123話 膝枕
夢を見た。
そこは、真っ暗な闇の中だった。そこに自分のからだが存在しているのかもわからない。
ただ、意識だけははっきりしており、視覚はどこまでも続くその闇を捉えていた。
しばらくすると、何かが聞こえ始めた。
その声がする方へと意識を向けると、うっすらと光るナニかが浮いているのが確認された。
そのナニかは、少しずつ輝きを増して、おそらくこちらに近づいてきているのだと推測された。
視覚と聴覚以外の感覚は全く無いが、なぜか温かさを感じるような輝きだった。
距離感もつかめないのだが、おそらく二メートル程度まで近づいたとき、そのナニかは止まった。
そして、そのナニかは言葉を発し始めた。
いや、それは言葉ではなく吐息に近いもの。
とても優しく、温かいものが、ただ聴覚に触れた。
もっと、そのナニかに近づきたいと思った。
その優しく温かい光に包まれたいと思った。
そう思った瞬間、そのナニかが近づいてきた。もしかしたら、ナニかは動かずに、自分が近づいたのかもしれない。
だが、二メートルよりも近づくにつれて、その光は輝きを失っていった。
温かく感じていた光は小さく、冷たくなっていった。
優しく聴覚に触れていたモノは、少しずつ耳に障るものへと変わっていった。
ほとんど消えかかったその光に触れた。
手の感覚などもちろん無かったのだが、『触れた』気がした。
ナニかは完全に消えた。
冷たく、耳障りなナニかを耳に残して。
視界には闇だけが残った。
――目を開けると、明るく、真っ白い天井が見えた。
目線を移動させると、そこがアパートのリビングであることがわかった。
徐々に意識がはっきりし、ナニかが自分の頭の下に敷かれていることに気付いた。
枕にしては硬いが、だが、温かく弾力があるモノだった。
「あっ、気付きましたよ」
「良かったぁ・・・」
声が二つ聞こえるとすぐに、紫乃の姿が視界に入ってきた。
もう一つの声の主は姿が見えないが、天照奈で間違い無いだろう。
視界に入った紫乃の見た目が気になるが、まずは自分の置かれた状況を確認することにする。
「僕・・・寝てたの?」
「寝てたというか、気を失っていたんですよ」
「と言っても、五分くらいだけどね。出血多量で死んじゃうかと思ったけど、霧状にすごい勢いで噴射されただけで、量はたいしたこと無かったみたい」
「出血?・・・え、僕、怪我したんだっけ?」
「いえ。だたの鼻血ブーですよ、サイくん」
「鼻血!?・・・ああ、思い出した・・・そっか、紫乃ちゃん、血だらけなのは、ボクの鼻血?」
「ふふっ。人の鼻血を浴びたのは初めてですよ!」
鼻血を浴びせた紫乃に申し訳ない気持ちを持ちつつ、裁は、直近の記憶を思い返した。
そう、天照奈と手を繋ぐ光景、そして・・・
「サイくん、思い出してはいけません。今度こそ死ぬかもしれませんよ?だから、別のことを考えて下さい」
「別のこと・・・」
「紫音のことも起こさないといけないですしね。ちょうど良いので、勉強のことを考えて下さい。今夜、何を勉強するつもりでした?」
「うん・・・今日は英語を徹底的に勉強しようと思ってたんだ。紫音ちゃんの勉強方法も聞きたいなって・・・」
「・・・英語の勉強?わたし、英語得意だよ?」
急にもう一つの声が現れた。その声の主は紫音だろう。
「何なの、この勉強スイッチ・・・はあ、とりあえず二人とも起きたところで、今日はお開きにしましょうかね」
「サイくん、立てる?無理しないで、しばらく横になってて良いからね?」
天照奈の優しい声。
いつもより近くに聞こえるのは気のせいだろうか。
「紫音・・・言いたいことがあるでしょうが、まずは何も言わずに落ち着いて下さい。良いですね?これにはいろいろと事情があるのです」
事情?何か起こったのだろうか?裁は状況がわからず、ただ天井を見つめて、会話を聞くことに徹した。
「ううっ・・・わたしが気を失っていたのが悪いんだろうけど・・・」
「よしよし、良い子です。じゃあ、ボクたちは先に二階で待機を・・・」
「二階はダメだよ?裁くんが復活するまで、着替えるとか、先にお風呂入るとか。ちょっと待っててあげて」
「どさくさに紛れるなんて甘すぎましたね・・・わかりました。紫音、とりあえず着替えてきましょう」
「え、でも・・・あの状態で二人きりにするわけ!?」
「ふふっ。タイトルは『女神の慈愛』でしょうかね。写真を撮ってサイくんのお父様に売りつけましょう!」
何やらよくわからない会話をして、紫乃と紫音は、寝間着に着替えるために裁の部屋に向かったようだった。
枕が少し高いせいか、部屋の出入り口が視界に入り、なぜか紫音は全速力だったように見えた。
「僕、もう平気だから。天照奈ちゃんも、二階に行って大丈夫だよ」
「念のため、二人が戻るまではこのままでいましょう」
「このまま・・・寝たまま、ってことだね・・・なんだか、状況がつかめないんだけど・・・」
裁は困惑しつつも、意識が完全にはっきりした。
枕の位置が気になった裁は、位置調整しようと頭を動かした。
だが、頭では枕を動かすことができなかったため、裁は両手でその枕のようなものを動かそうと、手を伸ばした。
「あっ、ダメ・・・」
天照奈の言葉よりも先に、裁の手が枕に触れた。
だがそれは枕にしては弾力があり、温かい・・・と思った瞬間、枕が無くなり、裁の後頭部は床に叩き付けられた。
「うぐっ・・・」
「ご、ごめん!急に触ってくるから・・・」
裁は、後頭部を押さえながら、その場でからだを起こした。
そして、すぐに状況を察知する。
声が近いと感じていた天照奈は、実際にすぐ近くにいた。
そして、枕があったと思われる場所のすぐ脇に正座をしていた。
近くには、枕と思われる物体は置かれていない。
つまり・・・
「あっ、終わっちゃいましたか!女神の慈愛!」
「良かったぁ・・・見てられなかったもんねぇ」
寝間着に着替えた紫乃と紫音が戻ってきた。
「女神の慈愛?やっぱり・・・」
「・・・事後に気付いたって感じですかね。でも、ふふっ。感触は残っているでしょ?それに、その事実はボクたちの記憶と、ほら、しっかり写真として残っていますからね!」
「嘘っ!いつの間に盗撮ってたの!?」
スマホの画面を見せつける紫乃と、その画像を見て驚く天照奈。
そして裁は、頭の下に敷かれていたモノの正体が推測どおりであることに気付いた。
「膝枕・・・」
――五分前。
鼻から憤血した裁は、その場に崩れ落ちた。
「あらら、お掃除が大変ですね・・・って、ほとんどボクが浴びたから、着替えれば良いだけですかね」
紫乃はティッシュを取り、丸めると、裁の鼻の穴に詰め込んだ。
そして、その場で正座した自分の膝の上に裁の頭を乗せた。
「・・・制服、クリーニング出さないといけないね」
「ふふっ。サイくんの鼻血付き制服。紫音なら額に入れて飾りそうですね」
「そ、そんなに好きなの?裁くんのこと・・・」
「さっきの告白を見聞きしたでしょ?本気なのですよ・・・と言っても、結婚を前提にとか、大人の恋愛とは言えないかもしれませんがね。ボクももちろんそうですけど、恋愛経験など無いので」
「・・・わたしと一緒にお風呂に入りたいっていう気持ちと、どっちが強いのかな?」
「それは別腹ってヤツですよ?ほら、天照奈ちゃんだって。『アニメ』と『恋愛』だったら、どっちを取りますか?」
「アニ・・・いや、どうだろう・・・」
「迷わずアニメと言いかけたのは大目に見ましょう。天照奈ちゃんもまだ恋愛には興味が無いのかもしれませんね。これがもしも『アニメ』と『友情』だったら、きっと友情を取るでしょう?」
「・・・・・・うん」
「・・・とにかく、焦る必要は無いと思いますよ?だってこのサイクロプス、紫音が心臓を貫いたはずなのに、気付かないんだもん」
「本当の気持ち、か・・・」
「ふふっ。そうですね・・・天照奈ちゃん、こっちに来て下さい!」
「え?」
「そうそう、ここで正座して・・・そう、平行移動しますよ?サイくんが鼻血で窒息しないための処置です」
「えっ、これ・・・膝枕じゃない!?」
「ふふっ。すぐ起きるでしょうし。ただの応急処置ですよ!」
「・・・」
――「ふふっ!あ、でも、当分は想像しちゃ駄目ですよ?これこそ死んじゃいますからね」
「そうだよ。ほら、落ち着くためにも、勉強始めようか!」
「それが良いです。ボク以外、思うところはものすごいたくさんあるでしょうが、今日はこれにて・・・解散!」
紫乃の号令で、まず天照奈が逃げるように立ち去った。
「あ、天照奈ちゃん・・・」
裁は、膝枕・・・いや、処置をしてくれた天照奈にお礼を言おうと思ったのだが、思ったよりも早く二階に上がってしまった。
「よし、じゃあ、勉強しよ!それとも、先にお風呂にする?それとも、わ・が・し?」
「えっ、和菓子?」
「うん。美味しい和菓子持ってきたの思い出したの。食後に出そうと思ってたんだけど、うっかり気を失っちゃって」
「あ、じゃあ。和菓子食べながら勉強しよう!」
「では、若い二人を残して、ボクはサイくんの部屋で今後のことを・・・」
「紫乃も勉強しようよ。せっかく成績上がってきたんだからさ、ねっ!」
「今日は、勉強会じゃなかったはずですよ!いやーん!」
最後まで嫌がった紫乃を説得し、一時間半みっちり勉強した三人。
勉強を終え、仲良く浴室へと向かう紫乃と紫音を見届けた裁。
自分の部屋に戻ると、流血疲れか、布団に横になるとすぐに寝てしまったのだった。
七月二日、金曜日。
目覚まし時計に起こされた裁は、布団を捲り、上体を起こした。
両腕を上げて背筋を伸ばしたところで、異変に気付く。
いつものセミダブルの敷き布団。だが、いつもとは異なり、人の姿があったのだ。
しかも、裁を挟むように二つ。
「え、まさか・・・」
全く同じ顔をした二人が、同じ寝相で眠っていたのだ。
「寝る部屋は別々にって言ってたのに・・・」
裁は急いで立ち上がると、捲った布団をかけ直し、そこに自分がいた証拠を消した。
「天照奈ちゃんに知られたら怒られそうだな・・・不可抗力だけど。はあ・・・」
ため息を付くと、裁は顔を洗うために洗面所に向かった。
洗面所から出たところで、ちょうど一階に降りてきた天照奈と出くわした。
「お、おはよう。天照奈ちゃん」
「おはよう、裁くん。あの後、鼻血は大丈夫だった?」
「うん、おかげさまで。ありがとね、その・・・窒息しないように処置してくれて」
「あ、うん・・・窒息しないように処置しないといけなかったからね。あはは・・・っと、朝食つくるから、キッチンに入るね?」
「うん、今日もお願いします」
「ふふっ。あ、でもリビングにまだ二人寝てる?起こさないようにしないとね」
「あっ、えっと・・・」
まさか三人一緒に、裁の部屋で、しかも同じ布団で寝ていたとは言えない。
裁は起きたばかりの頭を回転させ、必至に言い訳を考えた。
「あの後、二人がお風呂に向かったら、すぐに寝ちゃってさ。僕、ついさっきリビングで目が覚めたんだよ」
「そっか。じゃあ二人は裁くんの部屋で寝てるってことね」
「うん。リビングに姿が無かったから、そうだと思う」
「ふふっ。部屋を覗いてないんだね?それは良いことだよ!」
図らずもデリカシーのある行動をしたことになった裁。
部屋に戻ることもできないので、リビングで朝食を待つことにした。
七時になると、紫乃と紫音が寝間着のまま起きてきた。
「おはようございます・・・」
「おはよう・・・」
二人とも朝に弱いのか、眠そうな顔で裁と天照奈に挨拶した。
「いつの間にかサイくんがいなくなってたから・・・紫音の第一声で腕に傷が付いちゃいましたよ・・・」
裁にぴったりくっつくように座った紫乃は、その傷を見せつけてきた。
声量が抑えられていたのか、あるいは紫音の声が被害を抑えたのか。かすり傷程度のものが数本見られた。
「ほんとだよ。一緒に寝たはずなのに、朝起きたらいないんだもん!『朝の木漏れ日を浴びて眠るサイクロプス』を見たかったのに!」
「あの、二人とも・・・一緒に寝てたこと、天照奈ちゃんには言わない方が良いと思うんだ」
「ああ・・・たしかに。不純ですかね。ボクはともかく、紫音は女の子ですから」
「そうだね・・・バレたら今後、泊まりにこれなくなっちゃうかもね」
内々に話をつけた三人のもとに、天照奈が朝食を運び始めた。
裁もそれを手伝い、四人で朝食を取る。
「天照奈ちゃんのお味噌汁、美味しい!」
「良かった!お味噌汁って、家庭の味とかありそうだから、ちょっと心配だったの」
「毎朝、ボクに味噌汁をつくってくれ!って冗談が思い浮かんだのですが・・・ここに毎朝つくってもらってる男がいるんですよね」
「あ、うん。でも、毎日じゃなくて、たまに洋食だったりするけどね」
そういうことじゃない・・・そんな顔をしつつ、ため息をつく紫乃と紫音。
裁はそれを不思議そうに見つめながら、ご飯を口一杯に頬張っていた。