196話 負の感情
他人の顔を見ると、その人がわたしに抱く負の感情が聞こえてくる。
それが、わたしが生まれながらに持った体質だった。
せめて逆なら、聞こえてくるのが正の感情だったなら、どんなに良かったことか。
ずっとずっと、そう思ってきた。
わたしに正の感情を抱く人などいないかもしれない。でもそれならそれで、何も聞こえてこないのだ。
普通の人と同じ。口から出る言葉しか聞こえてこないのだから。
自身の体質を認識したのは、小学四年生のときだった。
我が家では、十歳の誕生日に、一族の体質のことが伝えられる。なぜ十歳なのかは教えられなかったが、おそらく自身が抱えたそれが、良いものか悪いものか、メリットかデメリットかを判別できるようになる年齢なのだろう。
わたしには、二人のお兄さまがいる。二つ上の光兄さまと、一つ上の優希兄さま。
光兄さまは極めて目が良かった。視力検査ではいつも余裕の二で、でも実は、六もあるのだと言う。
物事を観察する能力にも長けていて、その目の良さと相まって、人の表情から些細な感情の変化をも読み取れるのだと言う。
優希兄さまは鼻が良かった。自分の部屋にいても、夕食の献立を言い当てることができた。嫌な臭いもはっきり嗅ぐことができるのがデメリットらしいが、人の感情の変化というのも、少しだが嗅ぎとることができるのだと言う。
そして、わたしの体質。
それまで、わたしはそれが普通だと思って生きてきた。
人から聞こえるのは、口から出る言葉と、その顔から聞こえてくる言葉。
そしてその二つは、同じときもあるけれど、ほとんどが違う言葉で聞こえてくる。
どちらが正しい言葉なのかはわからないけれど、顔から聞こえてくる言葉は、わたしを息苦しくさせた。
だから、口から出る言葉が正しいものなのだと思っていた。
それが普通だと思っていたから、わたしはみんなに何も言わなかったし、何も聞かなかった。
口から聞こえる言葉には、口で答えた。顔から聞こえる言葉は、思い浮かべることで答えた。
だから、みんな、わたしがそんな体質を抱えていることなど知らなかった。
人の感情の変化に敏感なお兄さまたちも、わたしのその感情が通常だからか、気付くことはなかった。
『何か、人と違うと感じることは無いか?』
その日、お父さまがそう聞いてきた。
お兄さまたちみたいに、人よりも優れたところはありません。人より劣っているところも無いと思います。
わたしはそう答えた。
両親は、どこか安心した表情をしていた。
お兄さまたちも、同じ表情で小さく頷いていた。きっと、わたしの表情、臭いからも、嘘を言っていないと判断したのだろう。
でも、みんなのその表情と聞こえてくる言葉は、やはり違うものだった。
せっかくだったから、その場で、わたしはみんなに聞いてみた。
ずっと気になっていたけれど、誰も教えてくれなかったこと。それはきっと常識的なことだから、聞くのが恥ずかしかったのだ。
ねぇ、どっちが本当なの?口から出る言葉と、聞こえてくる言葉。
聞こえてくる言葉は、聞くとちょっと嫌な気分になるんだよね。
わたしの言葉で、みんなの表情が変わった。
お父さまは、わたしに聞いてきた。
『これまで、そして今、どんな言葉が聞こえてくるのか?』
わたしは答えた。
これまで聞こえてきた言葉。
『生まれながらにお金持ちってずるい』
『お金持ちだから頭も良いし運動もできるんだ』
『お金持ちだから可愛いんだ』
『人の顔を見て嫌な顔をする。お金持ちだから見下してるんだ』
『性格が悪い』
『嫌い』
たった今、みんなから聞こえてくる言葉。
『人の心が読めるというのか?なんて恐ろしい体質なんだ・・・』
『もしかして、悪口だけが聞こえるのか?そんな体質、デメリットしか無いじゃないか・・・』
『なんて可哀想なんだ・・・』
みんなの表情が大きく変わった。
お母さまは、涙を流して、わたしを抱き締めた。
『ごめんね。こんな体質に産んでしまって、ごめんね』
お母さまはずっと謝っていた。その口からも、顔からも、同じような言葉が聞こえてきた。
『こんな体質』『ひどい体質』『可哀想な体質』と。
その日、お父さまは教えてくれた。
それは、口から出る言葉、そして、わたしにだけ聞こえてくる言葉の違いだった。
人は、心から思っていることを口にするとは限らない。心から向き合える人となら、心から思っていることを言い合えるのだという。
ただし、心から思ったことを話すことが、必ずしも正しいことではないらしい。
言葉には力がある。人を喜ばせる言葉もあれば、人を悲しませる言葉もある。
人は、心から思った言葉の中から、正しいと思われるものを選択して、口に出す。
人は、無意識のうちに『悪い言葉』は口に出さないようにしている。なぜなら、悪い言葉を出すと、相手を嫌な思いにさせるし、自分だって嫌な気持ちになるから。
でも、中にはそれが平気な人もいる。それは、相手の気持ちを考えてあげられない人だという。
つまり、口から出るのは、その人が正しいと思った言葉。
それを正しいと思うか、悪いと思うかは、聞き手にもよるらしいが。
だけど、その人が選んだ、正しい言葉なのだ。
そして、わたしにだけ聞こえてくる言葉。
それは、間違いなくその人が心から思った言葉。
だけどそれは、相手の気持ちを考えることができる人なら、決して口には出さない言葉。
真実だけど、でも、正しくない言葉。
聞こえてはいけない言葉。
『負の感情』なのだという。
聞きたくなくても、聞こえてしまう。
顔を見ると、それは頭の中に入ってくる。耳を塞いでみても、それは聞こえてしまう。
じゃあ、どうすれば良いのか?
わたしは、お父さまに聞いてみた。
お父さまは、時間をかけて考えて、言った。
『人が言葉を選べないのなら、お前が言葉を、人を選べば良い。でも、大きな我慢が必要になると思う。つらいかもしれない』
よくわからないけど、それが普通だと思っていたから、平気だと思う。
わたしは、そう答えた。
自分の体質を認識したからか。あるいは、良いことと悪いことを認識できるようになったからか。
これまで平気だと思っていたのに、これまで普通だと思っていたのに・・・。
聞こえてくる言葉全てが、わたしの心を傷つけた。
お父さまの言うとおり、初めは、聞こえてくる言葉を選んだ。
この体質は、自分を良く思ってくれる人間を見つけるために備わったものなのだ。
実際に、その顔からは何も聞こえてこない人もいた。
口からだけ聞こえる言葉とだけ、会話をすれば良いのだ。
わたしに負の感情を一切抱かない人の選択肢には、正しい言葉しか存在しない。
話をしていて楽だった。
あるとき、女の子の一人が、わたしを避けるようになった。
その女の子の顔からは、何も聞こえたことがなかった。
その女の子の顔を見ようとすると、顔を背けられた。
まるでそれは、負の感情を持つ人の顔を見ようとしない、自分自身に見えた。
そうだ。あれがわたしなんだ。
人の顔を、本心を見ようとしない人間とは、顔を合わせたくないのだ。話したくないのだ。楽しくないのだ。
一瞬見えたその顔から、初めて、声が聞こえてきた。
『お金持ちだから仲良くしてたんじゃない・・・なんで悪口を言われないといけないの・・・じゃあ、近づかなければ良いんだ・・・』
目を背けていただけ。でも、クラスメイトの負の感情は、ずっとわたしに向けられていた。
目を背けていたから。わたしに向けられていたその負の感情は、その女の子と目が合ってしまったのだろう。
人を、言葉を選んではいけないのだ。きっと、それ自体が負の感情なのだから。
中学校に入ったわたしは、わたしという存在を消した。
わたしに対して何の感情も抱かせなければ良いのだ。正の感情も、負の感情も、何もかも。
人の顔を見なかった。人の、首から下だけを見て生活した。
顔が見えない、透明人間に囲まれて過ごしているのだと思い込んだ。
でも本当に、何を考えているのか全くわからない透明人間に囲まれて生きる人間がいたとしたら。それは今の自分なんかよりもつらい境遇なのではないか。そんなことを思った。
もちろんそんな人はいないだろうけど、日々の我慢は、そんなことをも想像させたのだ。
わたしは、考えていた。
そもそも、人はなぜ負の感情を抱くのだろう、と。でもそれは、なぜ人が生きているのかを考えるのと同じくらい壮大な疑問だった。
答えなど見つからない。だからせめて、『なぜ周りの人はわたしに負の感情を抱くのか』を考えてみた。
これまでに聞いた言葉。それは、『お金持ち』『容姿』『才能』に起因するものがほとんどだった。
でもそれは、ただの嫉妬や羨望なのではないか。
しかもそれらの大部分は、わたしは悪くない。そんな家柄に、容姿に生まれてきてしまっただけなのだ。
これらの負の感情は、わたしが生まれもったモノ、あるいは努力して身に付けたモノに対する負の感情。
負の感情だけど、でもそれは暗に、わたしが優れていることを示しているのではないか。
もちろん、悪口を褒め言葉に変換することはできない。
でも、それが『善い負の感情』と思うことはできた。
例え聞こえたとしても、そう思うだけで、少しでも気が楽になれば良いと思った。
一方で、『性格が悪い』『顔が嫌い』『言い方が嫌い』『ただ嫌い』などなど。
これらはわたし自身に抱かれる負の感情。
おそらく、ただただ相性が悪いか、生理的に合わないのだろう。もしかしたらお互いを知り合うことで、その感情が正へと変わることがあるかもしれないが。
わたしはそれを『悪い負の感情』と思うことにした。
わたしは負けず嫌いだった。
負の感情を抱かせたくないからといって、人より劣って見せるなどということはしたくなかった。
生まれもったモノもあるかもしれないが、わたしは、誰よりも優れていたいという思いから、誰よりも努力をしてきた。
実際に、わたしは常にトップに立ってきた。そもそも、存在を消すことなど到底不可能だったのだ。
だから、『善い負の感情』という考えが、わたしの精神を支える根幹を成していたのだ。
中学三年の夏。
わたしは、一族の集まりというものに、初めてお呼ばれした。去年、一昨年と、お兄さまたちが出ていたから、その存在だけは知っていた。
一族間の情報交換が目的らしいのだが、その実、優れた才能を持つ子供自慢をする集まりらしい。
なんて下らないんだ。そう思った。
自慢し合うということは、そこでは順位付けがされてしまうのではないか。
あらゆる分野でトップに立つ自分に対する負の感情を、わざわざ芽生えさせてしまうのではないか。
でもそこで、わたしは思い知った。
上には上がいたのだ。負の感情を抱くとすれば、それはわたしの方だったのだ。