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第四十二ラウンド 事の始まり

「事のはじまりは、世界選手権ですよ」

 久原正勝は、ぼそりとそう言った。


「大学一年で、レスリングの世界選手権で優勝してしまった。場所はアトランタでした。男子選手では、数年ぶりの優勝でした。なので、協会は大いに盛り上がりました。翌年にはオリンピックも控えてる。“このままいけば、二冠達成だって夢じゃない”ってね」


 久原正勝のグラスが空になった。そこに新たに水割りを作ろうとした川内先生の手を柔らかく制して、久原正勝は、自分で酒を注いだ。


「ところが、その直後の練習中に、靭帯を損傷してしまいました。結果、オリンピック代表は流れて、わたしは宙ぶらりんの状態になりました」


「…………」


「リハビリも終わって、いざ、次の大会に……というにも、どうにも練習に気持ちが入らない。オリンピック代表を逃したことで、なんとなく、燃え尽きたんでしょうね。……で、結局、大学のレスリング場にも顔を出さなくなった」


 そこまで話すと、久原正勝は、また、ひとくち酒を含んだ。

 皆は、黙って話の続きを待っていた。表の道路を、車が短くクラクションを鳴らして通っていった。


「そんな時、たまたま、大学の友達から“今度、日本でおおきな格闘技のイベントがあるらしい”って聞かされたんです。アメリカの格闘技イベントで有名になったブラジル人柔術家と、格闘プロレスの“山田明彦”が闘うんだって。その大会で、ほかにもいろんな格闘家が集まって、試合があるらしいって」


「懐かしいですね」

 お父さんが、目を細めた。

「あの頃、ブラジリアン柔術とバーリトゥードが流行りましたもんね」


「バーリ……?」

 ぼくが訊くと、川内先生が笑って言った。


「バーリトゥード。ポルトガル語で“なんでもあり”って意味らしい。当時、アメリカで道場を開いていたブラジリアン柔術の一族が主宰した、ほとんど反則事項のない格闘技イベントが、そう呼ばれていたんだ」


 と、言われても、まだ、ぼくにはわからないことが多い。

 ブラジリアン柔術ってなんだ? 山田明彦って、誰?

 あまり話を混ぜっ返すのもなんだか悪い気がする。ぼくは、あとからググってみることにして、黙って話の続きを待った。


「それを聞いて、なんだか急にソワソワしてきてね。いてもたってもいられなくなって、山田明彦さんの団体の事務所に、のこのこ出て行ったんです」


 久原正勝は、ひとつ、ちいさくため息をついた。


「応接室に通されてしばらく待ったら、いきなり、テレビでしか見たことない本物の山田明彦さんが出てきました。さすがにヘビー級ですよ、デカさと迫力に圧倒されましたね」


 お父さんと川内先生が「……おぉ」と、ちいさく声を漏らした。


「名前を告げたら、なんと、わたしの事を知っていたんですよ。嬉しかったですね。で、馬鹿正直に“今度のイベントに、自分も出られないだろうか”と訊ねました。そしたら“レスリング協会と大学がうんと言ってくれれば、充分に参加資格がある”と言ってもらえた」


 懐かしそうな表情でちいさく笑って、久原正勝は話を続けた。

 

「そこから、山田明彦事務所の社員さんと一緒に、レスリング協会にアポなしで向かいました。たまたま世話になってる理事の先生が手空きだったんで、事情を説明しました。すると“本人がやる気があるのなら、協会はバックアップしていく”と言ってもらえました」


「そういうところは、レスリングは組織が柔軟でいいですね。これがたとえば柔道協会なら、破門処分でしょうから」


 川内先生が言うと、久原正勝は「そうですね」と、うなずいた。


「……そのあとは、トントン拍子ですよ。大学に休学届けを出して、山田明彦さんの道場やら、キックのジムやらに出稽古三昧の日々になりました。ひたすら、総合の練習をしました。そして、打撃にも段々と慣れてきたある日、いきなり、事務所に呼び出されました」


 久原正勝は、またひとくち酒を飲んだ。


「応接室には、山田明彦さん、レスリング協会の理事先生、もうひとり、見たことのない男がいました。その男が差し出した名刺には“富士宮テレビ 番組制作部門ディレクター”と肩書きがありました」


「テレビ局ですか」


 お父さんの言葉に、久原正勝がうなずく。


 「“君に、レスリングチャンピオン以外の肩書きがもうひとつ欲しい。来月、ハワイである格闘技イベントがあるんだが、挑戦してみないか”って、いきなり言われました。……しかしまぁ、なかなかない機会だし、そろそろ実戦もやってみたかった。わたしは、二つ返事でそれを受けて、それから、ハワイに飛びました。

 試合の一週間前まで現地のジムで調整をして、それから、調印式、試合となりました。新規の格闘技イベントで、全試合が、初代王座決定戦でした。全部で六試合くらいはあったかな。わたしは、第三試合。相手は、黒人のキックボクサーでした」


「おぼえてますよ」

 川内先生が言う。久原正勝がちいさく笑う。


「いざ実戦となると、パンチのガードも蹴りのブロックもなかなか思うようにはいかなくて。……それでも、強引にタックルに入って、グラウンドで上になって。コツコツと三ラウンド通して塩漬けにして、なんとか判定で、腰にベルトを巻きました」


 ぼくたちは、無言で聞き入った。


「それから二ヶ月。横浜アリーナで“RIDE ON(ライドン)”の開催が決定しました。わたしの相手は、ヨーロッパを主戦場にしているムエタイ選手。マスコミ的には“立技対組技。中量級世界最強決定戦”みたいな触れ込みでした。おこがましいにもほどがありますがね」


 久原正勝は、また、懐かしそうに目を細めた。

 そして、ひとつ深い呼吸をして、ぽつりと言った。


「……その相手が、ガオランでした」




 

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