第二十八ラウンド せっかくの夏休み。
「だいぶいい音になってきたなぁ」
そう言うと、横で見ていた川内先生はにこりと笑った。
僕は「押忍」と、笑い返した。
ローソンの裏手、いつもの当てゴム。黒いカマボコの前だ。
あれから何日か経った。
僕は、諦める事なくコレを突いていた。久原拓哉に言われた通り、一日千本。
最初のうちは「痛さ」との戦いだった。
とにかく、痛い。
こんな分厚いゴムを、いくら軍手と拳サポを着けているとはいえ、拳で叩き続けるのだ。
当然、拳の皮が擦りむける。
出血は、そのうち軍手の広い範囲を赤く染める。
痛みで、まともに突けなくなる。
そんなつもりがなくても、涙が流れている時がある。
肚を括って突いているつもりでも、当たる直前、無意識のうちに拳にブレーキを掛けてしまう時が多々あった。当たった瞬間の「痛さ」を、身体が怖れて拒絶しているようだった。
低く気合いを入れて、その「痛み」という名の邪念を振り払う。
また、突く。
そのうちに、あまり、痛みを感じなくなってくる。
千本を突き終わり、軍手を脱ごうとすると、傷口に軍手の裏地がへばりついてしまって、うまく脱げない事もあった。
家に帰ると、流水で血を洗い流して傷薬を塗り込む。バンドエイドは貼らない。どうせ、明日も血まみれになるからだ。
お母さんは、僕の拳を見て、露骨に嫌な顔をした。
「あと半年で受験なのに、勉強じゃなくてこんな事に夢中になって」
洗濯バサミで干された軍手と拳サポを見て、お母さんはため息をついた。
ある日を境に、あまり、拳を擦り向かなくなった。
当てゴムの表面ではなく、その奥。取り付けてあるローソンの外壁を突くイメージでやると、拳がそれほど傷つかないことに気がついた。
さすがに、川内先生や久原拓哉のような音や威力は出せないけど、それでも、はじめに比べるとずいぶんしっかり突けるようになった。結局、今まではカマボコの表面だけを叩いていたんだろう。だから、擦りむいたり手首を痛めたりしたんだ。
そしてその気付きは、稽古の際にもはっきりとした違いになって現れた。
ミット打ちでも、約束組手でも、スパーでも。あきらかに、パンチの威力が増した。
ある日のスパーでは、薄いプロテクターを着けていた川内優希が、僕のボディブローでダウンした。
「……タイム」
技のやり取りの中で当たった僕のパンチに、川内優希がそう言って片手をあげ、横を向いた。
「効かされた」という意思表示だ。
僕は、信じられない気持ちで自分の拳を見つめた。
この間のような、タイミングでのポイントではなく、女の子とはいえ上級者である川内優希からスタンディングダウンを奪ったのだ。
思わず、隣で川内先生とスパーしている久原拓哉を見た。
久原拓哉は僕をチラッと見ると、スーパーセーフ面の向こうでニヤリと笑った。
僕も、ちいさく微笑み返した。
そのあと、僕は恢復した川内優希にボコボコにされ、同じように「タイム」の意思表示をさせられた。
*****
僕は、久原拓哉とふたりでローソンのイートインスペースにいた。
この日は珍しく川内親子が先に帰り、僕たちが残った。
ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、ふたりでドリンクを啜る。
一般的にはぜんぜん「無口」な方だろうけど、それでも、久原拓哉はずいぶん僕と話してくれるようになった。
内容は、もっぱら格闘技の技術論だ。
自分の事なんかを話す事はほとんどなく、水を向けても過去の武勇伝とか試合の思い出とかは、まったく語らなかった。
僕は、なんだかものすごく、この人に興味が湧いてきた。
ひととおりの会話が済んで「そろそろ解散か」という雰囲気になった時、
「久原先輩、今日、先輩の家に遊びに行ってもいいですか」
と、僕は口火を切った。
「遊びに……って」
久原拓哉は、露骨に動揺した。
「ウチに来てもなにもない」
そう言う久原拓哉に、僕は食い下がる。
「格闘技のDVDとか、いろいろあるんですよね。よかったら、先輩の解説を聞きながら観てみたいです」
久原拓哉が、困惑した表情を見せた。
「お願いします! 迷惑にならないようにしますから」
僕は、じわりと追い打ちを掛けた。




