182話 心の距離
生まれて初めて肉眼で見た母。その見た目は、写真で見る姿形と変わりなかった。
だが、肉眼で見るその表情、そして全身からは、『優しさ』『温かさ』が強く感じられた。
きっとこれが、『目には見えないけど見ることができるもの』なのだろう。
そしてすぐに気付いた。それは、感じ方や感じるものは違うが、父、そしてこの場にいる全員からも感じ取ることができたのだ。
きっと、今までも感じることができていたに違いない。
だが、目に見えるものしか見ようとしなかった彩には見えなかったもの、感じることができなかったものだったのだろう。
そのときに彩が抱いた感情。それは、初めて抱くものだった。
何か、全身にブワッと、温かい何かが流れ込むような感覚。きっとこれが『嬉しい』という感情なのだろう。
いつも悲しくて泣いていた彩は、初めて嬉しくて涙を流したのだった。
何が起きたのか、はっきりとはわからない。
でも、もう一人のお兄さまの息子、『くろきさい』が近づいたことで、母が見えるようになったのは紛れのない事実だった。
もしかすると、『くろきさい』は正真正銘の、運命の人なのかもしれない。
『くろきさい』を初めて見た瞬間、彩は、スタンガンをお腹に当てられた人をすぐ横で見るような衝撃を覚えた。
動画で見たもう一人のお兄さまの、特徴の無い顔。
あの後何度も何度も動画を見ているのに、後で思い返そうとしてもはっきりと思い出せないあの顔。
『くろきさい』を見て、その大好きな顔を思い出したのだ。
動画を見なくても思い出せたのは、『くろきさい』の顔が、その大好きな顔とほとんど同じだったから。
その時点で運命を感じるのだが、それを上回るほどの、特殊な体質を持っているのだ。
一族の血の呪いを絶つような体質、『特殊な体質を治す』というものではないだろうか。
彩にとって、『くろきさい』は、救世主、運命の人、大好きな顔。
出会うのが今のタイミングになったのも、あの動画がきっかけなのだろう。
おそらく『くろきさい』は、最近になって初めて、お兄さまの子供だということ、年下の叔母がいることを知らされた。なぜなら天照台家の男は、大事な事を教えてくれないから。
だがそこで、彩は思った。
今日出会ったのは、自分にとっては運命的なもの。だがそれは、父にとっては全て計画どおりのものなのだ。
もちろん、その体質ありきのものなので、運命を利用した出会いと言える。そしてその出会いは、目的は、自分の体質が治ったことで果たされた。
つまり、もう『用済み』なのではないか。
『くろきさい』は、また別の体質を治すべく、父に連れ回されるのではないか。
それ即ち、もう『くろきさい』と会うきっかけが無くなるのではないか。
もちろん、同じ高校に入れば会うことは可能だし、もともとは高校で初めて出会う予定だったのだ。
でも、予定よりもだいぶ早く、しかも突然出会わされて、衝撃を与えられて、『はい、さよなら』はひどいのではないか。
母を初めて見ることが出来た、体質が治った、『くろきさい』に出会えた。
ずっとずっと登りっぱなしで先の見えなかったジェットコースターの頂上に到達し、勢いよく下ると思われた瞬間に止まってしまったかのような感覚。
むしろ、また後ろにゆっくり戻っている気さえする。
おそらくこの後、父は『くろきさい』の体質を教えてくれるだろう。
そして、目的を果たしたと言い、『勉強頑張れよ』『そのTシャツ、外では着るなよ』そう言って、この場を去るのではないか。
目から出る大粒の涙は、また、悲しい涙の味へと変わっていた。
――泣き崩れた彩の一メートル横で、裁も、もらい泣きをしていた。
裁だけでなく、その場にいる祖父以外の全員が涙を流しているのが見えた。
祖母も、おそらく孫の目に初めて映ったという感覚を持ったに違いない。顔を手で覆い、声を出して泣いていた。
祖父も、涙は流していないが、その目は赤かった。
命の限られていた瑞輝と同じくらい、二人とも、彩のことを愛しているのだろう。
少しの間、湿度の高まった雰囲気が続くと、祖父が口を開いた。
「・・・これが、災の体質だ。二メートル以内に近づいた人間がそのときに最も強く我慢していること、強く思っていることを発現させる。
そして、近づいた人間が特殊な体質を持っている場合、その体質を無効化する。お前に、そして一族に普通を与えてくれる体質なんだ」
顔を手で押さえたまま、だが、彩の顔が少し動いた。
これまで見えなかった自分の母親の姿が見えたことで、祖父に言われることなく、裁の体質を知ったことだろう。
だが、『見える』という事実からしかその体質を推測できない彩は、きっと、勘違いをしているはずだ。
そしてその勘違いは、彩を失望させるに違いない。
「彩、すまない。まず災の体質のことを話してから近づかせることも考えた。だがね、普通じゃない体質を普通に無効化する体質のことを普通に話すよりも、実際に体感すべきだと思ったんだ」
「あなたという人は・・・天照台の男って、みんなそうよね。彩の気持ちを考えてあげてよ・・・」
「すまない。彩、心無いことをしているのはよくわかっている。お前のその体質・・・無効化するのは、災が近づいている間だけなんだ」
祖父の心無い言葉に、彩は顔を覆っていた手を離し、祖父、そして裁を順番に見上げた。
涙で真っ赤になったその目は、次に、祖母を見た。
せっかく見えた希望が、ほんの一瞬で失望へと変わってしまう。
それでも、近づいている間だけでも普通になれるという小さな希望を、少しでも普通を感じて欲しい。
そう思いながら、裁は、彩から離れた。
元いた場所に戻ると、祖母を見ていた彩の目にはまた、涙が溢れた。
離した手が再び顔へと向かい。また顔を覆うかと思われたが、その手は涙を拭うだけだった。
そして、
「良かった・・・治っていないのはすごく残念だけど・・・でも、お母さんが見えた。普通になれた。それって、すごいことだよね?普通じゃないよね?・・・だから、ありがとう。『くろきさい』・・・」
彩は、赤い目をしっかりと開けて、裁を見つめながら、涙混じりの声で言った。
「さて。美守さんに小学校を見せるのが本来の目的だったのだが・・・すまなかったね、わたしにとってはこっちが本当の目的だった」
「そう言ってくれれば良かったのに・・・わたしが、『瑞輝くんの部屋は見なくても良いです』って言ってたら、どうしていたんですか?」
「くくっ。そのときはちゃんと、『娘を紹介したい』と言っていたさ」
「いや、初めからそれでも良かったんじゃ・・・」
美守は何やら釈然としないといった顔で祖母を見た。
「そうなの。天照台の男って、こうなのよ。なにが『くくっ』よ。わたし、その笑いを聞くたびに頭の中で『ハチジュウイチ』って唱えてるわ・・・で、美守さん、いつお茶する?」
「そうですね・・・そうだ!連絡先交換しませんか?」
「あら、いいわね!」
サイババコンビの意気投合が激しさを増し、連絡先交換を始めた。
――『くろきさい』の祖母がサイババ一号で、母親がサイババ二号なのだろう。
そんなサイババコンビが連絡先交換をする姿を見て、彩は絶句していた。
これまで友達などいなかったし、透明人間しかいない環境で、携帯電話など不要なものだった。
ただポケットの一つを占領するだけの板だと思っていた。
だが、もしも持っていたとしたら、この場で便乗して、『くろきさい』と連絡先を交換できたのではないか。
親族だから、とか、勉強を教えてもらうとか、理由はいくらでも挙げられるはずだ。
それに、『ひながあてな』とも、アニメのことを語り合うために自然に交換できたのではないか。
・・・数十分前の自分が、なぜ携帯電話を持っていなかったのか、ひどく悔やんだ。だが、これは仕方が無い。数十分後の自分のために、この後すぐに購入しよう。
そう思い、意識をサイババたちから離した彩は、妄想を再開した。
涙はすっかりおさまっていたが、様々な思いが頭の中を巡っていた。
まず、『くろきさい』の体質は、わたしの体質を治すものでは無かったこと。
だがそれは、彩にとって大きな問題ではなかった。なぜなら、体質が治ることなど一生無いことだと思っていたから。一生、透明人間に囲まれて生きるのだと思っていたからだった。
さっき自分で口にしたように、近づいている間だけでも無効化されるなんて、それはすごいことなのだ。
『くろきさい』は、まさに普通を、希望を与えてくれたのだ。
そして、もう一つ与えられたもの。いや、生まれたもの。
それは、『くろきさい』に近づくという絶対的な理由だった。
近づいても、変に思われないのだ。
ずっとずっと、くっついていても、それは許されるのだ。
何なら、今日はこのままくっついて『くろきさい』の家に帰って、一緒に夕食をとって、お風呂にまでくっついて行けるのではないか?
だがここで、重要なことに気付いた。
二メートル以内に近づけば、体質は無効化される。つまり、くっつく必要は無く、二メートルの範囲内にいれば良いだけ。
到達点である『一緒にお風呂に入る』には、二メートル以内という条件だけでは到底たどり着けないだろう。
では、何が必要か。
物理的な距離を縮めるには、心の距離を近づける必要があるのではないか。
では、どうすれば心の距離を近づけることができるか・・・。
彩はひらめいた。そう、呼び方だ。
彩はまだ、『くろきさい』と一度も会話していない。『くろきさい』という名前を口にしただけで、まだ本人には一度も呼びかけていないのだ。
それに、いい加減この妄想の中でも、『くろきさい』から呼び方を変えたい。
では、なんと呼ぶべきか。彩は考えた。
そして、ある問いを口にした。
――「あの・・・わたし、何て呼べばいいですか?」
つい先ほどまでサイババコンビを見ていた目が裁をとらえると、彩から質問をしてきた。
だが、年下の叔母に何と呼ばれて良いのかよくわからない裁は困って、天照奈を見た。
「・・・参考にならないと思うけど、みんなに呼ばれてる愛称みたいなのを教えてあげたら?全く参考にならないと思うけど」
天照奈の言うとおりに、裁はこれまで、と言っても高校に入ってからだが、呼ばれたことのあるものを順不同で言い並べてみることにした。
「裁くん、サイくん、サイサイ、相棒、サイ三、ウン三、プス三、サイP少年、プッちゃん。ああ、一番最近だと災厄くんかな?・・・って、サイクロプス要素強くない!?」
「サイクロプスって何ですか?・・・ところで、『さい』って、どんな漢字ですか?」
どうやら、祖父からはまだサイクロプス情報を植え付けられていないらしい。
そもそも、ついさっき存在を知り合ったのだから、それはそうだろうが。
「裁判の裁だよ。裁くの裁。災いの方の災ではないからね」
裁は、わざと祖父を見ながらそう言った。
『くくっ』という表情を浮かべてこちらを見ていたので、頭の中で『ハチジュウイチ』と唱えた。
参考にならない呼び方たちと、裁という漢字から、呼び方を考えているのだろう。
すっかり目の赤さも無くなったその表情は、必死に何かを考えるそれになった。
裁は、自分が目の前の少女に何と呼ばれたいか考えた。
年下の叔母というその少女。本当の父の妹だというその少女は、だが、父には全く似ていなかった。
その顔にははっきりとした特徴があり、特にその目が印象的だった。
猫のように大きな目は、天照奈のそれに近いと感じた。
うぬぼれかもしれないが、その目の奥からは何か、自分に似たものを感じることができた。いや、自分ではなく父かもしれないが。
以前見たテレビ番組で、自分の好みは、一般的なものから大きく外れていることを知った。
目の前の少女を見て、裁は、『可愛い』と感じたが、これはただの親近感から出たものなのかもしれない。
彩の、特にその目が好きだった。雰囲気も、今はまだ、灰色がかった靄に隠されているが、おそらく天照奈にも似た、優しく温かいものに違いない。
まだ一度も無表情以外の表情を見ていないが、笑顔も可愛いに違いない。
天照奈に初めて『裁くん』と呼ばれたときのことは、一生忘れることができない。
何と呼ばれるかわからないが、きっと、この少女に呼ばれたその瞬間も、忘れられないのではないだろうか。
たった数秒のことだったが、裁がそんなことを考えている間に、彩の表情が変わったことに気付いた。
答えに辿り着いた、そんな表情だった。
何と呼ばれるか、少しの期待を込めながら、裁は目の前の少女を見つめた。
彩の口が開いた。