第四十七ラウンド 復讐
ぼくは、すこし腰を落として、両手を腿の前に浅く構えた。
拳は握らず、軽く開いておく。
「喧嘩は試合とは違うからな。べつに、顎の高さに拳を構える必要はねぇ」
道場で、浦ノ崎丈は笑いながらそう言った。
「素人のパンチなんて、フックしかない。それも、超大振りの。躱すか防ぐかして、すぐに反撃できる」
頭の中で、道場での久原拓哉の言葉も思い出す。
不思議と、緊張はしていない。
自分の呼吸の音が聞こえる。
すこし浅くて、すこし早めのような気がする。
鼻をおおきく開いて、たっぷりの空気を、肺とお腹に行き渡らせる。
すこし尖らせた口から、ゆっくりと吐く。
……よし。
呼吸も、もとに戻った。
茶髪の男……立岩の顔を見る。
露骨に苛立ち、焦れているのがわかる。
浦ノ崎丈が、後ろで見ている……その事実が、いつものふてぶてしい表情や態度を、立岩から奪ってしまっているのかもしれない。
ぼくは、自分から、立岩に近づいた。
一歩、二歩、三歩、四歩。
五歩目で、間合いに入った。
立岩の右拳が動いた。
後ろに、おおきく振りかぶった。
ぼくは、ほぼ同時に、右の拳を打ち出した。
立岩の腹に向かって、真っ直ぐに。夏休み中に何度も何度も繰り返した、あの突きだ。
いつも通りのタイミングで、黒いカマボコを突くように。
拳が立岩の腹に当たった。
手ごたえが、なにもなかった。
ただ「むにゅり」といった感じで、拳が、立岩の腹に軽くめり込んだ。
効かなかった!?
次の瞬間、ぼくは、飛んでくるであろう立岩のフックを防ぐため、左腕を「くの字」に曲げて、顔の横に押し当てた。
フックは、飛んでこなかった。
立岩は、ぼくの足元にうずくまり、腹を押さえてうめいていた。
ぼくは、なにが起こっているのか、よくわからなかった。
呼吸がうまくできないのか、獣のようなうめき声をあげ、身体を丸めて悶絶していた。
久原拓哉に蹴られた時と、同じだった。
ぼくは、思わず浦ノ崎丈の顔を見た。
浦ノ崎丈は、笑っていた。
「おまえの勝ちだ」
笑いながら、浦ノ崎丈はそう言った。
*****
ローソンの店内に駆け込むと、カウンターには、久原拓哉の姿がなかった。
たまに見るバイトのお姉さんがいて、ちいさく鼻歌を歌いながら、レジ周りの掃除をしていた。
「あ、あの」
ぼくが声を掛けると、お姉さんは微笑んで、
「あ、久原君? いま、トイレ掃除してるよ」
と、教えてくれた。
ぼくはぺこりと頭を下げると、本棚の向こうの、トイレに走った。
開け放たれたドアの向こうで、ゴム手袋を着けた久原拓哉が、便器の中をブラシでごしごしと磨いていた。
「久原さん!」
ぼくは、その背中に声を掛けた。
久原が振り向いて「押忍」とちいさく応えた。
ぼくは、その手をゴム手袋越しに握りしめた。
「わっ、バカ。汚ねえ……」
久原拓哉は言いかけて、そして、黙った。
ただ、ぼくの顔を見つめていた。
涙を流している、ぼくの顔を見つめていた。
「久原さん、勝ちました。……ぼく、あいつに勝ちました」
ぼくは、絞り出すようにして、そう言った。
涙が、止まらなかった。
「頑張ったな」
久原が、優しく笑って、そう言った。
ぼくは、
「押忍」
と、答え、また泣いた。




