183話 ニャニヤ
「さい兄って呼んでも良い?」
彩は、数秒もの時間をかけて導いた解を口にした。
これまでに『くろきさい』が呼ばれてきたといういくつかの愛称。それらは、ほとんどが参考にならないものだった。そもそもサイクロプスとは何なのか。
だが、そんな中にもひとつだけ、気になるものがあった。
それは、『さいさい』だった。
何やら可愛らしいこの呼び方だが、彩には、それを推す理由があった。
彩の名前も、『彩』と読むことができる。そう、裁と彩、二人の名前を並べて『さいさい』になるのだ。
そしてそれは、現に誰かが呼んでいるらしいし、便乗して何らおかしいことはない。
だが、彩は思った。そう呼んでいる人の、二個目の『さい』はどこからきているのだろう、と。
ただの名前の連呼かもしれない。でも、さっき言っていたサイクロプス要素という言葉。
もしかしたら、サイクロプスの『さい』なのかもしれない。
だとしたら、その『さいさい』という呼ばれ方に、嫌な気持ちを抱いてしまうかもしれないのだ。
彩はその時点で『さいさい』をゴミ箱に捨てた。
何より、『くろきさい』の友達が持っていないであろう、『親族』『年下』というアドバンテージを生かさない手はない。
それならば、やはり『お兄ちゃん』系だろう。
実の兄のことは、お兄さまと呼んでいる。そして、年上の甥の皇輝のことは兄さま。
この二つの呼び方はすぐにゴミ箱に投げ捨てた。なぜなら、そう呼ぶと、二人の顔が思い浮かびそうだから。
では、残った『お兄ちゃん』しか無いのではないか。
だが、彩は気付いた。アニメでよく見るが、小さい子供は、高校生の男の子のことを『お兄ちゃん』と呼びがちだ。
兄弟でなくても、その呼び方は自然に成立してしまうのだ。
路傍の子供と同じ呼び方だし、何より、自分は小さい子供ではない。
いくら、好むアニメが幼稚だとしても、自分は中学三年生なのだ。
あぁ、思い出した。早くこのTシャツを脱ぎたい。普段着ではなく、観賞用に切り替えたい。
いや、今はそんなことはどうでもいい。『お兄ちゃん』もゴミ箱行きだとすると・・・。
だが、彩はそこでひらめいた。『お兄』があるではないか。
これまで見てきたアニメで、中学生の妹が高校生の兄のことを『お兄』と呼ぶシーンはよくあった。
そしてすぐに、彩は答えに辿り着いた。
そうだ、つい先月始まったアニメ。やはり、中学生の妹が高校生の兄のことをそう呼ぶのだが・・・。
そこに名前をくっつけて呼んでいたのだ。親族、そして年下という利点を全て盛り込んだ呼び方ではないか。
そして、彩はそれを口にしたのだった。
――「さ、さいにぃ・・・?」
おそらく『裁くん』で落ち着くのではないか。そんな考えを持っていた裁は、彩のその言葉に驚き、理解ができないでいた。
「『さい』はわかるとして、『にぃ』ってどこから・・・」
「裁くん、お兄ちゃんの『にぃ』でしょ?」
天照奈がそう教えてくれて、裁はようやく気が付いた。
そうか、年下の叔母だけど、いとこよりも近い存在だし、そんな呼び方もあるのか・・・あらためてその呼び方を考えると、まるで妹ができたかのように、嬉しい気持ちが込み上げてきた。
「う、うん。もちろん、良いよ!あ」
そう答えて、次は彩のことを『彩ちゃん』と呼ぶことの許可を得ようと思った裁を、天照奈が遮った。
「ねぇ、彩ちゃん。その呼び方、先月始まったアニメのやつじゃない!?」
天照奈のアニメスイッチによる突然変異にも慣れたのか、彩は小さく頷いた。
「やっぱり!あの妹、可愛いよねぇ・・・いいなぁ、裁くん・・・」
天照奈は、目を輝かせて裁を見た。いいなぁ、と言われても、どうしようもない裁は、困って彩を見た。
彩は何かを考える素振りを一瞬見せて、天照奈に言った。
「じゃあ、あてなさんのことも、『あて姉』って呼んでも良い?」
「!!」
天照奈の目が、より輝いた。その目は、『嬉しい!』と言っていた。
「呼び方も決まったところで、良いか?」
少し仲が良くなったように見える子供たち三人と、激しく仲が良くなったサイババ二人を見て、祖父が仕切りを再開した。
「ひとまず今日はこれで終わりなんだが・・・実はね、あらためて災の体質を検証したいと思っているんだ」
「僕の体質ですか?これまでにいろいろと検証してきましたよね?」
「だが、新たにわかったことが増えたんじゃないか?わからないことも」
「たしかに・・・」
昨日までのお泊まり会で、全て推測ではあるが、わかったことがあった。
天照奈、紫乃との推測で得たのは、裁を中心とする半径二メートルの範囲に、微細な粒子が漂っているというイメージだった。
紫乃はその粒子を、『サイ粒子』と名付けた。
粒子は壁によって遮られるが、そこに隙間があれば、それを抜けて二メートルを保とうとする。
だが、天井のように隙間が無い壁であれば、遮られるのだ。
そのことを、祖父に話してみた。
「サイ粒子か・・・わたしたちもね、君から目に見えない何かしらのエネルギーのようなものが発されていると推測した。そしてそれは、君たちが考えたとおり、隙間が無い壁によって遮られる。でもね・・・君のそのサイ粒子、どんな壁で遮られると思う?」
「いや、今言ったとおり、『隙間の無い壁に』ですよね?」
「例えばだが。そのサイ粒子が花粉とかウイルスのようなものだったら?目には見えないことに変わりないが、その粒径が思ったよりも大きかったら?」
「・・・まさか、マスクみたいな素材でも遮蔽できると?」
「ああ。あくまでも推測だがね」
「それはまだ検証していないと?」
「そうだ。君のその体質の検証、実は難しいんだ。発現させたい体質を準備しなくてはならなかったのだからね。最近まで、オンとオフを見極めることができなかった」
「そうか、体質の無効化、ですか・・・」
「そのとおり。例えば天照奈くんに触れるか触れないかで、その体質が影響しているかどうかを判別できるようになった。つまり、その体質を封じ込めることができるかどうかを検証できるんだ」
「なるほど・・・でも、それなら少し前からできましたよね?」
「そうだな。まぁ、我々にも考える時間が必要だったし、何より、天照奈くんに何度も付き合わせるのも悪いかなって思ったんだよ。あと、天照奈くんに触るにはゲンさんの立会いも必至だろう」
「いや、いずれ検証には父が立ち会いますよね?まさかあの人だけじゃやらないでしょう?」
「くくっ。それにね、体質が影響しているかを判別するのに、天照奈くんよりも適する人間がいることがわかっただろう?」
「彩ちゃん、ですね?たしかに、天照奈ちゃんのお父さんの姿が見えるか見えないかだけで判別できる・・・」
「と、いうことで。災と彩、明日の午前中、検証をするから時間を空けておいてくれ」
「また急に・・・そりゃ、わたしは一年中空いてるけど・・・」
「僕も、勉強以外の予定は無いですけど・・・」
「決まりだな。じゃあ、いつもの施設に十時集合ってことで。ああ、セイギとゲンさんには既に知らせているからな」
「あの・・・じゃあ、今回わたしは不要ということですか?」
名指しされなかった天照奈が、小さく手を挙げて聞いた。
「ああ、すまん。君たちには是非ともオブザーバーとして参加してもらいたい」
「・・・君、たち?」
「くくっ。サイ粒子か。そんな良い表現ができる人間が必要なんだよ」
今朝も、『いつ遊ぼうか』『夏休みの間が良いですね!』と、メッセージのやりとりをしていたのだが、こんなに早く会うことになるとは。
きっと、検証で疲れたからとか言って、またお風呂計画を・・・。
いや、今回は別パターンがあるかもしれない。
目の前で何を言っているのかわからないという表情を浮かべている彩を見て、天照奈は考えていた。
紫乃は以前、こう言っていた。いや、紫音だったか。
なぜわたしとお風呂に入りたいのか。
『そこに可愛い女の子がいるから』
目の前にいるではないか。
しかも、遠いところで血が繋がっている可愛い女の子なのだ。
天照奈は決意した。紫乃にお風呂のことは言わせない。
明日だけは、お風呂の『お』すら言わせない。
人と一緒にお風呂に入りたいなどいうわけのわからない考えは、紫乃の中に封印しなければいけないのだ。
――八月十一日、水曜日。
昨日は父と一緒に、父の自宅へと帰っていた。
ほとんどの時間を天照台家で過ごすのだが、たまの休みなどは父が迎えに来て、こちらで過ごすこともあるのだ。
昨日はずっと、なぜか父への当たりがいつもの数十倍強い母だったが、どうやらさい兄に近づいた影響のようだった。
このくらいの影響なら何ら問題無いし、特殊な体質を無効化してくれるさい兄の体質なのだが、あらためて考えると恐ろしい。
例えば、わたしが特殊な体質を持っていなかったら。
わたしは、大好きな顔のさい兄と『一緒にお風呂に入りたい』と強く望んでしまっている。
きっと、それを口にするか、住所を聞いて強襲するか、どちらかの手段をとってしまうことだろう。
そしてそれは、さい兄が人と二メートル近づくだけで発現してしまうのだ。
今日は、その体質の影響を封じ込めることができるのかという検証をするらしく、わたしも手伝うことになった。
特殊な体質を持たないというさい兄の父親と、あて姉の父親。
さい兄の近くにいて、その二人が見えるか見えないかで、体質の影響の有無を判別するというのだ。
自分のこのデメリットしか無い体質が、初めて人の役に立つ瞬間だった。しかも、さい兄の役に。しかも、さい兄のすぐ傍で。
彩は、朝からニヤけていた。
そしてそれは、妄想の中だけでなく、実際にニヤけていたらしい。
朝食をとりながら妄想を繰り広げていると、
『彩・・・良かったな。勉強も、アニメも、同じ趣味を持つ、しかも見える人が現れたんだもんな』
父がわたしの顔を見てそう言ったのだ。
『・・・え?』何で今そんなことを言うのだろう。そう思い母を見ると、あろうことか、母は涙ぐんでいたのだ。
しかも、『彩がニヤけるなんて・・・』と呟いて。
わたしは立ち上がり、洗面所に走った。そして鏡に映る自分の顔を見た。
鏡の中の自分は、ニヤけていた。
これまで、悲しくて泣く以外の表情を出したことがない彩。
いや、昨日は、目と口をこれでもかと開いたが、あれは無表情の延長にある表情ということにしておく。
嬉しかったら、楽しかったら笑うものだということを、彩は知っていた。
だから、昨日の運命の出会いから、笑う日も近いと思っていたのだ。
が、これは笑っているのではなく、ニヤけているのだ。ニコニコではなく、ニヤニヤなのだ。
何か良いことがあってそれを思い返すとき、何か良いことが思い浮かんだとき、人はニヤけるという。
そしそれは、人を見下したり、悪いことを考えるときなど、悪い方にもとらえられる。
少なくとも『良いことがあった』と受け取られたから良かったが、まさか親に見せる初めての無表情以外の表情がニヤニヤとは。
早く笑顔というものを覚えなくては。笑顔をつくるための筋肉の所在を知り、鍛えなくては。
そう決意した彩だった。
十時五分前。
父の運転で、家から約二十分のその建物に到着した。
これが、『いつもの施設』なのだろう。体育館のような、研究施設のような、大きな建物だった。
どうやら正面ではなく建物の裏に車を停めたようで、父は、車を下りてすぐ近くにあった裏口と思われる出入り口のドアを開けた。
『関係者以外立入禁止』と書かれたそのドアにはカギがかかっていなかった。
父に続き中に入ると、そこは体育館のような広い空間が広がっていた。
そこには何か実験をするような器具が多く置かれていて、そのうちの一つ、大きな体重計のような機械の前に、二つの姿を発見した。
父は、
「おお、ゲンさん」
と声を掛けながら、空中に浮いた白衣に近づいた。
その白衣からは、
「ふぉっふぉ」
という笑い声が聞こえた。そしてその横には、国宝級美少女、あて姉が立っていた。
「彩ちゃんおはよう!今日はセーラー服なんだね。可愛い!」
初めて会ったその瞬間から、あて姉は当たり前のように、親しく接してくれる。
もしかすると、彩が知らないだけで、これが普通なのかもしれない。
「うん・・・わたし昨日、アニメのTシャツを観賞用に切り替えたんだけど・・・そしたら着る服が無くなっちゃって」
「わたしも、中学まではほとんど制服で過ごしてたよ。今は亡くなったお母さんの服を着てるけど、ちょっとババ臭いよね?」
「・・・じゃあ今度、一緒に買い物に行かない?」
「行く!あ、今からでも良いんじゃない?ほら、紫乃ちゃんも特殊体質持ちだから検証できるでしょ!」
「ちょっと待ったぁ!わたしを傷ものにするつもりですか!?」
彩が入ってきた裏口から、新たに三人が入って来たようだった。
そのうちの一人が、つっこみを入れながら早足でこちらに向かっていた。
その顔を見て、彩は目を見開いた。
彩が認める美少女の一人、国民的アイドルの紫音にそっくりだったのだ。