第二十五ラウンド 強くなるための努力。
店の角を曲がると、久原拓哉がゴムホースを握って立っていた。
先端からシャワー状の大量の水が出されて、ローソンの巨大な窓ガラスを勢いよく洗い流している。
近付くと、なにやら異様な刺激臭が僕の鼻をついた。よく見たら、足元にポツポツと緑色の物が転がっている。……それは、無数の「カメムシ」だった。
「押忍」
僕に気付いた久原拓哉が、そう声を掛けてきた。
「こんにちは」
僕は、そう応えた。
「……すごい数のカメムシですね」
僕が言うと、
「周りに灯りがないからな。夏になったら、片っ端からここに集まってくる。……今年は、これでもまだ少ない方だ」
久原拓哉は、まるで独り言の様にそう言った。
洗い流されたカメムシたちは、地面にひっくり返ってジタバタともがいていた。
「最近、朝ランも稽古も出て来ないな」
窓を流し終わり、ホースを手早く巻き取りながら久原拓哉が言う。
「……はい。ちょっと……」
僕は、小さく答えた。
「……なんだ、その鼻」
久原拓哉が、僕の鼻の痣に気付いてそう訊いた。
あの後、念のために病院に行った。
幸いにも骨折はしておらず、鼻血も、しばらくすると収まった。医者や両親には「階段から落ちて打った」と嘘をついた。
今は、多少の傷と赤みが残っているだけだ。
「あ、ちょっと……」
僕は、さっきよりもさらに小さな声で答えた。
「……あの。川内先生は、中ですか」
先端がゴムで出来たT字様の道具で手際良くガラス窓の水切りを始めた久原拓哉に訊ねると、
「いない」
という答えが返って来た。
「え?」
「本部の人間と研修だか打ち合わせだか言って、朝から出かけてるよ」
僕は、思わずため息をついた。
「そうですか」
そう言うと、僕は尻ポケットから封筒を取り出した。
表には「退会届」と書いてある。
「あの、これ、先生に渡してもらえませんか」
左手でぞんざいに受け取ると、奇妙な物でも見る目つきで、久原拓哉はその封筒を眺めた。
「なんだこれ」
「た、退会届です」
久原拓哉は、露骨に大きなため息をついた。
「見りゃわかる。"なんで"か訊いてるんだ」
「……なんで……って」
僕は、思わず口籠る。……そして、意を決して言った。
「僕は、久原先輩や優希ちゃんとは違うんです」
「……」
「あんなに努力したのに、何もできなかった。……稽古も朝ランも、なんの役にも立たなかった!」
気付いたら、目から涙が流れていた。
あの茶髪のヤンキーに、手も足も出ずにボコボコにやられた悔しさ。
恐怖。
痛み。
いろんなことを思い出して、僕の身体がまた震えていた。
「努力?」
久原拓哉が、唇の端を少しあげた。それは、笑みにはなっていなかった。
「お前、あの程度が努力だと思ってんのか? たかが週に三回くらい道場に来て、土日以外の晴れの日だけを走るくらいで」
「……」
「あんなもん、お前の学校の陸上部の連中のが、よっぽど厳しい練習してるよ」
そんな言い方はないだろう。
なんだか悔しくなって、僕は反論した。
「でも、久原先輩だって、週に三回しか」
「アホか」
久原拓哉は、ピシャリと言う。
「競斗がない日は柔道やりに警察署に行ってる。それ以外も、佐世保のキックサークルにも出稽古してるし、毎日ウェイトやりに、二十四時間営業のジムにも通ってる」
え……。
僕は、思わず目を丸くしてしまった。この人、そんなに練習漬けなのか。
「……知りませんでした」
ボソリとそう言うと、
「別に、言ってないからな」
久原拓哉も小さく答えた。
「……」
ふたりとも、しばらく押し黙った。
「来いよ」
不意に、久原拓哉が歩き出した。
店の裏側、大型トラック用の駐車場の方だった。
僕が戸惑っていると、久原拓哉は顔だけをこちらに向けて言った。
「強くなる努力ってのがどういうもんか、教えてやる」




