第四十八ラウンド 新学期
八月が終わったからといって、いきなり夏が終わるわけじゃない。
相変わらず、セミはミンミンジィジィとうるさく騒いでいるし、日差しは強いし、アスファルトだって、朝から焼けるように熱い。
それでもぼくは、その熱い地面をしっかりと踏みしめながら、ひさしぶりの学校へと向かっていた。
今日は、九月一日。二学期の始業式だ。
下駄箱で靴を脱ぎ、上履きに履き替える。見知った生徒と目だけで挨拶を交わして、階段を登る。
三階の、自分のクラスに入る。
整然と並べられた机の間を縫うようにして歩き、ぼくは、生徒たちが集まっている教室の一角へと、足を向けた。
そこには、牧島岳が座っていた。
いつものように、クラスの「一軍」連中に囲まれて、笑っていた。
「おはよ、堀田っち」
いつものように机に腰掛け、チュッパチャプスを加えた二里美弥が、ぼくに笑顔を向けた。
ぼくは、二里美弥に、黙ってうなずき返した。
「よぅ、堀田」
牧島岳が、ぼくに笑いかけた。
「最近、付き合い悪いじゃねぇか。今日、久しぶりにカラオケでも行くか」
牧島岳の言葉にぼくは答えず、黙ってバッグから財布を取り出し、その中から、千円札を五枚取り出した。そして、それを無言で牧島岳に差し出した。
「……なんだよ、これ」
牧島岳は、受け取る素振りも見せずにそう訊いてきた。
「今まで奢ってもらったぶん、返すよ」
ぼくは牧島岳の机の上に、五枚の千円札を置いた。
周りのみんなが、息をのんだ。
「……そのかわり、今まで晴人からとったお金、返してやってくれないかな」
ぼくは、真っ直ぐに牧島岳の目をみて、そう言った。
「……堀田」
横から、黒川がつぶやくようにそう言った。
ぼくが、黒川の方に、一瞬だけ視線を向けたその時だった。
いきなり、ぼくの左頬に衝撃が走った。
ぼくは、二、三歩うしろによろめき、お尻の辺りを誰かの机に打ち付けた。
「岳!」という二里美弥の叫び声と、数人の女生徒の「キャーッ!」という悲鳴のような声が、同時にあがった。
それを聞いて、ぼくは、牧島岳に殴られたのだと理解した。
ぼくが、体勢を立て直すより先に、牧島岳は、もうこちらに掴みかかって来ていた。
左手でぼくの襟を掴み、右の拳を振り上げた。
それが当たるより早く、ぼくは、左肘を牧島岳の顎に疾らせていた。
力を抜いた、倒すためではなく、距離を取るための肘打ちだ。
それでもそれは、ピンポイントで牧島岳の顎をとらえた。牧島岳が、よろめくようにうしろに退がる。
その隙に、ぼくは、教室のいちばん後ろに動いた。
すこしでも、自由に動ける空間が欲しかった。
「堀田ぁ!」
牧島が絶叫し、傍の誰かの椅子を手に取り、両手で持ち上げた。
「岳!」
二里美弥がふたたび叫んだ。
その椅子が、ぼくの方に飛んできた。
当たる前に空中で失速し、それは、ぼくの足元に転がった。ガシャン! と、ものすごい音がした。
牧島岳が、襲いかかってきた。
むやみやたらに、両の拳を振り回す。
そのパンチは、凄まじいスピードだった。
テレフォンパンチでなければもらってしまうくらいの、素人とは思えない速さだ。
だけど、そのパンチがぼくには全て見えた。
正確に言えばそうではない。
素人には、どのパンチも最初に「振りかぶる」動作がある。それを見落とさなければ、全部かわせるのだ。
焦れた牧島岳が、また、組み付いてきた。
今度は、軽く頭突きを入れた。さらに、左の前腕で牧島岳の顔にグリグリと圧力をかける。
「倒そう」なんてつもりはなかった。
ただとりあえずは、牧島岳をおとなしくさせないといけない。
牧島岳が、力なくよろめいた。
机のひとつにあたり、転倒した。
机の中身が、あたりにぶちまけられた。
「牧島!」
一軍の誰かが叫んだ。
牧島岳が、ゆっくりと立ち上がった。
その手に、ぎらりと鈍く光るものが握られていた。
女生徒が、もういちオクターブ高い悲鳴をあげた。
それは、彫刻刀だった。
小振りな彫刻刀が、牧島岳の手に握られていた。
ぼくは、自分の心臓が「ドクン」とおおきく跳ねる音を聞いた。
牧島岳が、彫刻刀を振りかざした。
一気に、ぼくに向けて振りおろした。まったく、躊躇というものを感じなかった。
その時、ぼくと牧島岳の間に、誰かが飛び込んだ。
彫刻刀が宙で煌めき、次の瞬間、床に、ポタポタと数滴のなにかが落ちた。
真っ赤な、血の滴だった。
「牧島!」
黒川が叫んだ。
ぼくの前に飛び出してきた生徒が、力なく床にへたり込んだ。
左肩の辺りを、右手で押さえていた。シャツの袖口に、みるみるうちに血が滲んだ。
「美弥!」
牧島岳が、彫刻刀を放り出して駆け寄った。
それは、二里美弥だった。
二里美弥が、ぼくを庇うために飛び出してきたのだった。




