142話 常人離れした聴力
翌日はオリエンテーション、そして翌々日からマンツーマンでの授業が始まった。
瑞輝くんの知識、受け答えは二十一歳のそれで、むしろわたしよりも立派な大人ではないかと感じてしまうほどだった。
でも、話すときの挙動や雰囲気は七歳のものだった。
だからわたしは、知識量に驚くだけで、ちゃんと『七歳の瑞輝くん』として接することができた。
瑞輝くんは、大人しい子だった。
質問をすれば、全て完璧に答えてくれた。
でも、無駄なものは省くようなその話し方だけは、我慢することができなかった。
それが天照台家の教えなのかもしれない。だけど、小学一年生には無駄なモノなど、まだ存在しないのだ。
実際に話してみて、実際にやってみて、それが無駄なことだと体感して初めて、不要なモノだとわかるのだから。
というのが、わたしの持論だった。
わたしは、瑞輝くんが省いたであろうモノを推測した。
草木をかきわけて、その捨てたモノを探して、拾って、瑞輝くんに返してあげることにした。
例えば、瑞輝くんに初めて出した問題に正解したときのこと。
わたしは、
「正解!よくできました!」
と、全力で褒めた。
そのときの瑞輝くんの反応は、無表情で
「・・・はい」
と答えるだけだった。
わたしは、昨年教えた一年生の反応を思い浮かべた。
当然だが、反応は人それぞれ。『わーい、やったぁ!』と喜ぶ子もいれば、恥ずかしそうにただ俯いて言葉を発しない子もいた。
瑞輝くんの性格はまだ把握できていなかったから、瑞輝くんにふさわしい反応はわからなかった。
だから、まずはそれを引き出してみることにした。
「瑞輝くん、これ、できる?」
わたしは、『口笛』を吹いた。
「・・・?できません。したことがありません」
「じゃあ、教えてあげる。こうやって、口をすぼめて、隙間から音を鋭く出すようなイメージで・・・」
特殊な体質を抱え、不要だから教えられなかったことが、たくさんあるだろう。
わたしはその中からまず、口笛を選んだ。
『これに何の意味があるのだろう?』そんな顔をしながら、でも、瑞輝くんはわたしの言うとおりに音を出そうと練習した。
『何で先生のような音が出ないのだろう?』そんな顔に変わり、焦りも見えてきた。
どうやら負けず嫌いな性格を持っているようだ。
『ぶー』という音が『ひゅー』に変わり、そして、『ピーッ』という、笛のような音色に変わった。
「で、できた。出せた!」
自分の口から、こんな音が出るのだ。
それを知った瑞輝くんは、目を大きくして、綺麗な歯を見せて笑った。
きっと、本来は褒められたときにもそんな表情をするのだろう。
わたしはそれを拾い、そして返すことにした。
「瑞輝くん。これから、わたしは瑞輝くんが正しいこと、善いことをしたら、全力で褒めます。頭も撫でます。そしたらね、今と同じような気持ちを持って、今と同じような顔をして欲しいな」
「・・・なぜ、ですか?」
「音を出せたとき、どう思った?」
「・・・出せた!って思いました」
「嬉しかった?」
「あれが嬉しいという感情なら、そうですね・・・嬉しかったと思います」
「人はね、褒められたら嬉しいんだよ?当たり前ではないの。当たり前のことを当たり前にできたら、わたしは褒めません。
でも、わたしにとっての瑞輝くんには、まだ当たり前のことなんて存在しない。だから、わたしは瑞輝くんが何をしても、褒めます」
「嬉しい、という感情を持ったら、何か良いことがあるのですか?」
「難しいこと考えない!『嬉しい』は『嬉しい』なの!笑顔になれるの!・・・それにね、瑞輝くんが嬉しいと、わたしも嬉しい。わたしも、こんなに笑顔になっちゃうよ!」
わたしは、そのときできる最大限の笑顔をつくった。
「でもそれは、つくりものの笑顔ですよね?」
「ぎくっ!そ、そうだね。え、笑顔っていうのはね、嬉しいと自然に出るものなの」
「・・・じゃあ、僕には出せないじゃないですか?だって、褒められても嬉しいと感じません。出たとしても、それはつくりものです」
「そ、そうか・・・じゃあ・・・こうしてやる!」
論破できないと諦めたわたしは、瑞輝くんの脇の下をくすぐった。
「な、何をするんですか・・・く、くすぐった、い・・・あは、あはははっ!」
傍目からは、とっくに成人した男女が、いちゃついているだけの光景に見えただろう。
強攻策とは言え、笑った瑞輝くんを見て、わたしも自然と、心から笑顔になることができた。
――四月二十日。
あの事件が起きた。
少しずつ瑞輝くんの性格がわかってきて、自然な感情を引き出すこともできていた。
そしてその日、瑞輝くんは初めて『恐怖』と言う感情を持った。もしかしたら寿命よりも先に死んでいたかもしれないという、大きな恐怖だった。
そんな恐怖から立ち直ることは、難しかったかもしれない。
でも・・・わたしたちは、偶然近くにいたという警察官、黒木さんに救われた。
犯人から命を救ってくれただけじゃない。
その裏表のない自然な明るさ、そして不思議な雰囲気は、わたしと瑞輝くんの『恐怖』を拭ってくれた。『希望』を与えてくれた。
特に瑞輝君の場合は、
『あの人、不思議な人でしたね・・・僕の体質のことを見抜いたのかと思ったけど。違いますよね?』って、真面目な顔で、でも何かを思い出して、『くくっ』って笑ってた。
わたしは、天照台家特有のものかわからないけれど、その『くくっ』っという笑い方があまり好きじゃなかった。
せっかくだから、もっと愛嬌のある笑い方に変えてやろう。
『あはははっ』『ふふふっ』あたりだろうか。
『イヒヒ』『ヘラヘラ』『ウッシャッシャ』あたりは避けよう、そう思った。
・・・この事件によりもたらされたもの。それは、黒木さんとの出会い。
そして瑞輝くんには、もう一つあった。
瑞輝くんはなぜ、犯人が教室に入る前に、わたしに警察に電話をかけるよう言ったのか。
警察署での聞き取りの際に、瑞輝くんは、こう答えた。
「聞こえたんです・・・あの男の人、車を下りて校舎に入るときに、『こんな小学校でも、ガキの一人はいるだろう・・・先公とガキを銃で脅して、まずはガソリンを準備させるか・・・』って言った」
そのとき、窓はすべて閉まっていた。窓際にいたわたしには、そんな声は聞こえなかった。
でも、瑞輝くんにはそれが聞こえた。
どうやら、瑞輝くんは常人離れした『聴力』を持っているようだった。
警察署での聴取が終わり、わたしたちは小学校に戻った。
『疲れたねぇ』と話しながら教室に入ると、そこには、見たことのない男の人が立っていた。
さっき怖い目にあったばかりだから、『また不審人物!?』と一瞬思った。
でも、高そうなスーツを着ていたし、その雰囲気から、『天照台家の人間かも?』と思った。
そして、ここにいるということは、
「・・・校長先生、ですか?」
わたしは、その男の人に尋ねた。
「ああ・・・初めまして。君の言うとおり、わたしは天照台高校・・・この小学校の校長だ。これまで一度も顔を出さず申し訳ない」
「いえ・・・あの、事件のことを聞いて、来て下さったんですか?」
「・・・そうだ。兄に聞いてね。まずは、二人とも無事で何よりだった」
仏頂面がデフォルトかと思われた校長だが、親近感がわくような、気さくな微笑みを見せてくれた。
天照台家でも特に優れた人間しか校長になれないと聞いた。
条件はわからないけど、『人を包み込むような温かさ』みたいな雰囲気や人柄も必要なのではないか。わたしは目の前の校長を見て、そう思った。
「・・・瑞輝。お前、耳が良いみたいだな」
急に、校長は瑞輝くんの聴力の話を始めた。
瑞輝くんのおじさんにあたる校長先生。普段、同じ屋根の下に暮らす二人のはずだが、瑞輝くんは俯いて、話したがらなかった。
もしかすると校長は、家ではスパルタおじさんなのだろうか?
そう思ったわたしは、瑞輝くんの代わりに答えることにした。
「・・・そうみたいですね。わたしには車のドアを閉める音も聞こえなかったのに。視力で例えるなら、十二くらいありそうですね!」
「くくっ、良い例えだ。・・・瑞輝よ、今日の夜、話したいことがある。お前の部屋に行くけど、びっくりしないようにな。ちゃんと、ノックはするからな・・・」
急に入って、何か驚かせるようなことでもあったのだろうか・・・
そんなことを考えていると、校長は、
「話はそれだけだ。先生、引き続き、瑞輝をよろしくお願いします」
それだけ言い、教室の出入り口に向かって歩き始めた。
「・・・は、はい・・・」
急に現れて、話はそれだけ?しかも、同じ家に住んでいるのだから、わざわざここでしなくても良いのでは?
そんなわたしに、後ろ姿の校長は右手を『ピッ』とやり、別れの挨拶をしてくれた。
以外と茶目っ気もあるおじさんかもしれない。わたしの中の好感度が三上がった。
事件の次の日。
校長が瑞輝くんに何を話したのか。瑞輝くんは話してくれなかったし、わたしが聞くことも無かった。
何か、小さい音を聞き分ける仕事でも任されたのかな?わたしは勝手にそんな推測をしていた。
でも、瑞輝くんはしばらくの間、何かを考えるような真剣な表情をしていた。
八月二日。
夏休みのその日、わたしは瑞輝くんの見た目年齢上昇日を祝った。
本当は、一年に一回、四月二日の誕生日だけを祝うつもりだった。
八歳の誕生日を迎えることができない可能性もあったから、できる限りのお祝いをしてあげたかったのだ。
ホールケーキには、二十二本のろうそくを立て、そのうち七本は赤。一本は三分の一が赤いろうそくを立てた。
二十二歳、でも本当は七歳と四ヶ月、という意味を込めて。
「・・・先生ね、今度の誕生日で、二十四歳になるの。来年、瑞輝くんが八歳になったら・・・見た目年齢は二十四歳。四か月間は見た目が同い年になるね!」
来年の本当の誕生日を祝おう、そんな気持ちから出た言葉だった。
でも、瑞輝くんは、自分の寿命がそこまで持たないことを、自分が一番わかっていたのだろう。
「・・・同い年って、特別なの?」
少し曇った表情で、わたしに聞いた。
「うーん・・・年齢を知らない人に『何歳?』って聞いて、同い年が返ってくると、『あ、同い年です!』ってなるの。
それだけなんだけど・・・学校を出るとね、ちょっと親近感が湧くものだよ」
「そうですか・・・じゃあ、僕は本当の年齢と見た目年齢の二つで親近感を持つことができるんですね?」
「あ、イエス!」
「でも、七歳の人とは一方通行の親近感ですけどね・・・」
「そ、そうかもね・・・わたしの場合、見た目が八歳の子に『実は同い年です!』って言われても、親近感どころじゃないもんね・・・面白いけど!あははっ!」
「でも・・・先生は、僕に親近感が湧くのかな?」
「きっと、湧きまくりだよ!あ、でも、親近感と親密は別だから、変なことしちゃダメだよ?」
「・・・変なことって何ですか?」
「あ・・・えっと、スカート捲りとか?」
「スカートを捲って何が楽しいんですか?」
「それは・・・スカートの中に何かがあるのかな?夢とかロマンとか、パンティとか?・・・まあ、七歳の男の子に聞いてみないとわからないね」
「・・・捲ってみて良いですか?」
瑞輝くんはわたしのスカートを見ながら真顔で聞いてきた。
そのときの瑞輝くん。
七歳の男の子ではなく、二十二歳のヤバイやつにしか見えなかった。