第38ラウンド 怒り
稽古の最中、ついつい、川内先生の顔を盗み見てしまう。
昨日の夜に観た、ガオランとの凄惨な試合。
本気になったガオランの、圧倒的な強さ。
このひとは、あんな化け物と闘ったのか……。
いままではただ「にこにこしてるだけの陽気なおじさん」というイメージだったけれども、今日はなんだか、立派な格闘家に見えてくる。
そして、そのガオランと闘うことを熱望しているという、久原拓哉。
当然、久原拓拓哉だってあの動画は観ているはずだ。僕なら、あんな化け物と闘うなんて絶対にゴメンだ。なのに、なぜ、そんなことを願っているんだろう。
その時、いきなり頭に軽く衝撃を受けた。
浦ノ崎丈が、パンチミットで僕の頭を叩いたのだ。
「おい、もっと気ぃ入れて突けよ」
浦ノ崎丈が言い、僕は、
「お、押忍」
と、慌てて答えた。
*****
僕は、ガオランの試合を観るのが楽しみになった。
華麗なボディワーク。
軽快なフットワーク。
鋭い攻撃。
ムエタイという競技の強さを、僕は、ガオランからまざまざと見せつけられた。
シャドーの時には、どこか、ガオランの動きを意識して動いていた。
ジャブをボディに放ち、反撃をスウェイで躱して、蹴りでカウンターを取る。
相手のワンツーをボディワークだけで躱して、数発のジャブからミドルキックに繋げる。
試合中にガオランが見せる様々なテクニックを、鏡の前で真似してみた。
そして、道場でのスパーリングで、意識して使ってみる。そのうちに、前蹴りやパンチ、ローキックが、軽くとはいえ川内優希や浦ノ崎丈にも入る頻度が増えてきた。
僕は、なんだか自分が急に巧くなったような気分になった。
順番が巡り、久原拓哉と向かい合った。僕への手技の顔面攻撃はない、変則ルールだ。
ブザーが鳴り、グローブを合わせた。
僕は、いきなり右のストレートで入った。
久原拓哉が、スウェーバックで軽く躱す。僕はその躱した方向に向けて、追いかけるようにハイキックを放つ。
久原拓哉が、上腕でそれを受けた。
パシン! と、乾いた音が道場に響く。
……僕が、久原拓哉からポイントを取った!
すぐさま、久原拓哉がハイキックを返してくる。
スウェーで躱そうとしたけど、とても間に合いそうにない絶妙なタイミングの蹴りだ。なんとか上腕を上げて、それを防ぐ。
バシン! という音が響く。
失点。
あっという間に、五分に戻された。
スーパーセーフ面の向こうで、久原拓哉がにやりと笑ったのが見えた。僕も、笑みを返す。
いける。
僕は、あの久原拓哉と、ちゃんと技の交換が出来るようになっている。
立派な、スパーリングが出来ている。
僕は、さらにガオランの技を試したくなった。
軽く跳び上がり、上体を蹴ると思わせて、ローキック。
ガオランがたびたび出す、代名詞のようなフェイント技だ。
それが、久原拓哉の脚に、軽く当たった。
僕は、思わず笑った。
次の瞬間、僕は、真正面から両襟を掴まれた。
グイっと、強い力で引かれる。
久原拓哉の顔色が、変わっていた。
いままで見せた事のない、怒りに満ちた表情だった。
「……おい。そりゃ、なんのマネだ」
久原拓哉が、そう言った。
僕は、なにが起きているのかよくわからずに、呆然と立ち尽くすしかできなかった。
「久原!」
横から浦ノ崎丈が僕らの間に割り込み、ふたりを引き離した。
「おい、なにやってんだよおまえ!」
浦ノ崎丈が、声を荒げた。その後ろから、川内優希も不安そうな視線をこちらに向けていた。
「……すまん」
久原拓哉はちいさくそう言うと、講堂の隅に置いている自分のバッグを抱え、一礼をして、無言で出ていってしまった。
「なんだ、あいつ……」
浦ノ崎丈が、苛立った様子でつぶやいた。
僕は、川内先生の顔を、ちらりと見た。
先生は、黙って腕を組んでいた。
僕は、どうすることも出来ずに、ただ、その場に佇んでいた。
外から聞こえる虫たちの鳴き声が、講堂のなかに、冷ややかに響いていた。




