211話 もう二度と訪れない日常
黒木裁は、起床すると洗面所で顔を洗い、リビングへと向かった。
ドアの向こうからは、いつもの朝と同じ、ご飯が炊けた良い匂いが漂っていた。
ドアを開けると、だが、いつもとは違うことに気が付いた。
十月一日、金曜日。
その日、裁を取り囲む環境が一変した。
カーテンが閉められた薄暗い部屋。
テーブルの上には、ラップがかけられた朝食が置かれているのが見える。
いつもキッチンにいるはずの天照奈の姿は見られなかった。
朝食だけ用意して二階へと戻ったのだろうか。それとも、まだ早すぎる時間だが、学校に向かったのか。
自室に戻ると、携帯電話の電源を入れた。
そこには誰からも、何のメッセージも入っていなかった。
テーブルに戻ると、三合の白飯がよそわれた大きなご飯茶碗の下に、何かが挟まっているのに気付いた。
嫌な予感がしつつも、その何かを引き抜いた。
それは、折り畳まれたA4サイズの紙だった。
その紙を開くと、中を見た。
そこには天照奈からのメッセージが書かれていた。
直筆ではなく、パソコンで入力して出力したものだった。
フォントサイズは十二くらい。行間をたっぷりと取ったその文章は、天照奈の口調で、簡潔に書かれていた。
紫乃ちゃんのお父さんが、特殊能力を治す薬を開発したの。
わたしの体質は、普通に戻りました。
裁くんに、そして体質に守られるだけのわたしはいなくなりました。
本当の、普通の生活を送りたいと思ってしまいました。
わたし、天照台高校をやめます。
裁くんの前からいなくなります。
直接伝えることができなくてごめんなさい。
さようなら。
あまりの突然の出来事を信じられず、裁は階段を駆け上った。自重のことは気にせず、走った。
初めて立ち入った二階。一階と同じ間取りだが、階段下の物置スペースが無いようだった。
人の気配が全く無い廊下。まずはリビングに入ってみた。
綺麗なフローリングが、カーテンの無い窓から差し込む光を反射していた。
天照奈の部屋にも入ってみた。ドアが開け放たれていたから、ノックはしなかった。
こちらも、綺麗なフローリングを覆うものは何も置かれていなかった。
住人も、家具も無い空間だけがそこにはあった。
「こんな別れって、そんなの、無いよ・・・」
すぐに、天照奈に電話をかけてみた。
『・・・番号は、現在使用されていません』
機械の音声がそう教えてくれた。
メッセージなら。そう思い、アプリを起動した。
昨日まで、一日に何度もやりとりをしていたトーク画面を見ると、『今日は唐揚げね!』というメッセージの下に、『雛賀天照奈は退室しました』と表示がされていた。
完全に、自分の前からいなくなってしまったのだ。
何が起きたかをまだ把握できずにいると、携帯電話が鳴った。それは、父からの着信だった。
「・・・天照奈ちゃんの置き手紙、見たか?・・・黙ってて悪かったな。天照奈ちゃんもずっと、伝えようとしていたみたいなんだ・・・でも、別れがつらかったんだろう」
「・・・薬って何のこと?」
「東條グループが開発したんだ。もともとは紫乃ちゃんの体質を治すためのものだった。そしてその薬は、他の特殊体質をも治せることがわかった。その被験者となったのが天照奈ちゃんだ。
『わたしの体質は、自分を守るだけのもの。どうせこの先、裁くんを守ることなんてできない・・・』
俺もその場に立ち会ったんだが、薬を投与されるときにそう呟いて、ひどく悲しい顔してたっけな・・・。
天照奈ちゃん、今日からこっちの高校に通うそうだ。美少女すぎて騒ぎにならないように、常にマスクとサングラスで忍ぶんだと!ぎゃははっ!・・・というわけで、急に一人での生活になったが、大丈夫か?」
「その薬・・・他の人たちは?」
「あぁ。紫乃ちゃんが知る限りの特殊体質持ちに声をかけたらしい。相良武勇と清水野太一を残して、全員が普通の体質に戻ったらしい」
「・・・何で、僕は知らなかったの?」
「そりゃ、お前のその体質は必要だからだろう?」
「必要・・・?」
「悪に立ち向かうんだろ?しっかりしてくれよ。この前連絡したとおり、明日の土曜日に仕事があるから。今日の夜、母さんが迎えに行くからな?」
「・・・そっちで、天照奈ちゃんには会えるのかな?」
「どうだろうな。ゲンさんを通じて聞いてはみるけど。・・・こんな別れをするぐらいだから、期待はするな。じゃあな」
『プーッ、プーッ・・・』
静かな空間に、切断された機械音だけが響いた。
一階に戻ると、一人で朝食を取った。
昨日の夜、いつもと変わらず二人で囲んだ食卓。
昨日の夜まで、何も変わらずに、普通に会話をしていたはずなのに。
昨日の夜、別れ際に見たのが、最後の笑顔になってしまった。
もう、あの日常は戻らない。そう思うと、涙が溢れてきた。
涙を流しながら、大好きな笑顔を思い浮かべながら、味噌汁で白飯を喉に流し込んだ。
制服に着替えると、いつもと同じ時間にアパートを出た。
「行ってきます」
いつも一本後のバスに乗る天照奈は、大きな弁当箱を手渡し、『行ってらっしゃい』と見送ってくれた。
もう、その声を聞くことも、その表情を見ることもできないのだ。
バス停に到着すると、以前と同じ時間のバスに乗った。
紫音の騒ぎも落ち着き、今日からバスでの登下校が再開したのだった。
いつもと同じ時間に自席に着くと、いつもと同じように、隣の席の西望寺朱音に挨拶をした。
朱音は伏し目がちに挨拶と返すと、
「天照奈さんのこと、わたくしも知っていたのですが・・・申し訳ありません」
「ううん。知られたくなかったんでしょ?さすが天照奈ちゃんだよね。全く気付かなかった・・・ところで、みんなの体質が戻ったって聞いたけど?」
「えぇ。天照奈さんの体質が普通になってから、わたくしたちも望んで、普通になりましたの。ラブさんと太一さんは、日常生活に支障が無いからと、希望しませんでしたが」
「そっか。みんな、良かった・・・」
「クロサイさんは・・・大丈夫ですの?」
「うん、大丈夫だよ」
「クロサイさんを残して、すみません・・・何かお困りのことがあれば言ってくださいね」
「ありがとう・・・」
お昼休み。キッチンに用意されていた最後のお弁当箱。それを持って、いつもの場所へと向かった。
そこに集まったのは、相良と太一だけだった。
「裁くん、ごめんね。僕たちはこれまでどおりなんだけど・・・ほら、人に迷惑をかけるものでも、我慢するものでも無いから。普通を望まなかったんだ」
「普通を与える側だもんね」
「おぉ、俺は相棒を置いてけぼりになんてしないぜ?」
「ありがとう・・・あのさ、太一くん。紫乃ちゃんは?」
「うん・・・天照奈ちゃんがいなくなって寂しいのかな・・・しばらく一人にしてほしいって」
「そっか・・・紫音ちゃんはアイドル活動が忙しい時期って言ってたしね。あと、皇輝くんは?体質、普通に戻ったんだよね?」
「うん。体質を治すかどうかは最後まで迷ってたらしいんだ。でも、『俺はきっと、正の感情だけを持つことはできない・・・』って、悲しい顔をしてた」
「そっか・・・皇輝くんなりの考えがあるんだろうね」
「ところで相棒、明日からの弁当はどうするんだ?」
「あ・・・そうなんだよね。でも、実は天照奈ちゃんが料理するのをたまに見てたから、できないことはないと思うんだ」
「裁くん・・・地獄だけは勘弁してね?」
「さすがに地獄を知ってるから、足を踏み入れた時点で気付くと思う。外には出さないよ」
「でも・・・なんだか、寂しくなっちゃうね。裁くん・・・大丈夫?」
「・・・大丈夫だよ?だって、みんなが望んだことだから。これまで感じていた普通じゃなくて、本当の普通を・・・」
休み時間、不動堂に話しかけた。
「裁、ごめんな・・・。俺なんかの体質がどうなろうと全く関係無いだろうけど・・・」
「冬華ちゃんは?・・・あ、そうか、特殊な体質では無かったね」
「そうだけど・・・実は、今回みんなが普通に戻ったこと。そして、天照奈ちゃんがみんなの前からいなくなることを知ってさ・・・編入やめようかなって、そう言ってた」
「冬華ちゃんなりに、僕たちにできることを考えていたのかもしれないね。でも、みんな普通に戻った。それに、高校に通わなくても、不動堂くんがいるし、紫乃ちゃん、朱音ちゃんとも連絡を取り合ってるみたいだし」
「裁は、大丈夫か?」
「うん、ありがとう。みんなに言われるけど、大丈夫、だよ・・・」
「何かあったら言ってくれよな?俺たちはいなくならないから。天照奈ちゃんの穴を埋めることなんて、できないだろうけど・・・」
最後の授業が終わるとすぐ、荷物を持たずに天クラスへと向かった。
教室に入るといつも、まずは天照奈の後ろ姿を見つけた。でも今日は、天照奈の席を見ると、そこには誰の姿も見られなかった。
本当に、いなくなってしまったんだな・・・
空席を見てその思いが増し、またも涙が溢れそうになった。
なんとか我慢をして、向かって左端の席で荷物をまとめる紫乃に声をかけた。
体質が治った紫乃は、頭部が何物にも覆われておらず、手袋も着けていなかった。
「紫乃ちゃん、体質が治って良かったね」
「サイくん!・・・うん。まさかそんな薬の開発が成功するなんて思いもしませんでしたよ」
「副作用とかは無かったの?」
「えぇ。投薬したのは二週間前ですけど、あれからすこぶる健康ですよ!快便続きですし」
「そっか。あと、天照奈ちゃんのことだけど・・・」
「わたしの前でその女の話はやめてください。もう、思い出したくありませんので」
「・・・え?」
「なんて薄情な女なのでしょう。わたしの前はまだ良いとしても・・・サイくんの前から、あんな簡単にいなくなるなんて・・・」
「紫乃ちゃんも、連絡はできないの?」
「たぶん、サイくんと一緒です。だから、もう良いのです。しかも思い出すと何だか胸が締め付けられるような・・・たぶん憤りなのでしょう。痛いから、嫌なのです」
「そんな・・・あんなに仲良かったのに」
「同じ穴の狢。傷を舐めあってたに過ぎないのでしょう?・・・いたたっ・・・ダメなんです。怒りという刃が心の壁を破って出てきそうです。痛すぎて涙も出そうになるんですよ?ということで、こんな話はやめましょう」
「・・・彩ちゃんのことは、何か知ってる?」
「えぇ。みんなの投薬にはわたしも立ち会いましたので。サイちゃんに限っては、誰もが普通に戻ることを勧めました」
「それはそうだよね。じゃあ、みんなの姿を見ることができるんだね。良かった」
「でも、みんな・・・何でしょう。嬉しいのですが、何か心につかえているものがあるというか・・・誰もが心から喜ぶことは無かったんです・・・」
「それは・・・僕のせい?それとも、あて」
「サイくんを思ってのことでしょうね。安心してください。わたしたちはサイくんの前からいなくなることはありませんから」
「・・・ありがとう」
天クラスから出ると自席に戻り、復習をする振りをしながら少し考え事をした。
先ほど話したばかりの紫乃のことだった。
あれほど天照奈ちゃんと仲が良かったのに。
朱音ちゃんと話すことも増えたけど、それでも、学校ではほとんどいつも、天照奈にべったりくっついていた。
『薄情な女』
自分が知らないところで何かがあったのだろう。たとえ黙っていなくなったとしても、紫乃の口からそんな言葉が出るはずがないのだから。
裁は願った。
これがサプライズだったら良いのに。
家に帰ったら、何食わぬ顔をした天照奈ちゃんが出迎えてくれる。
今日いなかった紫音ちゃん、皇輝くんも、参謀として部屋の中で笑っている。
『大成功ですね!』
少し悪い、でもいつもの笑顔で、紫乃たちがやって来る。
そうでなければ、夢だったなら良いのに。
目が覚めたら、いつもどおり天照奈ちゃんがいて、みんなと普通に楽しく過ごす。
嫌だ。
まだ、こんなところで振り返りたくない。
あの普通の日常が幸せだったなんて、思い返したくない。
だって、思い返すということは、失ったということだから。
もう二度と訪れない日常だと認めることになるから。