第三十五ラウンド 踊るサンドバッグ。
ブザーが鳴り、三ラウンドめの終了が告げられた。
サンドバッグの側を離れると、僕は、部屋の隅っこの方に腰を下ろした。
三分間かけるの三ラウンド、生まれて初めて合計九分間のサンドバッグトレーニングを終えた僕の両脛は、ところどころが擦りむけ、赤く腫れ上がっていた。
「パンチはよかったけど、蹴りがまだまだだな」
浦ノ崎丈が笑った。僕は苦笑いを返して、持参していた軟膏薬を傷口に擦り込んだ。
「しかし、優希ちゃんはすげぇな」
そう浦ノ崎丈に評されて、川内優希は照れ臭そうに笑った。
「ちゃんとサンドバッグが踊ってるもんな。軽量級でその重さを躍らせるのは、たいしたもんだよ」
「おどる?」
意味がわからずに質問すると、浦ノ崎丈が、ソファから立ち上がってサンドバッグの前に立った。
いきなり、右足で蹴り込んだ。
サンドバッグが「ドスン」という鈍い音を立てて、振り子の様に大きく左右に揺れた。
「素人が蹴ると、よっぽど力があるやつでも、大体はこうなる」
そう言うと、また、右足を蹴り込んだ。
今度は「ズパン!」という鋭い炸裂音がして、重いサンドバッグが、一瞬その場で跳ね上がった。
「これが"踊る"だ。力任せに押し込む蹴りじゃなく、しっかりとインパクトのある突き蹴りを出せば、サンドバッグはその場で跳ねる」
「押忍」
「おまえは、パンチではけっこう跳ねてるけど、蹴りのコツが掴めてない」
「押忍……」
僕が少し落ち込んだ表情をしたのか、久原拓哉が、
「まぁ、はじめて二ヶ月でこれだけ突けるようになったのは、たいしたもんだよ」
と、横から助け船を出した。
「二ヶ月?」
今度は、浦ノ崎丈が驚いた表情を見せた。
「堀田、おまえ、まだたった二ヶ月しか習ってねぇの?」
「……押忍」
僕がそう答えると、浦ノ崎丈は腕を組んだ。
「そうか……。いや、悪かったな。二ヶ月でそんだけ突けるのは、たしかにすごい」
拳神カラテ黒帯からのまさかの高評価に、僕は、思わず微笑んだ。
「で、おまえは?」
浦ノ崎丈の言葉に、久原拓哉は「オス」とちいさく応えて、サンドバッグの前に立った。
いきなり、左を蹴り込んだ。
凄まじい炸裂音とともに、サンドバッグがその場で大きく踊った。
「すげぇな……」
浦ノ崎丈が苦笑いした。
「そりゃ、たった三分蹴られただけで、腕があがらなくなるわけだ」
この間のスパー。久原拓哉の肩口への蹴りを受け続けて腕が利かなくなり、最後には変則のハイキックをもらった事を、浦ノ崎丈は思い出しているようだった。
きっちり三分間だけサンドバッグを蹴り込み続けて、久原拓哉は練習を終えた。
ぎしぎしという音が、サンドバッグが解放された安堵の声をあげているように、僕には聞こえた。
*****
四人でソファに腰掛けて、買い込んできたお菓子をひろげて話をする。
「堀田、おまえ、受験生だっけ」
浦ノ崎丈が、ぼくに訊いた。ぼくは、無言でうなずく。
「どこ受けるの?」
「え……と、とりあえず、伊万里実業を……」
伊万里実業高校は、数年前に市内のふたつの高校が統合されて出来た新しい学校だ。学部もいろいろあって、まぁ、近所の公立高のなかでは比較的には受かりやすい。
「今は実業でも結構倍率厳しいぞ。ちゃんと勉強してるか?」
「お、押忍」
答えてはみたものの、実は、最近は競斗の稽古に夢中になり過ぎて、ほとんど勉強していなかった。せいぜい、公民館でのいつもの自習の時間に教科書をパラパラとめくるくらいだ。
「なんなら、おれが教えてやるぞ」
「……は?」
浦ノ崎丈の言葉に、思わず、我ながら間の抜けた声を漏らす。
「なんだ。おれの授業は不満ってか」
「い、いや」
「腐っても伊高生だぞ」
「え?」
今度は、浦ノ崎丈以外の三人が、思わず揃えて声を漏らす。
「浦ノ崎さんって、伊高生?」
川内優希が、動揺を隠さず訊く。
そりゃそうだ。
伊高こと「伊万里高校」は、佐賀市内の有名高に比べれば少々格が落ちるとはいえ、立派な進学校だ。この浦ノ崎丈が伊高生だなんて、正直、イメージが湧いてこない。
「おれは来年受験だから、まだ、おまえに付き合ってやってもいいぞ」
「押忍」
そこに、久原拓哉が口を挿んだ。
「来年受験……?」
「あぁ」
久原拓哉は、なにかを考えて、それから口を開いた。
「浦ノ崎さん、おれの一個上じゃなかったですか」
「……」
それを聞いて、浦ノ崎丈は静かに言った。
「久原、そこには触れるな」
「押忍」
ぼくと久原拓哉は「そこ」を察して押し黙った。
「え? 浦ノ崎さんって、ダブったの?」
せっかく伏せた事柄を、川内優希があっさりとまぜっかえした。
*****
「ね、また来てもいい?」
入り口を施錠した浦ノ崎丈に、川内優希が訊いた。
「あぁ、いつでもいいよ」
そう答えて、浦ノ崎丈はさっきの場所に鍵を戻した。
「いつもここに置いてるから。勝手に入って使えばいい」
それを聞いて、川内優希が押し黙る。
「……どうした」
浦ノ崎丈が困惑して訊くと、
「……とどかない」
と、川内優希が膨れた。皆が笑った。
たしかに、彼女の身長は150センチにも満たない。長身の浦ノ崎丈が背伸びして置く様な場所に、手が届くはずもなかった。
「だいじょうぶ。堀田が、台になってくれるってよ」
浦ノ崎丈がおどけた調子でそう言った途端に、僕の頭の中には、こんな画が浮かんだ。
四つん這いになったぼくの背中に、ゆっくりと登る川内優希。
ふわりとはためくスカートの奥の、いつか見た、グレーの下着。
「……おーい」
「は!?」
白昼夢の世界に入っていたぼくは、浦ノ崎丈の声で現実に呼び戻された。
「……妄想中に悪いが、冗談だからな。ちゃんと、なんか台になるもの持ってきておくから」
「お、押忍」
ぼくは、うろたえながらも返事をした。
川内優希が「サイテー……」とつぶやき、その向こうでは、久原拓哉が笑いを堪えていた。




