100話 紫乃のオスメス
涙と嗚咽が止まり、ようやく話せるようになった紫音。
「ふぅ・・・ごめんなさい。紫乃の前で泣くとね、二週間は頑張れるんだ!今日は天照奈ちゃんも一緒だったから、もっと頑張れちゃうかもね!」
「ほら、虚勢は良いから話してごらんなさい」
「・・・うん。あのね、さっき紫乃が言ったとおり、わたしは十八歳になったら、声が出なくなるかもしれない。あくまで『可能性の話』だけど。
でも、もしもそうなったとして、たった三か月間しかアイドルとして輝けなかったおばさまと違うのは、わたしにはあと三年もあるということ。
でもやっぱり、もしもそうだとしても・・・急に声が出なくなるのは、つらいだろうなって思うんだ」
それはそうだろう。
こんなにも素晴らしい、人を幸せにできる才能が、もしも三年後に無くなるとしたら。
しかも、その才能には紫乃の分も含まれているのだ。
そのつらさは、天照奈にも想像ができた。
「でも、生まれながら声が出なかった紫乃は、今こうして普通に話せているでしょ?」
「大きな声は出せないですけどね。えらく時間もかかったようですし」
「うん。だから、声が出なくなっても、紫乃みたいに頑張れば元に戻すこともできるかもしれない。だけど、アイドルの寿命って短いんだよね・・・」
「アイドルじゃなくても、一人で歌えばいいでしょ?紫音なら一人でもやっていけるよ」
「わたしは、できればおばさまの想いも背負いたいの・・・」
「紫音ちゃん・・・」
この子は、紫乃の言うとおり『強い』。
だけど、弱いというのも確かだ。
「・・・運命のサイクロプス」
紫音が呟いた。
紫乃が裁に出会った当初、口にしていた言葉だ。
「そう、ウン三が二メートル以内に近づくと、その人が我慢していること、強く願っている思いが発現する」
「・・・ウン三じゃなくて、サイ三だからね?」
「いや、サイ三じゃなくて、裁くんだよね?」
「・・・サイサイが紫乃に近づくと、近づいている間だけ、紫乃の『音で傷つく』という体質が無効化される。紫乃の体質は、おじさまの遺伝情報の操作によってつくられた可能性が高いもの。
それが無効化されるのなら・・・じゃあ、もしも、サイサイがわたしに近づいたら、どうなると思う?」
天照奈は考えた。
自分の体質、それは触れたもの全てを触れた場所へと跳ね返す。何ものも自分のからだに触れることができないのだ。
この体質は、天照奈が小さい頃、裁に近づいたことで発現したと考えられるものだった。
『つくられたもの』と言ってもいい。だからなのか、天照奈のそれも、裁が近づいている間は、無効化される。
そして、紫音の体質・・・というか、この場合は才能と言えるものなのだが。
これは、遺伝情報の操作により、伝説のアイドルの才能を受け継いだものだと考えられる。
もしもこれを『つくられたもの』だととらえるならば・・・裁が近づくことで無効化する・・・?
そうか・・・天照奈は、紫音の考えがわかった。
「裁くんに近づいて、もしもその才能が無効化されるとしたら。それは、『遺伝情報の操作によってつくられたもの』だと考えられる。それが『十八歳を期限に失われる才能』だったとしたら・・・紫音ちゃんが十八歳になったときに、その声が出なくなる可能性が高い。そう考えているの?」
「・・・うん」
「でもね、紫音。もしもサイくんに近づいて何も起きなければ。例えば『天照奈ちゃんと一緒にお風呂に入りたい』っていう思いが発現して、お風呂に入ってるところを強襲するのであれば、それはそれで良いでしょう」
「良くないよ?」
「そして、サイくんが近づいている間だけ、声が出なくなるのなら・・・それは、紫音が考えているとおりになる可能性が高いかもしれない。でもね・・・ボクは、もっと最悪のことを考えているんだ」
それはおそらく、天照奈も考えていた、想定しうる範囲内で最悪のものだろう。
「サイくんのその体質はね、完全に把握されているわけじゃないの。サイくんの周りでは、起こり得ないことが起きてしまう。だから、ボクが考える最悪の・・・
『近づくことでその才能が完全に無くなる。サイくんから離れたとしても、声が出ないまま』
という事象が起きてしまうかもしれない」
紫乃の言うことは、あくまでも可能性の一つだ。
だけど、紫乃の言うとおり、普通に考えれば起こり得ないことが起こり得てしまうのだ。
「紫音ちゃんは、どうしたいと思っているの?」
天照奈は紫音に質問した。
おそらく、紫音の中では答えが決まっているのだろう、そう思った。
「わたしは・・・サイサイに近づいてみたい。この才能が、ただのつくりものじゃない・・・そう思いたいの。
おばさま、そして紫乃の想いを、夢を叶えるために、『わたしの中に生まれたもの』そう、思いたいの!」
「はあ、紫音は全くもう。ボクも信じてるけどさ。でも、ダメだったときのこともちゃんと考えてよね?」
「ふふっ。大丈夫だよ。ちゃんと考えてるから」
「わかった。じゃあ、どうする?今日、もう今すぐ近づいちゃう?」
「うん!お近づきになりたいな!」
『ん?』天照奈は紫音の反応に違和感を感じた。
でも、その微笑み、そして覚悟を決めた表情を見て、そんなことはどうでも良いと思った。
――八時三十分、黒木家。
連休中の予定が何も無く、朝から晩まで勉強の予定を組んでいた裁。
だが、そんな裁も、勉強しかしていないと思われることを気にし始めていた。
勉強している分、成績も良ければいいのだが・・・どうやらそうでもないのだ。勉強道具が重いという呪縛からは解放されたものの、それでも要領の悪さは変わっていないらしい。
だからといって、今さら他の趣味を探すのも難しいし、勉強に代わるものを見つけることができるだろうか。
そこで裁は、『音楽を聴く』ことを始めてみることにした。
紫乃から聞いた話では、『音楽を聴きながら勉強をするのもあり』らしいのだ。
イヤホンを付ければ、よほどその音楽に集中しない限り、外界の音を遮断できるし、勉強に集中できるという。
かといって、これまで音楽というものはテレビCMで流れるものしか聞いたことがないし、それを聞く媒体も持っていなかった。
発案者の紫乃に相談したところ、昨日の仕事の前に、『データがたくさん入った音楽を聴ける機械』をくれたのだ。
手のひらに収まるその小さい機械には、紫乃の姉が所属するアイドルグループの曲を中心に、千曲近く入っているらしい。
早速、イヤホンのLRを確認してを耳に着けると、再生ボタンを押してみた。
「ぐわっ!!」
音量の初期設定が大きすぎたのか、その大音量に驚いた裁。
ディスプレイに四十と表示された音量を、五まで下げてみた。耳鳴りが治まると、少し小さめのその音量から、耳にしっくりくる音量を見つけて、聴き始めることにする。
データの中には、紫乃が特に好きな十曲を選曲したという『紫乃のオスメス』というアルバムがあった。
おそらく『オススメ』の間違いだろうが・・・でも、紫乃の場合はからだがオスで中身がメスだから、一概にミスとも言えないかもしれない。
とりあえずその十曲を聴いてみようと思い、アルバムの一曲目を再生した裁。
・・・気付くと十曲全てが終わっていた。
時計を見ると約一時間が経過しており、そして目には涙が溜まっていた。
その十曲は、全て紫乃の姉、紫音の曲だった。
アイドルグループと聞いていたのだが、どうやら紫音一人で担当する曲だけが選ばれていたらしい。
他の人の歌は聴いていないのだが・・・歌とは、これほどまでに心を揺さぶるものなのか。
これでは、勉強なんて捗らないのではないか・・・いや、もしかすると勉強する直前に聴くことで全神経が覚醒するのかもしれない。
そう思い、裁は予定より遅れてしまった勉強を始めてみた。
思ったとおり、これまでよりも内容がスムーズに頭に入ってくるし、問題を解くスピードも早くなった。
三十分を予定していたものが、十五分で終わったのだ。
裁は『勉強の女神』との出会いに感謝し、今後も崇拝することを決めた。
女神の歌はまた後で拝聴するとして、裁は試しに他の曲も聴いてみることにした。
再生したのは、紫音のグループメンバー全員、八人で歌う曲だった。
短いパートを代わる代わる歌っていく方式で、歌声は人それぞれ特徴があった。
既に女神を崇めてしまっているためか、裁は紫音のパートを心待ちにしてしまっていた。もちろん他のメンバーの歌声も綺麗だったり格好良かったり可愛かったりするのだが。
紫音の歌声を擬人化すると、まさに天照奈ではないか・・・そんなことを考えながら、結局このグループの曲でも勉強に集中できないとわかった。
ものは試しで、別の歌手の曲も聴いてみよう。
そう思って機械の操作を始めたときだった。背中に何かが当たったような、違和感を感じた。
振り返ってみると、そこには三人の女の子が立っていたのだ。
そのうちの一人、透明なフェイスガードをすっぽりと被った女の子が、何かを叫ぶように口を動かしていた。だが、その声は聞こえなかった。
イヤホンをしていることを思い出した裁は、音楽を停止してイヤホンを外した。
「もう!音量大きすぎるんじゃないの?バールのようなもので背中を殴ったのに気付かないんだもん!」
「ごめんごめん。音楽聴くの初めてだったから、つい興奮しちゃって」
「きゃっ!もしかしてわたしの曲で興奮してくれたの?」
バールのようなもので殴られたことは気にもとめなかった裁は、初めて見る顔に気付いた。
正確にはいつも見る顔と瓜二つの顔なのだが、素肌を露出しており、そして雰囲気が違うのだ。
「もしかして、紫乃ちゃんの、お姉ちゃん?」
「ふふっ。お初にお目にかかります。紫音でーっす!よろしくね、サイサイ!」
「さ、さいさい?」
「マネマネ理論ですね」
「言っておくけど、僕の名前にはサイクロプス入ってないからね!?」
「きゃーっ!聞いてたとおり、からかい甲斐があるね」
「それは良いとしてサイくん。音楽に熱中するのは嬉しい限りです。オスメス・・・じゃなくてオススメした甲斐があったというものです。でも・・・ちゃんと携帯電話確認してよ!メッセージも、電話も、何回もしたんだからね!」
そう言われて、裁は机の上に置いていた携帯電話を見た。
メッセージ、着信を合わせて百件近く入っていた。
「ご、ごめん!全然気が付かなかった・・・はっ!そうか、これをうまく使いこなせば、それだけ勉強にも集中できるということか!」
「そうだけど、裁くんがそんなスキル身に付けたら危険じゃない?気付いたときには一週間くらい経過してるとかあり得るよね?」
「あり得ますね」
「そ、そんな・・・さすがにお腹空くし・・・いや、お腹の音も聞こえないのか?」
「あ、でもアパートでは普段着だから、バールのようなもので殴れば気付くよね!」
「死んじゃうよ!?」
「あはははっ!サイサイって面白いね!勉強好きなの?わたしも大好きなんだ!ねぇ、今度わたしと一緒に勉強しようよ!」
「お待ちなさい、紫音。今は『勉強が趣味』で盛り上がる場面じゃないでしょ。本題に移りましょ?」
「うん、わかった・・・あのね、サイサイ。お願いが、あるの・・・」
紫音の覚悟は決まっている。だが、初対面である裁にどう説明したら良いかを悩んでいるようだった。
「紫音ちゃん。わたしから説明するよ?」
「天照奈ちゃんはサイくんの餌やり係ですからね。最も信頼関係を築いているんです」
「・・・うん、ありがとう、天照奈ちゃん。わたしの代わりに骨付き肉・・・じゃなくて、説明をお願いします」
天照奈は、先ほど別宅で紫音から聞いた話を、裁に説明した。