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第四十四ラウンド 病

「乳癌でした。わかった時には、もう完全に手遅れでした」


 そう言って、久原正勝はグラスを口に運んだ。苦いものを噛み潰しでもしたような表情を、すこし見せた。


「あんなに腫れあがるもんなんですね。情けないですけど、まともに見るのも辛かったですね、わたしには」


「自覚症状とかは……?」


 お父さんが、おずおずと訊ねる。


「違和感は、なんとなくあったらしいです。そのうちに病院に行こうとは思っていたらしかった。……ただ、夫のわたしが長距離トラックに乗っているもんだから、家の事は、拓哉の子育ても含めて全部を妻がやっている。いろんな事に忙殺されて、ついつい、診察を受けるのが遅れてしまった」


「……」


「“さすがにおかしい”となり、休みをとって病院に行ったら、医者にこっぴどく叱られましたよ。なぜ、もっと早く連れてこなかったのかってね」


 川内先生とお父さんは、無言で、自分のグラスを傾けた。


「すぐに容態が悪化して、集中治療室に入れられて。そこからは、もう、あっという間でしたね。病院に行って、せいぜい二週間くらいかな。拓哉が、まだ五歳の頃ですよ」


 五歳……。

 ぼくは、思わず想像して、軽く身震いをしてしまった。


 お母さんが、いきなり死んで、いなくなってしまう。


 たとえば、それを、ぼくが五歳の時に、受け入れる事は出来ただろうか。

 出来ないと、ぼくは思う。

 十四歳の今、そうなったとしても、やっぱり、受け入れられないだろう。


 ぼくは決して、マザコンではない。


 だけど、たしかに、自分の身の回りの事は、全部と言っていいほど、お母さんに任せっきりだ。食事の用意、後片付け、部屋の掃除、洗濯、お風呂の準備……ぼくがやってる事など、なにひとつない。

 

 お父さんとふたりになって、それを、今と同じ水準で出来るのか。


 いや、違う。


 家事だとか家計だとか。そんな単純な話じゃない。


 いきなり、家族のひとりがいなくなる。その事実は、果たして、どれくらい大きな事なのか。


 ぼくは、いままでの人生で、家族を失った事がない。


 ……こどもの頃、飼い犬が死んだ事はある。

 ぼくが生まれる前から飼われていた「コロ」という茶色の雑種だった。よく庭で遊んだし、一緒に散歩にも出かけた。ひとまわりでだいたい五キロほどの道のり。ぼくが学校から帰ると、コロはいつも「散歩に連れていけ」と言わんばかりに吠え、尻尾を振った。


 コロが死んだのは、ぼくが小四の時だった。老衰だ。


 だんだんと弱っていくコロの姿を見るのは、とてもとても辛かった。そのうち、餌はおろか水すら飲まなくなり、やがて、玄関に敷かれた毛布の上で、ひっそりと死んだ。


 ものすごく哀しいのに、なぜか、涙は出なかった。


 黙って毛布に包み、おとうさんと一緒に、裏山に穴を掘って、埋葬した。


 それからしばらくは、住人をなくした犬小屋を、ぼうっと見つめる日が続いた。いつもの散歩道をぼくひとりだけで、コロが使っていたリード紐をポケットに突っ込んで歩いた時もあった。


 あの、言いようのない喪失感。

 あれよりも、おそらく、もっともっと大きな負の感情に襲われるだろう。

 そんなつらいことを、久原拓哉はたった五歳で体験したのか。


「そのあとは、長距離の仕事じゃなく近隣の仕事に回してもらって、なんとかふたりでやって来ました。それまでは家の事などなにもやった事がなかったもんで、妻の親御さんや近所のひとたちにも、さんざん世話になりましたね。……そのうち拓哉は、自分で進路を決めて、中学を出て、働きながら通信定時制高校に通い始めました。わたしもなんとなく肩の荷がおりた気持ちになって、また、長距離の仕事に戻りました」


 そこまで話すと、久原正勝は、またひとくち酒を飲んだ。

 ぼくたちは、だまってその様子を見つめていた。


「そしたらある日、急に“競斗を始めたい”って言いだしてね。……それがどうも、わたしが昔ガオランにやられたあの動画をどこかで見つけてきたらしくて」


 そう言うと、久原正勝は苦笑いを浮かべて、頭の後ろをぽりぽりと掻いた。


 


 


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