190話 冬華の笑顔
小さな工場の敷地内に建つ冬華の家は、二階建てで、プレハブのようなつくりだった。
『いらっしゃーい!』
冬華の笑顔が俺を出迎えてくれた。
家の中は暗く、工場に入りきらないものが乱雑に置かれていて、狭かった。
冬華は四人兄弟の長女だった。
一年中、ほとんど同じような服を着ていたが、見ると、兄弟も同じような服を着ていた。
父親は作業着、母親は冬華の服をただ大きくしたようなものの上に、エプロンを身につけていた。
誕生会、そしてクリスマスを兼ねているようだが、お世辞にも特別な格好とは言えなかった。
でも、みんな、冬華と同じような笑顔で出迎えてくれた。
大好きな笑顔が六つもあった。でも、俺の虚勢ブロックがそれに勝ったらしく、俺は無表情を貫いた。
白飯と味噌汁、肉が少し入ったもやし炒めが、その日のメニューだった。
母親は、俺の皿に肉を多めに入れてくれた。
一番下の弟がこっちをじっと見ていたから、俺は弟の皿と交換してあげた。
弟は『わぁい!ありがとう!』と言って、激しく喜んでくれた。
ご飯を食べ終えると、母親がケーキを運んできた。苺がのったホールケーキだったが、六人家族にしては小さいと感じた。
俺がいるせいで、さらにみんなの分が減ってしまうだろう。
今日、家に帰ったら食べるから、いらないと断った。
でも、
『これはクリスマスケーキじゃなくて、冬華のお誕生日を祝うケーキなの。だから、別物だから食べて!』
母親はそう言い、みんなよりも少し大きく切ったものをくれた。
肉で満足したのか、一番下の弟はこっちを見ていなかった。もしかするとあの後、見えないところで冬華に怒られたのかもしれない。
俺は素直にそのケーキを食べた。
普通のケーキの味だった。でも、みんなの笑顔があったから、いつもより嬉しい味がした。
ケーキを食べ終えると、俺は母さんから渡された紙袋を、冬華に渡した。
ずっと横に置いていたから、冬華もずっと気になっていたに違いない。
いつ渡して良いものかと思っていたら、結局最後になってしまったのだった。
『そんな、プレゼントはいらないって言ったのに・・・』
俺は、母さんが言っていたことを伝えた。
『瞬矢くんのお母さんが?えーっ、何だろう!』
冬華は、目の前でその紙袋を開けた。
中から取り出したのは、ニット帽とマフラーだった。
『わぁ!すごい、手編みだよ?可愛い!』
冬華は部屋の中で、目の前でそれを身に付けた。
『ねぇ、どうかな?似合うかな?』
冬華はいつも以上の笑顔で聞いてきた。
その笑顔によく似合うと思った。でも俺は、わからない、そう答えた。
『そうだよね!部屋の中でつけたらおかしいもんね!お母さんにありがとうって伝えて!すっごく嬉しいって、喜んでたって!』
みんなの笑顔に見送られて、俺は冬華の家を後にした。
帰ってから母さんに伝えると、母さんも満面の笑みで喜んでいた。
冬休みが明けて、三学期の始業式の日。
冬華は、母さんが編んだニット帽とマフラーをつけて学校に来た。
隣の席に着くと、その格好で笑いかけてくれた。
あのときの、部屋の中での格好とは、上着を着ているだけの違いだった。
とても薄いその上着とは合っていないような気がしたけど、やっぱり、その笑顔とはよく合っていると思った。
その日、冬華とはお誕生会のことを少しだけ話した。
その次の日、冬華は帽子とマフラーをつけて来なかった。
席に着いた冬華は、少し元気のない様子で、でも、いつもどおり笑いかけてくれた。
俺は知っていた。
昨日、お誕生会のことを話す俺と冬華を見て、クラスの数人がひそひそ話をしていたのだ。
『あの子、お誕生会に不動堂呼んだらしいよ?』
『えぇー!何で不動堂?隣の席だから?』
『金持ちだからじゃない?ほら、今日、帽子とマフラーしてたじゃん』
『たしかにぃ!なんか似合わないなぁって思って見てたけど』
『恵んでもらえて良かったよね!不動堂も友達いないから、お金出してお呼ばれされたって感じじゃない?』
『あはは!お似合いだよねぇ』
きっと、冬華にも聞こえていたのだろう。
自分が誘ったのに、俺が悪く言われるのが嫌だったのだろう。
その後はこれまでどおり、話しかけてくることはなく、でも、いつも笑いかけてくれた。
あんなに喜んでいたのに、あれ以降、帽子とマフラーを身に付けているのを一度も見ることは無かった。
そして去年の十二月二十四日。クリスマスイブ、そして冬華の誕生日。
クリスマスツリーの前に立っていた冬華は、あのニット帽とマフラーを身に付けていた。
そして、あの頃と変わらない笑顔で俺を迎えてくれた。
そうだ。そうだったんだ。
ただ俺を思ってだけの行動だったわけじゃない。特別な想いがそこにはあったんだ。
俺は今、そのときの冬華との思い出を思い返した。
封印から解いて、一度ありのままで思い返して、そしてようやく、本心で思い返すことができた。
冬華の笑顔を見て、まず最初に、
そのニット帽とマフラー、やっぱり、その笑顔によく合うな。
後ろのクリスマスツリーより輝いて見えるな。
そう思った。
『うち、お金が無いから・・・みんなにひどいこと言われることもあったけど、わたしは、平気だった。もしかしたら、わたしのせいで瞬矢くん、変なこと言われたかもしれないよね・・・ごめん。
だから、瞬矢くんもわたしを避けて、嫌ってるんだろうなって・・・思うようにしてたんだ』
そうだ。冬華は誰よりも優しかった。気を遣った。
兄弟思いで、いつもの兄弟の面倒を見ていて、勉強する暇も無いくらいだった。
そして、ずっと、俺のことを思ってくれていたんだ。
『わたしなんかに言われたくないだろうけど。瞬矢くん、本心と、見えるものが違うよね?きっと、わたしのためを思って、わざと遠ざけてるんだろうなって、そう思ってた。
でもね、本心では、わたしの心配をしてくれてたよね?貧乏だから金持ちに近づいてる。そんな言葉をかけられないように、気を遣ってくれてたんだよね?』
本心では、人の言う事なんて気にしないで、冬華と仲良くなりたかった。
話をしたかった。
もっとその笑顔を見たかった。
でも、本心がねじ曲げられて、人を避けるという思いが伝わってしまった。
でも、冬華だけは気付いてくれていたんだ。
『わたし、そんな瞬矢くんのことが、ずっと好きでした。それが、今日言いたかったこと。本当はもっと前から言いたかったんだけど・・・ふふ。わたしの誕生日だし、クリスマスイブだし。
・・・ごめん、瞬矢くんには関係無いよね?わたしの勝手な都合です。・・・付き合ってほしいとか、そんなおこがましいことは考えていないの。ただ、わたしの本心を、正直に伝えたかっただけなの・・・』
俺は、嬉しかった。
ただ虚勢を張って生きていた俺に、そんなことを言ってくれる人間が、女の子がいたんだ。
本心をねじ曲げて、嘘ばかりついているこんな俺に、本心を、正直に伝えてくれたんだ。
俺はそのとき、それって本心なの?と言ってしまった。
本心に決まっているじゃないか・・・
あいつらに言われて、ただ何の感情も抱かないで告白という作業をするのなら、あんな格好をしてくるわけが無いだろうが!
冬華の目に涙が溢れた。
そのとき、さすがの俺の心も痛んでいた。今は、どうしようもないくらいにズキズキと痛かった。
『・・・言い訳かもしれないけど、わたしはね、この日を選んだの。・・・気持ち悪いよね・・・ごめん。
でも、安心して?たぶん、もう話すことも無いと思うから・・・来てくれて、聞いてくれて、ありがとう。さようなら、瞬矢くん・・・』
きっとそのとき、夜逃げをするという話が出ていたに違いない。
俺とはもう会えないとわかっていたのだろう。
最後の最後、涙が溢れるその目で、大好きな笑顔をくれた。
今までのどんなクリスマスプレゼントよりも、嬉しかった。
でも、今までのどんな瞬間よりも、悲しかった。
一年間誰とも話さなくても何とも思わないのに、ひどく悲しかったんだ。
結局その後、冬華の父親の工場は、潰れることは無かった。
冬華の家は、夜逃げすることは無かった。
あの社長の息子が嘘をついていただけだったのだ。
あの日、冬華は手首を切った。
自分が生まれた日に、人生への、俺への別れを告げ、命を終わらせようとしたのだ。
どれだけ辛い思いをすれば、そんなことができるのだろう。
何であのとき、そして今まで、気付けなかったのだろう。
何であのとき、そして今まで、冬華の気持ちを考えようとしなかったのだろう。
何で、今まで、心の奥底に封印されていたのだろう。
自宅で療養していると聞いて、でも俺は、冬華に会いに行くことを考えなかった。
罪を背負っただけで、会いに行く必要は無いと思った。
いや、どんな顔をして会いに行けば良いかわからなかっただけだったんだ。
俺は、走っていた。
冬華の家に向かって走っていた。
あのとき、クリスマスツリーの前で、冬華に言わなければいけなかったこと。
あのときも、今でも、冬華に対する恋愛感情のようなものは持っていない。
だけど、本心から、正直に言うべきことがあったのだ。
『そのニット帽とマフラー、すごく似合ってるよ!』
笑顔とよく合う、とまでは言えなくても、なぜそれを言えなかったのだろう。
『ありがとう。嬉しいよ!』
好きと言われて、なぜそんなことも言えなかったのか。
『その笑顔が好きだよ』
付き合うか、付き合わないかじゃない。ただその本心を正直に言うべきだった。
『誕生日おめでとう!』
ただ一言、本当に大事なその一言を、なぜ言えなかったのだろう。
あのとき、冬華にしなければいけなかったこと。
そんなの、考えればいくらでもある。
でも、ただひとつだけ。
本心のままに、冬華と話すべきだった。
今さら顔を出して、どんな顔をされるだろう。
もしかしたら、『二度と見たくない』と言い、会うことも許されないかもしれない。
もしかしたら、俺を咎める言葉を浴びせてくるかもしれない。
でも、もしそうだとしても、それはきっとまた、俺を思ってのことなのではないか。
もしかしたら、またあの笑顔を見せてくれるかもしれない。
いや、それはただ俺が見たいだけ。ただの俺の願望だ。
もし会えたなら、まず、謝らないといけない。
あのとき何もできなかったとか、何も言えなかったとか、そんなことを言っても仕方が無いだろう。
ただ、『本心のままに答えることができなかったこと』、『冬華の本心を見ようとしなかったこと』を謝らないといけない。
そう、今なら、それができる。これからもずっと、それだけはできると約束できるのだ。
本心のままに、全てを受け入れることができる。
本心のままに、冬華の本心を受け取ることができる。
本心のままに、冬華と話をすることができる。
そして今、これだけは正直に、本心から言える。
『冬華の笑顔が大好きだ』