192話 きっかけ
クーラーの効いたリビングで横になる太一の鼻には、ティッシュが詰められていた。
「ごめん・・・昨日、バイト中に鼻をぶつけちゃって。今日も鼻血が出やすい状態が続いてるんだ・・・」
「そうですか。びっくりしました」
まさか、彩と一緒にお風呂に入る姿を想像して鼻血を流したとは言えない。
いや、でも正直に言うのも、この子に対しては有効かもしれない。
男とはこういうものなのだ。鼻血が良からぬことにつながるという危険性もあるのだ、と。
「彩ちゃんのその、お風呂に入れる入れないの基準って何なの?いや、そもそも『好きな人』の定義って?」
「えっと、そうですね・・・お風呂に入っても良い人が『好きな人』ですかね?あ、でも、そもそも好きって言っても、『ライク』の方ですよ?」
「ああ、そうか・・・趣味趣向が合う人ってことか・・・」
「太一くんの壁理論で言うと、壁は取り払われるけど、全てではないって感じかな?壁の一部分だけ取り払われる、あるいは隙間が空く、みたいな」
「そうだね、そのイメージはわかりやすいね」
「相手を見極めて、全ての壁を取り払って、わたしの全てを見てもらいたい人。それが本当に好きな人。『ラブ』ってことでしょうか。それ即ち、本当にお風呂に入っても良い人、ってことですね?」
「う、うん」
「そっか、じゃあ、太一くんは入れない人、か・・・隙間から覗く側の人ってことですね?」
「えっと、うん。イメージとしてはとてもわかりやすいね。壁があるから中に入れない。一緒にお風呂に入れない。
でも、とても気が合って仲が良い。すごく気になる。壁はあるけど、隙間はある。欲望を抑えられなくなって・・・覗いてしまう。
あるいは、壁を壊してまで入ろうと人がいるかもしれないね。・・・でも、言っておくけど、僕は覗かないからね!?」
「そこも自制心ってことですね?そうか、自分だけじゃなくて、相手の自制心のことも考える必要がある、と」
「うん。それを自己防衛と言うね。壁を強化する、隙間を小さくする、あるいは中を覗けない位置に隙間をつくる。これはいわゆるハード面の強化。そして、相手を見極めるという、ソフト面の強化」
「そっか。なんだか太一くん、先生みたいですね。勉強になりました!」
将来の夢は学校の先生なのだが、まさか生徒相手に鼻血を出さないようにしなくては。
太一自身も勉強になった時間だった。
『ガチャン』
玄関のドアが開かれる音がした。
そして、
「じゃまじゃます」
少し気だるそうな声が聞こえた。
「あ、紫乃ちゃん、回復したのかな?」
太一は頭を少し起こすと、頭部をフェイスガードですっぽり覆った紫乃を出迎えた。
「あらま、太一、鼻血ですか?」
「う、うん。昨日・・・」
「鼻をぶつけたんですって。昨日から鼻血注意報が継続中らしいですよ?」
『この子、表現も紫乃ちゃんにそっくりなの?いろんな意味での弟子ってこと?』
「そうですか・・・てっきりサイちゃんの可愛さで鼻血ブーしたのかと」
「ぎくっ。じゃなくて・・・えっと、そういえば昨日のメッセージ。『本性を暴く』ってどういうこと?」
「あぁ、まさにこの子のことですよ?たぶんサイちゃん、太一の好みかなって思って。わたし、実は車酔いなんてしていません。
しばらく密室で二人きりにという状況をつくったら・・・それに、すっごい可愛いミニスカートを履かせたから・・・さすがの太一も狼になるんじゃないかなって!!」
「きゃっ!太一くん、わたしのこと好きなんですか?」
「えっと・・・さっきの、『ライク』って意味で言えば・・・好き、だよ?」
「わぁ、嬉しいです!」
「やーん、なんかキュンキュンしちゃいますね!可愛いかける可愛い、それ即ちパラダイス」
「でも、一緒にお風呂には入れないんですもんね・・・」
「う、うん」
「お師匠。わたし、太一くんにいろいろなことを教えてもらいました。何本も見て慣れるなんて、そんなのは間違いでした」
「おぉ、さすがは弟子です。なんて良い表現をするのでしょう。可愛い太一のも見て、慣らそうと思っていた、と」
「はい。だけど、わかりました。本当に好きな、『ラブ』な人としかお風呂に入ってはいけないのだと」
「うむ。わたしの場合は『ライク』でも入っちゃいますが、サイちゃんは女の子ですからね。それがよろし。さすがは太一です!」
紫乃は、横になったままの太一の頭を撫で始めた。
「思ったんだけど・・・逆はどうなのかな?わたしが覗くのはありですか?」
「え、なに?そんなに僕のを見たいの!?」
「サイちゃん。見境無しは、それ即ち『痴女』ですよ?」
「ちじょ?」
「えっと、度が過ぎた助平のことです」
「・・・今後は発言にも気を付けます」
「よろし。ていうか、太一のを見たい気持ちはわかりますけど。そもそも、見えないでしょ?」
「ん?紫乃ちゃん、見えないって何?」
「あぁ、まだ聞いていませんでした?サイちゃんの体質ですけど・・・」
「お師匠こそ、何を言っているのです?」
「ほえ?」
「昨日見たドードーさんと同じなんでしょ?野良ってやつ。太一くんも、それなんでしょう?」
「・・・え?えっと・・・え?見えるの?」
「はい」
「・・・」
「ねぇ、紫乃ちゃん。見える見えないって何の話?彩ちゃんの体質って?」
「そういう、ことですか・・・太一がずっと、何かを抱えていることはわかっていました。何かを言おうとしていることも。でも、それを話しても、あまり意味が無いのだろうということも。
話してくれるそのときを待とうと思っていました。・・・だけどおそらく、今がそのときです。もしかすると、事態が変わったのかもしれませんけどね」
「事態が、変わった・・・?」
「サイちゃんの体質ですが。普通の体質の人を、その姿を見ることができません。見えるのは身に付けているものだけ。透明人間に見えるのです」
「まさか、見えない、っていうのはそういう・・・」
「サイちゃん?身近な人で見える人間を教えて下さい。あぁ、わたしの友達でお願いしますね」
「お師匠、さい兄、あて姉、昨日見たドードーさん。あと兄さま、です」
「何て体質を・・・逆だったらどれだけ良かったか・・・」
「よく言われます!・・・そして、太一くん。あなたも、見えます」
「そっか・・・あのさ、紫乃ちゃん」
「はい」
「裁くんの体質って、特殊な体質を無効化する。普通の体質だったら、その人間の強い思い、我慢していることを発現する。もしも特殊な体質を持っていたとして、でも、それを失ったらどうなるかな?その状態で裁くんに近づいたら、今度は何かが発現されるようになる?
もしそうだとしたら、裁くんに近づけば・・・僕がみんなに言えないこの抱えているものを、モヤモヤを発現することができるんじゃないか。みんなに事実を、本心を打ち明けることができるんじゃないか。
裁くんに近づくたびに、そう思ってた。でも・・・何度近づいても、何も、発現されなかった・・・」
「太一・・・特殊な体質だった。そういうことですね?」
「・・・うん」
「教えてくれますか?・・・でも、もしもみんなの前が良いと言うのなら、二学期まで待ちますが?」
「ううん。彩ちゃんがきっかけをつくってくれたんだ。今、話すよ。話したいんだ」
「わたしは、外にいた方が良いですよね?」
「彩ちゃんにも聞いてほしいな。実はね、今の状況を自分でも理解できてないんだ。だから、彩ちゃんにも一緒に考えてもらいたい」
「わかりました」
「僕が持っていた体質、それを説明するのは少し難しいかな・・・なんというか、感覚的というか、自分の中で完結させてたから、表現が難しいんだ。
だから、まずはこれまでのことを時系列に説明するね?ちょっと長くなるかもしれないけど、いつもどおりつっこみとか入れて聞いてほしい」
「それ、数日ぶりに解き放った大便のように重い話ですか?」
「えっと・・・どっちかというと下痢かな?すっきりはしないだろうから」
「聞きましょう」
「まず・・・あぁ、みんなには中学までの自分のこと、外部からの干渉を避けて、空気のような存在で過ごしていた、って言ってたと思う。そして、誰にも気づかれないように、みんなのことを観察していた、とも。
それは間違い無くて、でも、観察の他にもう一つ。『記録』っていう作業をしていたんだ」
「記録?日記でもつけていたと?」
「そんな感じ。でもね、これは僕の表現だけど。自分の脳みそを具現化して、そこに直接書き込む、保存するっていうイメージなんだ」
「どっちかというと記憶のような気もしますが・・・記憶するための作業そのものを具現化していた、ということですかね」
「そこの使い分けもあってね。記憶は一瞬でできるんだ。一瞬で観察して、目に映ったものを一瞬で記憶する。それは、例えばデジタルカメラの本体に保存したようなもので、それを記憶媒体に移すのが記録、かな」
「バックアップみたいな?なんだか、たしかに感覚的な話ですね」
「とりあえず、『記録』という作業があって、そしてそれが当時の僕の唯一の楽しみだった、ってこと。そして、本題だけど。まず一回目、それは中学三年生の夏のことなんだ」
「一回目・・・太一のそれは、小学校に入る直前のものではないのですね」
「あ、うん。たしかに他のみんなは、その時期に何か起きてたよね」
「しかも、くそ重いやつ!」
「兄さまの監禁事件とか?」
「そうそう!・・・って、そういえばサイちゃん。あの事件のとき、皇輝の隣の部屋にいたのでは?」
「いえ。たまたま父の自宅にいました。運が良かったんです。兄さまと違って」
「あの皇輝、回想にも一切サイちゃんの存在を匂わせませんでしたからね?あれ、何と言うか、あまりに可愛いから独占したいって感じでしょうかね?」
「キモいですよね!」
「・・・それで、中学三年生の夏・・・そのとき僕、勉強しながら進路のことを考えていたんだ。
うちって、お金持ちではないけど、普通に生活する分には特に不自由無かった。でも、僕が私立高校に通うと、家族が少しの贅沢もできなくなるかなって思った。
だから、近くの公立高校に通うことを考えていたんだけど・・・ふと、あることを考えたんだ。
もしもお父さんが、仕事中にちょっとした怪我なんかして、慰謝料とか労災とか保険金とか入ったら・・・そしたら、もっと学力が高い私立高校にでも通えるんじゃないかって」
「や、闇太一現れる!?闇市・・・」
「願望にも似た思いだけど、でも、ちょっと考えてみただけのことだった。だけど、公立高校に入った後にでも『あんなこと考えたことあったっけ』って思い返すのも良いかと思った。だから、その願望もしっかり記録していたんだ。
そしてその日・・・そんな良からぬ記録をした罪滅ぼしにでもと思って、お父さんにマッサージをしたんだ」
「ほっ。いつもの優しい太一に戻りましたね」
「そして、その次の日・・・お父さん、取引先の工場で、小指を切断しちゃって・・・」
「え!?」
「慰謝料、労災、保険金。いろいろ、そしてたくさん入った・・・。全く考えていなかった収入、しかも、使い道も特に無いからって。お父さん、僕に天照台高校に入ることを勧めてくれたんだ」
「良いお父さまですね。でも、もしかして・・・『願いが叶った』とでも?そしてそれが一回目・・・?」
「うん。そして二回目、それは、中学の卒業式の前日。帰ろうと思って教室を横切ってたら、ふざけてた男子とぶつかりそうになったんだ。
そのとき、一瞬だったんだけど、『僕が天照台高校に行くことをクラスのみんなに広めてくれたら、みんな驚くだろうな』って、そんな願望にも似た思いを記録したんだ。
もしかすると、最後まで空気でいることを、本心では嫌がっていたのかもしれない。そして、ぶつかって・・・」
「その男子が、願いどおりの行動を起こした、と?」
「うん」
「・・・一旦、ちょっと整理しますが。この二回だけ聞くと、偶然、必然、そう考えることもできますね。
一回目のお父さまの件は、偶然。お父さまの悲運がそれを招いた事故かもしれない。もしかすると太一が招いた災厄かもしれない。だから、その体質とやらのせいではないかもしれない。そして二回目の、バカ面の男子生徒の件」
「バカ面?別に、普通の顔だったよ?」
「おっと、それは昨日のやつらでした。で、その男子生徒は、もしかしたらですけど・・・何かで太一が天照台高校に通うことを知ったのでは?そして、内心、激しく驚いていた。
『え、都市伝説の高校って実在するの!?おったまげー!ぼくちん、このことをみんなに言いたい・・・でも、空気くんの名前わからないしな。みんなに言っても、誰もぼくちんのこと信じてくれないかもしれないな』
って思っていたところ、急に太一にぶつかって、その思いが漏れ出てしまった」
「お師匠、さすがに同じクラスなのに名前がわからないってあります?」
「あ、たぶん、知らない人のほうが多かったと思うよ?」
「え!?・・・いいなぁ。どうせならわたしもそれくらい空気に、透明になりたいですよ!」
「まさか、羨ましがられるとは!?」
太一は、目の前の少女を見て思った。
普通だったら思い出したくもない事実を、『いいなぁ』と言う少女。
それほどまでに大変な体質を抱え、想像できないような我慢をしているのだろう。
周りのほとんどの人間が、透明人間。身に付けているものは見えるし、声も聞こえる。だけど、その表情や雰囲気のようなものを感じることはできないのだろう。
見えない人間は恐いに違いない。普通に接することなどできないに違いない。
一方で、自分の表情、雰囲気は、全ての人から見えてしまう。どう見られているのか、その声だけが聞こえてきてしまう。
だから、自分が透明だったなら、見えなかったら良かったのに。
そんなことをずっと、強く思って生きているのだろう。
紫乃と楽しそうに話す彩は、でも、まだ一度も笑顔を見せていない。
紫乃は、彩に笑いかけていた。変に気を遣っているわけではない。それは、いつもみんなに見せる笑顔だから。
太一が大好きな笑顔だ。
彩も、まだ何かを抱えているに違いない。
でもきっと、何かをきっかけに、本心から笑える日が来るに違いない。
そのときのために、いつもティッシュを持っておこう。
きっと、その笑顔は、鼻血がでるくらい可愛いに違いないから。