第二十六ラウンド 黒いカマボコ。
久原拓哉の後を追って、僕は裏手の駐車場に向かう。
駐車場の一角、ローソンの建物の角の方。金網で囲まれたスペースの、入り口の鍵を久原拓哉が開けた。無言でそこを潜り抜けて、顎をしゃくって「来い」と示した。
僕は、久原拓哉の後に続いた。
そこには、初めて目にする物があった。
ローソンの建物の角に、カマボコの様な形をした黒くて細長い物が取り付けられている。
「なんですか、これ」
恐る恐る近づいた。見ると、その中は空洞だった。
「当てゴム。大型トラックをホームに着ける時の、緩衝材だ」
久原拓哉が、両手に軍手を嵌めながら言った。ポケットから、もうひと組の軍手を出して、僕に渡す。
「突いてみろ」
「は?」
久原拓哉は、その「当てゴム」を軽く叩いた。
「これを、拳で突くんだよ」
これを、突く?
よくわからないまま、僕も軍手を嵌める。
「当てゴム」の前に立つ。少し腰を落として、構える。それから、いつものミット打ちの要領で、右のストレートを打った。
拳がゴムに当たった瞬間、手首が衝撃に耐えられずに「ぐにゃり」と曲がった。
「っっっ⁉︎」
思わず、手首を握って後ずさる。ゴムに当たった拳頭も、びりびりと痛んだ。
「どうだ」
と言う久原拓哉の問いに、
「……めちゃくちゃ硬いです」
と、僕は答えた。
「そりゃそうだ」
そう言いながら、今度は久原拓哉が当てゴムの前に立った。いつものように、少しアップライトの構えを取る。
「積荷を合わせりゃ20トン近いトラックがぶつかる衝撃にも、耐える代物だからな」
久原拓哉が言う。
そんな物、人間が叩いてどうかなるわけがない。……僕は、思った。
いきなり、久原拓哉の拳が疾った。
踏み込み、踵の回転、腰の回転、肩の回転、肘の伸展……すべてが「理想的」と思える様な突きだった。
拳が、ゴムに当たる。
「ばちん!」という物凄い音がして、一瞬、カマボコ形のその硬いゴムが、確かにたわんだ。
「す……すごい」
僕は、思わずそう漏らした。
「落ち着いて全身の力が乗った突きを打てれば、こうなる」
久原拓哉は、もう一度構えて見せた。
「脱力して構えて、拳を当てる瞬間に、肩甲骨や股関節周りの筋肉、関節をロックさせる。そしたら、自分の体重が綺麗に拳に乗る。……優希に習ったろ。沖縄空手で"ガマク"とか"チンクチ"とかいう技術だ」
また、突いた。
やはり、凄まじい音とともに、ゴムがたわむ。
「俺が68キロだから、68キロのハンマーで打つようなもんだ。上手く突ければ、こんな丈夫な物でも一瞬はたわむ」
そう言うと、構えを解いて、僕に向き直った。
「お前がどこのどいつにやられたのか知らないが、これができれば、素人にやられるなんて事はない」
久原拓哉が、傍に避ける。僕は、ふたたび当てゴムの前に立つ。
突く。
黒いカマボコはビクともしない。軍手の拳頭部分に、うっすらと赤い血が滲んだ。
……こんなの、無理に決まっている。
「見込み違いだったかな」
「……え?」
僕が振り向くと、久原拓哉は腕を組んで、言葉を続けた。
「優希に何回やられても辞める気配がないから、久しぶりに骨があるのが入門したと思ってたが」
「……」
僕は、また、当てゴムに向き合う。
突く。
情け無い音を立てて、僕の拳が弾き返される。
ちらりと、久原拓哉に目を向ける。
その目が「続けろ」と言っていた。
くそ。
また、突く。
また、拳が弾き返される。
また、突く。
また、拳が弾き返される……。
「そこまで」
久原拓哉が言った。
僕は、拳を見た。軍手の拳頭部分の血の滲みが、ずいぶんと拡がっていた。
「今日はそこまででいい。拳は、水で綺麗に洗ってオロナインでも塗り込んでおけ。傷が治るまでは、バンテージを巻いても、拳サポを着けても、グローブを着けても構わない。とにかく、毎日続けて突け」
「毎日……どのくらい突けばいいですか」
僕が訊くと、
「千本。左右五百づつ」
と、久原拓哉は事もなげに言った。
僕が唖然としていると、
「俺も毎日そのくらいは突いてる。慣れたら三十分もかからない」
と、澄ました顔でそう言った。そして、尻ポケットから、クシャクシャになった封筒を取り出した。
僕の「退会届」だった。
「……これは、俺が預かっておく。どうせヒマなんだろ? 夏休みだけでも、続けてみたらどうだ」
そう言うと、久原拓哉はひとりで店の方に戻って行った。
残された僕は、血で汚れた軍手を見つめた。
「これが出来れば、素人にやられるなんて事はない」
久原拓哉の言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。




