第三十九ラウンド 久原拓哉の、因縁。
店内放送の音が、ちいさく聞こえてくる。五年ぶりの全国ツアを敢行するらしいロックバンドのチケットが店舗の端末で購入できるということをボーカリストらしき男がしゃべり、曲が掛かる。なんだかちょっと古臭く聴こえる、ロックだった。
ぼくはいつものローソンの、イートインスペースではなく、事務所の方に通されていた。
その横では、川内優希がパラパラとファッション雑誌をめくっている。
そこに、紙コップをふたつ持って、川内先生が入ってきた。ひとつを川内優希に、もうひとつが、ぼくに渡された。
「ガオランの試合、観たんだな」
事務机の前の椅子に腰掛けると、川内先生は、誰にともなくそう言った。
「押忍」
ぼくは、ちいさくそうこたえた。
「……すごいよな、あいつは」
川内先生が、パソコンのモニターを見つめながら、ぼそりと言った。
「押忍……」
ぼくも、ぼそりとこたえる。
そのあと、川内先生は黙り込んでしまった。
ぼくは、なにを言えばいいのかわからずに、黙って紙コップの中身を啜った。
川内優希が雑誌のページをめくる音と、もれ聞こえてくる店内放送が、やけにおおきく、ぼくの耳に響いた。
「……と、いう事は、おれがやられた試合も観たわけだ」
たっぷり間を置いて、川内先生がそうつぶやいた。
「…………」
ぼくが無言でうなずくと、川内先生はニヤリと笑った。
「まぁ、見てのとおりに手も足も出なかったよ。……で、きっぱりと引退した」
「押忍」
妙にサバサバした口調で川内先生はそう言って、またちいさく笑った。ぼくも、つられて笑い返した。
川内先生が、傍らのペットボトルを手に取り、キャップを開けた。なかに閉じ込められていた炭酸が抜ける「プシュッ」っという音が、ちいさく響いた。
「……久原先輩は、どうしていきなりぼくに怒ったんでしょうか」
ぼくは、今日の稽古中の出来事を、思い出しながらそう訊いた。
ガオランの代表的な技を真似して見せた瞬間、いつもは「冷静沈着そのもの」の久原拓哉がはじめてぼくに見せた、怒りの表情。
……正直、怖かった。足がすくんだ。
「あぁ……」
川内先生が、ペットボトルを口に含んで、ちいさく言った。
「あいつは、ガオランのことが、大嫌いだからなぁ」
「大嫌い?」
あまりにもシンプルな言葉に、ぼくはついつい質問を重ねた。
「なんでですか」
川内先生は、ちいさくゲップをしたあと、キャップを閉めながら言った。
「……あいつの事情を、おれの口からペラペラとしゃべちまうわけにもいかないから、そこは伏せておく」
「コホン」
自分に向けられた視線を感じて、川内優希がちいさく咳払いをしてみせた。
「ああいう性格だし、直接あいつに訊いたところで言いもしないだろうが……」
「押忍」
「……ただ、おまえがガオランの試合動画をネットで漁ってたら、そのうち、理由はわかるはずだ。そのうちな」
「押忍……」
そこまで言うと、川内先生は椅子から立ち上がり、大きく背伸びをした。ゴキゴキと、先生の背骨が鳴る音がした。
「……さぁ。また明日も迎えに来るから、今日のところはもう帰りなさい」
それを聞いたぼくも立ち上がり、
「押忍。……ココア、ごちそうさまでした」
と、言った。
先生は、にこりとほほ笑んだ。
*****
部屋に戻ると、ぼくはスマホでYOUTUBEのアプリをタップし、机の上のノートパソコンで、WIKIPEDIAを開いた。
ノートパソコンの方で、ガオランの戦績を調べる。
数年前に競斗に参戦する前、ムエタイ選手「ガオラン・ユニバーサルムエタイジム」としてのキャリアが、一覧表になっていた。
戦績、283試合中、251勝。負けが18、引き分けや無効試合が、14。ちなみに、敗北のほとんどはタイでの試合で、日本や、ヨーロッパ、アメリカでの試合では、滅多に負けていないらしい。
その、滅多にない外国での敗北のひとつが、日本人との試合で記録されていた。
1998年の横浜アリーナ、総合格闘技の試合だった。
対戦相手の名前を見て、ぼくの背中に「ぞくり」とちいさな悪寒が走った。
そこには「久原正勝」という名前が、記されていた。
ぼくは、すこし震える指で、スマホにその名前を入力した。
すこしの間があって、みっつほどの動画のサムネイルが画面に並んだ。どれも、同じ試合のようだった。
その中でも、いちばん画質が良さそうな動画を選んで、ぼくは、それをタップした。




