母と洗いものをして、帰路へついた。
車の中では、天照奈の話題は一切出ることが無かった。
十月三日、日曜日。昼食をとるとすぐに、アパートへと帰ることになった。
父が用意した仕事は、土曜日の午前中のうちに終わっていた。仕事と言っても、裁はただ目を瞑って父の後ろを歩き、父の合図で目を開ける。それを数回繰り返しただけだった。
結局、天照奈に会うことはできなかった。
それでも昨日、天照奈の父、雛賀のじいさんには会うことができたのだった。
――じいさんは開口一番、
「すまなかったね・・・」
そう言った。
「いえ、天照奈ちゃんのためですから。これで良かったんだと思います」
「そう言ってくれると助かるよ・・・」
「天照奈ちゃんは元気ですか?と言っても一昨日会ったばかりですけど」
「あぁ・・・いや、実を言うとね、元気とは言えない。昨日、転入初日だったんだが、気分が悪くなったらしくてな。午前中で帰ったらしいんだ」
「・・・環境が激変したからでしょうか。それに、サングラスとマスクを着けて登校するって聞きました」
「そうだな。新たな環境での生活に加えて、『普通の生活』が始まったんだ。人に触れられるというのもしばらくは慣れないことだろう。それに、自分で決めたこととは言え、友達と別れて・・・」
「・・・今日は何をしているのですか?」
「昨日帰ってから、今もずっと、部屋に閉じ籠っていてね。部屋を出るのはトイレだけで、昨日は夕食も取らなかった」
「・・・心配ですね」
「いずれ、この生活が普通だと感じるだろう。わたしとしてはサイP少年に会ってもらいたいのだが、天照奈がそれを嫌がるだろうな」
「・・・会いたくないと言っているのですか?」
「そうは言っていない。でもね、何も言わずに別れることを望んだんだ。ただの半年とはいえずっと一緒にいた君にだぞ?よほどの決意があったに違いない。だから親として、あの子のその思いを汲んであげたいんだよ」
「・・・わかりました。無いとは思いますが、もしも僕・・・いや、天照台高校の友達のことを聞かれたら、『みんな寂しがってるけど元気だよ』と伝えてください」
「あぁ、わかった」
――帰りは、父が運転をしてくれた。
父は、薬の投与までの経緯を説明してくれた。
「九月中旬くらいかな。上司から、『紫乃ちゃんの体質が治ったらしい』と聞いた。そしてそれは、東條グループが開発した薬によるものだ、とも。でも、その情報は誰にも言わないようにと強く言われた。特に、裁には言うなと釘を刺された」
「・・・僕が、自分の体質も治してほしいと言うかもしれないから?」
「たぶん、そうだろうな。でもそのときにはまだ、他の特殊体質に効果があることはわかっていなかったけどな。まぁ、何か予感でもしていたんだろうさ」
「それで・・・天照奈ちゃんが被験者に?」
「あぁ。そこの経緯は詳しく聞いてないんだが・・・天照奈ちゃん、何かあったのか?『自分の体質に守られているだけ』なんて、そんなこと前までは言ってなかったよな?」
「人の感情をも跳ね返すことを知ったからかもしれない」
「なるほどな。それで、治っても、たとえ治らなくても、天照奈ちゃんにデメリットは無いから、被験者の役を買って出てくれた。結果、天照奈ちゃんには何者も触れるようになった。俺もどさくさに紛れて触った」
「・・・無事ここにいるってことは訴えられなかったんだね」
「まぁな。って、俺、触るだけでも罪になるの?」
「他の人は?」
「それは、電話で話したとおり、紫乃ちゃんがお前以外の特殊体質持ちに声をかけてくれたらしいぞ?」
「全然気付かなかった・・・どこで投薬したの?」
「いつもの施設だよ。注射とか想像するだろ?でも、まさかの飲み薬だ。ただ自分で飲むだけだからな」
「・・・みんな、普通に戻って良かった・・・」
「戻ったって言っても、ほとんどが生まれつきか物心付く前のやつだからな。初めて普通になれた、って言い方が正しいな」
「でもみんな、喜んではいなかったって聞いたけど・・・」
「あぁ。みんな、お前には内緒にするよう言われていたからな。後ろめたい気持ちでもあったんだろうな・・・みんな、良いやつだよな」
「うん・・・」
アパートに到着すると、父は部屋にも入らずに帰っていった。
誰もいない部屋に入ると、ついつい『ただいま』と言ってしまう。
『おかえり!どうだった?また変なことさせられた?』
笑顔とともに出迎えてくれる元同居人の姿を一瞬だけ思い浮かべ、少し流れた涙を拭った。
部屋に荷物を置くとすぐにキッチンへと向かい、夕飯をつくることにした。
初めての自炊。
集中しないと地獄味をつくりあげてしまう。
良かった。料理をしている間は、余計なことを考えずに済むだろう。
本当に、良かった。
二週間が過ぎた。
あれから、裁自身で変わったことと言えば、自炊をするようになったことと、そのために、いつもより起きる時間が早くなったことだけ。
起床して、朝御飯をつくって食べて、学校に行って、授業を受けて、お昼に三人で弁当を食べて、休み時間にはたまに友達と話をして、帰って、買い物に行って、夕飯をつくって食べて、勉強をして、寝る。
ただそれを繰り返した。
同居人がいなくなっただけで、他の友達とは普通に会話をして過ごしている。
友達で変わったこと。
以前と同じように、皇輝が起きている姿を見ることが無くなった。アルバイトで忙しいのだろう。
学校に来るといつも席へとやって来た紫音が、来なくなった。同居人のことを思い出させないように、紫乃から厳しく言われているのだろう。
みんなで集まることが無くなった。普通を感じ合う必要が無くなったからだろう。
みんなの笑顔が変わった。これは、気のせいだろう。笑顔はいつも見るのだ。きっと、それを見る自分に問題があるのだ。
みんな、何かを我慢しているように見えた。みんな、同じものを失ったからだろう。
それでも、相良だけは全く変わらなかった。
今朝も、
「おお、相棒。さっき、すんげぇの出たんだぜ?」
紫乃の代わりと言わんばかりの大便トークを繰り広げていた。
ここにだけ、これまでの普通が残っているようで、少し安心できた。
でも、この安心も、いずれ感じなくなるだろう。
今の日常が普通になるから。
振り返らず、今の普通を生きるのだから。
その夜のことだった。
一人で夕食を取り、洗い物を済ませると、珍しくテレビを観たいと思った。
チャンネルをまわすと、あるアニメ番組で手が止まった。
何やらお嬢様言葉を使う女の子が、敵と思われる集団をそのオーラだけで一蹴していた。
そして、立ち上がることができない敵に向かって言い放った。
『だって、わたくしの美しさ、国宝級ですもの!』
かつての同居人の笑顔を思い出した。
彼女は、国宝級美少女と言われることを受け入れなかった。でも、『アニメのヒロインの決め台詞と同じ』。そう言って、笑顔で受け入れていた。
今、別の場所で、このアニメを観ているのだろうか。
二週間経ったけど、元気でやっているだろうか。
共通の趣味を持つ友達ができていれば良いな。
もう、とっくに涙は尽きたと思ったのに、また溢れてきた。
仕方が無い。たぶん紫乃が言っていたけれど、特殊体質持ちの男はみんな泣き虫なのだ。
大人しく、涙が流れるままにしていると、携帯電話が鳴った。
画面には非通知と表示されていた。
怪しいとは一切思わず、何かを期待して通話ボタンを押した。
「・・・わたし、です・・・」
二週間前まで、毎日、誰よりも聞いた声。
ずっと聞いていたい、綺麗で優しくて温かいその声。
間違えるわけがない。
それは、天照奈の声だった。