第二十七ラウンド ケンカのお作法。
その日の晩、僕は数日ぶりに稽古に出席した。
川内先生も川内優希も「なぜ休んだか」を詮索しては来なかったのが、ありがたかった。
一般の部、スパーの時間になり、いつものようにウレタンヘッドガードを準備していると、いきなり久原拓哉が僕の前に立った。
無言で、スーパーセーフ面を差し出す。
僕は、戸惑いながらもそれを受け取る。
「今日からしばらく、俺がお前に稽古をつける」
そう言うと、久原拓哉はスーパーセーフ面を被った。
*****
「掴まれたら、即座に掴まれた側の拳で反撃しろ。相手は防げない」
久原拓哉は、僕の襟を左手で取ると、右手で自分の左脇腹を指し示す。
向かい合い、久原拓哉に襟を掴まれたら、僕が空いている脇腹を突く。
何度も、その動作を繰り返す。
反撃の突きが少しでも遅れると、襟を強い力で引っ張られて、スーパーセーフ面のプラスチック部分に、久原拓哉のスーパーセーフ面の額部分がぶつけられる。
この間、あいつにやられたあれだ。
「襟を持たれて躊躇してたら、頭突きが来ると思え」
コツコツと、二回ぶつけられた。僕は「押忍」と答える。
首相撲の稽古もする。
久原拓哉の持論は「ケンカは、結局は取っ組み合い」だ。
「普通の首相撲じゃ頭突きでやられる。ムエタイも競斗も、反則だから頭突きまで想定した技術はない。相手の顔の前面に手を引っ掛けて、前腕でコントロールしろ」
いつもの様に首相撲をしていたら、そう言ってまた軽い頭突きを当てられた。
「相手の顎を掌で押し上げろ。そしたら、なんでもできる」
「押忍」
「積極的に頭突きを狙え。頭を相手の顔に押し付けるだけでも充分なプレッシャーになる」
「押忍」
その日のスパーの時間、僕はみっちり「ケンカの技術」を、久原拓哉に叩き込まれた。
*****
「……久原さん」
コーヒーをひとくち飲んでから、川内優希が口を開いた。
いつものローソンの、イートインスペースだ。
「あれ、絶対、競斗の練習じゃないですよね」
久原拓哉は、他人事みたいな顔をして、コーヒーを啜っている。
「まさか、君までケンカの練習とかをしてるわけじゃないよね」
今度は僕の方を向いて、川内優希はそう言った。
「そ、それは……あの、護身術的な……」
僕は、思わずしどろもどろになる。
「……じゃあな」
そう言うと、その隙に久原拓哉はさっさと店を出てしまった。
残された僕らは、無言でコーヒーを飲む。
目の前のガラス窓の向こう側には、このあいだ久原拓哉が言ったとおり、ちらほらとカメムシやカナブンがくっついていた。
「……男って、ホントにバカばっかり」
横で、そのうちの一匹にガラス越しにデコピンをした川内優希が、大きなため息をついた。
デコピンを受けたカメムシは一瞬だけピクリと動きを止め、また、ガラスの向こうでもぞもぞと動き出した。
*****
「お、やってるな」
次の日の昼間、僕が黒いカマボコを突いていたら、川内先生がふらりと顔を出した。
「押忍」
僕は、挨拶をする。
「……どうだ。うまく突けるようになってきたか」
川内先生の問いに、僕は、首を横に振る。
「拳を見せてみな」
先生が言い、僕は、拳サポと軍手を外す。両手の拳頭が、擦りむけている。それを見て、川内先生はにこりと笑った。
「最初から出来るわけないさ。……そもそも、俺だってまだ試行錯誤中だ」
「え?」
川内先生が、当てゴムの前に立つ。
右拳で、突いた。
「ばちん‼︎」という、久原拓哉の時よりもさらに大きな音が響いた。
「何年やっても、どこかで新しい発見があって、完成はしないよ。例えば、突く時に踏み込む足は、つま先から地面に着くべきか、踵から着くべきか、それとも全面を着けるのか……。あれこれいろんな組み合わせを試しながら、いまだに変えていってる。……いや、"変わっていく"と言うべきかな」
「……押忍」
足の位置を変えて、川内先生は言葉を続ける。
「これで完成! って決めてしまえば楽なんだろうが、突いてるうちに、ふと、新しい方法論が浮かんだりする。そして、それは多分、万人に当てはまるものじゃない」
「……」
「俺には俺の突き方。拓哉には拓哉の突き方。……お前には、お前の突き方がある。これは、格闘技に限らずなんだって同じだよ」
今度は、左拳で突く。
また「ばちん‼︎」という大きな音が響く。
「基本は教える。でも、それを変えていくのは自由さ。もっとしっくりくる方法が見つかれば、それをやっていけばいい」
川内先生は、構えを解いて、笑った。
「……ケンカに、負けたのか」
僕は、無言で頷く。
「拓哉とやってるのは、どう見てもケンカの練習だからな」
川内先生が、人差し指で首筋をぽりぽりと掻きながら言う。
「ケンカのな、いちばんの必勝法は、警察に駆け込むことさ」
「……」
「このご時世、どこだって防犯カメラがある。正しく記憶さえしておけば、録画された情報とお前の証言を照らし合わせて、大概は、捕まえてくれる。そうすれば、相手は社会的に制裁も受けるし、病院で診断書でも書いてもらえば、慰謝料だって取れる」
「……押忍」
僕は、足元に視線を落とす。
「だけど、それは理屈でしかない。世間がなんと言おうが、自分が殴られた痛みや、暴力に屈した屈辱は消える事はない」
「……」
「だからと言って、返り討ちにしたり、仕返しをすれば、今度は自分が訴えられる事にもなりかねない」
「……なら、どうすればいいんですか」
「うむ」
川内先生は、腕組みをして悩む素振りを見せた。
「……それも、さっきの突きと同じさ。正解なんかないだろうな」
「……」
「ただ、世間的に間違っていても、自尊心は失いたくないよな。……男なら」
その言葉に、僕は「はっ」とした。
そうだ。
僕はあの時、自尊心を失ったんだ。
ただのヤンキーにいいようにボコボコにされて、競斗を習って強くなったと思っていた「心」を砕かれた。
では、その砕けた心をどうするのか。
そのまま、受けた屈辱を胸に抱えて生きていくのか。
……それとも。
「まぁ、好きにやればいい。無責任に聞こえるかもしれないが、お前の人生なんだからな」
「……押忍」
川内先生の背中を見送って、僕は、自分の傷ついた拳を見つめた。
そして、ふたたび軍手と拳サポを嵌めた。




