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第三十四ラウンド 自主トレ場。

 開け放たれた入り口から入ってきた「蚊取り線香」の香りが乗った涼しい風が、蒸し蒸しとしている講堂の中を優しく冷やした。僕は、布マスクを少しずらして深呼吸をした後、競斗着の袖で額の汗を拭った。


 古賀公民館の講堂では、お盆休み明け最初の、競斗の稽古が行われていた。


 僕は、川内先生と、色帯の一般部の先輩ふたりとグループを組んで、中級ルール……顔への手技がない、いわゆる「拳神ルール」のスパーをしていた。


 その隣りでは、スーパーセーフ面を着けた久原拓哉、川内優希。そして、浦ノ崎丈のグループが、上級ルールのスパーをおこなっている。


*****


 あれから二週間後、入門願書を持ってふたたび公民館に現れた浦ノ崎丈の姿を見て、僕は思わず小さく声を上げた。


 見違えるほど、浦ノ崎丈は痩せていた。


「競斗は、73キロまでなんだよな」


 浦ノ崎丈は、精悍さの増した顔で、ニヤリと笑った。


 競斗では、顔への手技を認める上級ルールとプロ部門に、明確な体重制限が決めてある。


 男子は、64キロから73キロまで。

 女子は、48キロから57キロまで。


 ボクシングのように前日の計量ではなく、当日に体重は測定される。そのため、ボクサーのように「無理に落として当日に戻す」という作業が出来ない。つまり、常日頃からの体重管理が、上級以上の選手には義務付けられているのだ。


「すごいね、何キロ落としたの」

 川内先生が書類を受け取りながら訊くと、


「6キロくらいのもんっスよ。カラテやめて不摂生してたから、真面目に自主トレしたらフツーに落ちました」

 と、浦ノ崎丈は屈託なく笑って答えた。


「やるからには、真剣にやろうと思いましたしね。こいつにも、リベンジしなきゃならんですから」


 そう言われた久原拓哉は、無言で頭の後ろをかいた。


 浦ノ崎丈には、入門初日に「緑帯」が贈呈された。


「さすがに、拳神会の黒帯に白帯巻かせるわけにはいかんからな」


 川内先生が、笑って言う。


 公式な昇級審査を受けずとも、緑帯までなら各道場長の権限で認定出来るのだそうだ。それ以上の茶帯、黒帯は、競斗協会の公式審査会を受験して合格しないと、巻くことができない。


 受け取った緑帯を手慣れた様子でするすると腰に巻いたあと、

「すぐに、おれも茶帯に追いつくぜ」

 と、浦ノ崎丈は久原拓哉に向けて、笑って言った。


*****


「自主トレって、どんなメニューなんですか」

 僕は、アイスココアを啜りながら浦ノ崎丈に訊いた。


 いつもの、川内先生と久原拓哉が働いているローソンのイートインスペースだ。今日は、浦ノ崎丈も一緒に、コーヒーを飲んでいる。


「あ? そりゃおまえ、フツーに、サンドバッグと、エアロバイクと、ウェイトだよ」

 浦ノ崎丈は、飲み干したアイスコーヒーの氷をガリガリと齧りながら応えた。


 

「え!? サンドバッグあるの!?」

 川内優希が声をあげる。


「あぁ。おれがずっと自主トレに使ってる場所があって、そこに吊るしてるよ」


 その浦ノ崎丈の言葉を聞いて、川内優希は瞳を輝かせた。


「すごい。わたしも蹴ってみたい」


 伊万里川内道場は、公民館を借りての稽古なので、常設道場のような設備がない。サンドバッグを蹴るのは、川内優希の「夢だった」らしい。


「いいよ。……そうだな、明日みんなで来ればいい」

 それを聞いて、浦ノ崎丈はそう笑った。


*****


 次の日の午後、僕たちは浦ノ崎丈に指定された、伊万里市内の某所に集合していた。


 住宅地から少し離れた、コンクリート造りの古びた建物だった。


 日陰にはいって買ってきたアイスを齧っていると、


「悪りぃな、遅くなって」


 と、Tシャツにデニムの短パン、サンダルを突っ掛けただけのラフな姿で、浦ノ崎丈が現れた。


 浦ノ崎丈は「よっと」と言いながら、背伸びしてヒサシの梁の部分に手を伸ばすと、そこから何かを手に取った。

 鍵だった。

 着いているキーホルダーには「練習部屋」と書いてあった。


 それを挿しこみ、浦ノ崎丈は入り口のドアを開けた。


「さ、遠慮すんな」

 そう言われて、川内優希を先頭に、僕、久原拓哉の順に入り口を潜った。


「わぁ!」


 川内優希が、歓声をあげた。


 そこは、結構な広さのコンクリート敷きの空間だった。学校の教室くらいの広さは、ゆうにある。

 鉄骨製の梁が剥き出しになっていて、そこから、一本の黒くて大きなサンドバッグが吊るされている。その周りだけ、床にジョイントマットが敷いてある。

 その向こうには、ウェイトトレーニングの一式とエアロバイクが備えてあり、奥の方には、ソファーセットとテレビ、小型の冷蔵庫などが並べられていた。


「もともとは、自動車整備工場だったらしいんだけどな。もう何年も空いてるから、親父に頼んで、俺が使わせてもらってるんだ」

「お父さんに……ですか」

「あぁ。ウチ、不動産屋だからな」


 そう言いながら、浦ノ崎丈はすべての窓を開けてまわり、最後に大きな業務用扇風機のスイッチを入れるとソファに腰掛けた。室内に溜まっていた夏の熱気が、一気に和らいだ。


「これ、蹴っていい?」

 川内優希が訊くと、


「もちろんいいけど……」

 と、浦ノ崎丈が答える。

「その格好でいいの?」


 そうだ。

 今日の川内優希は、Tシャツに、膝丈くらいの長さのスカートだ。


「あ、これ?」

 と言いながら、両手でスカートの裾を摘んで見せる。

「この下、ちゃんとショーパン履いてるんで」

「あ、そ」

 浦ノ崎丈はそう言うと、チラリと僕に目線を向けて、

「残念だったな」

 と、笑った。

 僕は、真っ赤になって、下を向いた。


 パンチンググローブを拳に嵌めて、川内優希がサンドバッグの前に立った。


「三分三ラウンドくらいでいいか」

 浦ノ崎丈が訊くと、


「押忍!」


 と、川内優希が元気よく答えた。こんなに楽しそうな彼女を見るのは、初めてだった。


 その時、ラウンドの開始を告げるブザーが鳴った。


 川内優希は、初っ端から全力のミドルキックを、その「タイサマイ製」のサンドバッグに蹴り込んだ。

 凄まじい衝撃音が、室内に響いた。

 





 


 


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