02話 バスジャック
バス停は、家を出てほんの二分くらいの距離にあった。
バス停に着くと、既に五人ほど並んでいた。
物心がついてからは、人との距離をとるのが普通だった裁。バス停に並ぶ人達とも自然と距離を置いてしまう。
最後尾から二メートルほど離れたところに立っていたところ、後から来た三人に前に並ばれてしまった。
心を決めて、列に入ろうとしたところでバスが到着した。
始発の次の停留所であるためか、まだ一人しか乗車していなかった。
並んでいた人たち、約十人はみな椅子に座れた。
裁が最後に乗車すると、後方の前向きシートはほぼ埋まっていた。
そのため、空いていた前方の横向きシートに座った。
裁が座った、出入り口がある側にはもう一人、ランドセルを背負った小学生。
そして対面側には高校生と思われる男子生徒が一人座っていた。
それぞれ、少し離れているものの、いずれも一メートル弱しか離れていない。
初めての距離感に、発車後しばらくは落ち着かなかった。
初の普通の登校。でも、普通と感じるにはまだまだ時間がかかりそうだな、と思っていたそのときだった。
バスが発車してから一分も経っていないだろう。
対面に座っていた男子高校生が立ち上がると、バッグから何やら取り出す。
そして、前方、運転席に向かって歩き始めた。
走行中は席を立たないように、という運転手のアナウンスも無視する男子高校生。
運転手の横に立つと、手に取っていたものを運転手に向けた。
窓から入る光を反射したそのモノを運転手の首にあて、男子高校生は運転手に何やら怒鳴り声をあげた。
「おい、バス停めたら殺すからな」
その怒鳴り声に、バスの乗客は一斉に運転席を見た。
一部の人はヘッドフォンをつけて音楽を聞いているためか、気づいていないようだが。
そんな車内の様子は一切気にしていない男子高校生は、手にしたモノをこちらに向けると、また、怒鳴るような大声で話した。
「はい、注目!バスジャックでーす! いやー、やってみたかったんだよね。みんな見てるぅ? 二階席ー! は無いか。今この瞬間、バスに乗っていた人、ご愁傷さまです」
こいつは何を言っているんだろう、と呆けながら、手にしたモノをよく見る。
それは、折り畳みナイフのようだった。
バスジャックにはちょっと頼りないような、とも思うが、もちろん刺されたら致命傷を負うだろう。
「お茶の間にも注目してもらうには、やっぱり、人質が必要だと思うんだよね。ということで、まずは立候補する人! ……いませんよね! じゃあ推薦でもいいですよー。いませんかー。じゃあ僕から」
バスの中を後部座席の方から見渡すと、最後に前方の二人に目がいった。隣の小学生は、よくわからない風に口を開けて見ている。
と、男子高校生と目があった。
嫌な予感がする。でも、こんな美魔女のような変な格好してるやつを人質になんかとるか……と思ったところで、裁ははっとする。
バス停に並んでいるとき、人の視線に耐えきれずに首から上のモノを全部取っていたのだった。
よって、裁の見た目はごく普通の男子中学生なのであった。
「ははっ。小学生だとやっぱり可哀想だし、そこの男子中学生でいいや。こっちおいで」
ナイフを持った手で、まるで子犬を呼ぶような仕草で裁を呼んでいる。
わけのわからない状況にただただ戸惑っていると、男子高校生は強い口調に変わり、早く来るよう催促した。
初の一人での登校、初のバス乗車、初のバスジャック、初の人質……
初めて尽くしの展開。もしかしたら初の死なんてことも……と考えていると、ふと、警察官の父の姿が走馬灯のように頭に流れた。
小道具を準備し、モノボケを繰り広げる父。
夕飯時、顔中にテープを貼って裁を笑わせようとするも、裁の見ないふり作戦により一切触れられず、夕食を食べ損ねた父。
母から『ピザって十回言って』と言われ、答えを予想して『ひじ』と十回言ったところ、じゃあここは?と母に膝を指されて『ひじ』と答えてしまう父。
「いや、そこは警察官の格好して人を守ってる姿が出てくるところじゃない?あ、でもそんな父さんの姿見たことないっけ」
頭の中で走馬灯につっこんだ。
男子高校生の催促が激しくならないうちに、あきらめて人質になることを決意した。
歩み始めると、ものの四歩で到着してしまう。
「いらっしゃーい。じゃあ、とりあえず後ろ見て立ち膝になってくれる?」
言われたとおりにする。
「次は手を頭の後ろで組んで」
言われたとおりにする。
「なに? 手袋なんかつけて、潔癖性? とりあえずそれ外してから、手を組もうか」
言われたとおりに手袋を外すと、上着のポケットに入れ、素肌となった手を頭の後ろで組んだ。
すると、背中になにか軽い衝撃を感じ、同時に小さな呻き声が聞こえた。
振り返ると、男子高校生は右足のつま先を押さえて痛そうにしている。
「硬っ! 痛いなー、なに? 背中に鉄板でも仕込んでるの? いや、人の背中なんか蹴ったことなかったから、ただわからなかっただけかな……ちっ、蹴って損した」
どうやら背中を蹴られたらしい。ただ、あまり衝撃を感じなかったのは、おそらく上着の素材が特殊で頑丈なものだったからではないか、と裁は推測した。
「まぁいいや。じゃあ次は、やっぱり『重傷者一名』とか、ニュースのテロップに流れると盛り上がるよね?
てことで、可哀想だけどしょうがない。そこの小学生、こっちおいで」
にこにこしながら、またもや子犬を呼ぶように小学生に手招きしている。
小学生は首をブンブン振り、拒絶している。
「ほら、怖くないよ。実はポケットにビスケットが入ってるんだ。さ、おいで」
小学生はこれでもかと首を振る。
男子高校生はイライラしてきたのか、ナイフを持った手をさらに突きだし、手招きをした。
ナイフを持つ手は、裁が頭の後ろで組んでいる右手の膝、じゃなくてひじのすぐ横にあり、当たるんじゃないかとヒヤヒヤしていた。
だが、油断している今なら、もしかしたら手首を掴めば止められるのでは?そう思うのと手が動くのは同時だった。
右手で、ナイフを持った男子高校生の右手首を掴む。
すると、何しやがる、という怒鳴り声と共に、裁の手を剥がそうとした。
腕力に自信のない裁は、とりあえず渾身の力で、その手首を握った。
すると、
『パキャッ!』
何かが折れるような音が聞こえた。
それはすぐに、自分が握った男子高校生の手首から聞こえたのだとわかった。
男子高校生は、呻き声と共にナイフを落とし、その場に崩れ落ちた。
そして、あろうことか泣き出したのだ。
その右手をみると、手首の骨が折れたのか、骨が皮膚を貫通し、出血している。
裁の握った手首が砕けたのだ。
男子高校生の手首が滅茶苦茶弱かったのか、あるいは握りどころが絶妙だったのか……
普通に考えて、握力三十八キログラムの裁にそんなことができるとは考えられない。
いや、もしかすると火事場の馬鹿力というやつだろうか。
人生初が続く中、小学生の命を救おうと無我夢中で握ったのだ。そんな力が発揮されてもおかしくない状況だった。
右の手のひらを見ると、男子高校生の血が微量であるがついていた。
血をハンカチで拭うと、念のため、手袋をつけた。
男子高校生を見ると、痛みによるものか、砕けた手首と出血を見てのショックからか、失神していた。
その様子を確認したのか、運転手はすぐに減速すると、バスを道路の路側に寄せて停車した。
停車して間も無く、出入り口に男性の姿が現れた。
手にした何かを提示しながら、ドアを開けるようジェスチャーしていた。
ドアが開くと、男性は「警察です」と言いながら、警察手帳だろうか、を掲げ、中に入った。
なんと、その男は裁の父、正義だった。
父は、中に入ると車内を見回した。
状況を察したのか、立ち膝をしたままの裁のところへと歩むと、裁の肩に手を置き、
「大変だったな……」
と声をかけたのだった。