第二十四ラウンド ボコボコ。
日直の生徒の手によって換気のために開け放たれた窓から、雨上がりの土の匂いと、大量の蝉の鳴き声が同時に教室内に流れ込んだ。
なんだかいつも以上にざわざわとした話し声、ドタバタという複数の足音が教室内を満たしている。
正面の黒板には「終業式」と、大書きされている。
そうだ。今日は、一学期の最終登校日。明日からは、中学生最後の夏休みだ。
僕の机には、チュッパチャプスを咥えた二里美祢が腰掛けている。周りには、いつもの牧島岳の仲間たち「一軍」が、それぞれ勝手に他の生徒の机や椅子を占拠して座っている。
二里美祢が足を組み替える度に、短いスカートから伸びた細い褐色の太ももが露わになるので、僕はさっきから、ずっと目のやり場に困っている。
牧島岳と、黒川の姿はない。
トイレに立つ。
生徒たちが行き来する廊下を、端まで歩く。
トイレの前に、ポケットに両手を突っ込んだ黒川が立っていた。
「よぉ」
黒川が言う。僕は、とりあえず笑顔をつくって、黒川に見せた。
そこに、尻ポケットに長財布を仕舞う素振りをしながら、牧島岳がトイレから出てきた。
「おぉ。今日、カラオケ行くぞ」
そう言うと、牧島岳は僕の肩を平手で軽く叩いて、黒川と共に教室の方へ歩いて行った。
僕はそれを見送って、トイレに入った。
そこに、晴人が立っていた。
用を足すでもなく、ただ、俯いて突っ立っている。
「……晴人?」
僕が話しかけると、晴人が顔を上げた。
晴人は、泣いていた。
その顔が、怒りで歪んでいた。
僕が声を掛けるより早く、晴人は、足早にトイレを後にした。
*****
「牧島、そこに立岩さんと東分さんいる」
いつものカラオケボックス。ドリンクバーから戻った黒川が、少し慌てた様子で牧島岳にそう言った。
「マジか」
牧島岳が顔をしかめる。
立岩……?
東分……?
なんの事だか分からずに戸惑う僕に、
「けっこう面倒臭い先輩だよ。二個上の」
と、二里美祢が教えてくれた。
「……まぁ、俺らより先に帰るだろ。……見てない事にしてよう。関わりたくないし」
牧島岳はそう言うと、グラスを手に取ってストローを咥えた。
学校のトイレで晴人に会ってから、なんだか、僕の中でざわつくものがある。
まるで、見張りの様に立っていた黒川。
財布を仕舞いながら出てきた、いつも大金を持っていて羽振りのいい牧島岳。
……そして、涙を流して俯いていた、晴人。
考えれば考えるほど、嫌な想像の辻褄が合ってしまう。
「あ、あの」
僕は、立ち上がった。
「ごめん。今日、先に帰る」
端末で曲を選んでいる牧島岳に、そう告げる。
「なんか用事?」
二里美祢が、キョトンとした貌で訊ねる。
「う、うん。ちょっと」
僕は無理に笑って、曖昧な返事をした。
「いらない」という牧島岳に強引に千円札を一枚渡して、僕は部屋を後にした。
今日は、奢ってもらう気分になれない。
やる気が微塵も感じられないフロントの店員に会釈をして、僕は出口に向かった。背中に「ありがとーござーしたー」という低い声が掛けられた。
階段を降りる。
踊り場のところに灰皿があって、そこで、ふたり連れの男がタバコを吸っていた。
その脇を通り抜けようとした時、
「おい」
と、声を掛けられた。
立ち止まって、振り返る。
僕は、思わず目を見開いていた。
間違いない。
服装こそ違うが、この間、ローソンの裏で久原拓哉に倒されたふたりだ。
「おい。お前、この間のガキだよな」
茶髪の方が、タバコを灰皿で揉み消して、僕に歩み寄った。
少し身体を屈めて顔を近付け、まるで値踏みでもするかの様に、僕を見る。
「間違いねぇって。この間のローソンにいたガキのツレだろ」
ゆっくりと、胸倉が掴まれた。
「おい、やめとけよ」
金髪の方が言った。
茶髪は、それを無視してその手に力を込めた。僕の身体が、少しだけ前に引かれた。
足が、震えていた。
手のひらが、なんだかねっとり湿っている。
「お前らのせいで、えらい目にあったからな」
茶髪が、厭な目で言った。獲物を前にした、爬虫類みたいな貌だった。
頭の中で、川内優希の言葉がぐるぐる回っていた。
道着を掴まれた時の、対処法。
襟を前から取られた時。
奥襟を取られた時。
両手で首をロックされた時。
片手で手首、片手で肩を掴まれた時……。
習った事が、全部ごちゃ混ぜになっている。真面目に練習したつもりだったのに、何も答えが浮かばない。何も身体が動かない。
「おい、なんとか言えよ」
胸倉を掴まれたまま、後ろの壁に押し付けられた。
背中に衝撃を感じた瞬間、僕は、思わず身体を動かした。
ローキックを、茶髪の膝横に目掛けて蹴っていた。
我ながら、腰の入っていない、情け無い蹴りだった。
「いってぇ!」
茶髪が、顔を歪めた。まさか、先に蹴ってくるなんて思ってなかったのだろう。
その顔に怒りが浮んでいた。
いきなり、僕の鼻が発熱した。
続けて、大きな耳鳴り。
最後に、強烈な痛みが顔の前面に走った。
鼻の奥を通って、どろりとした何かが僕の口の中に溢れてきた。僕は、思わずえづいた。
鼻頭に、頭突きを受けていた。
僕は、思わずその場にしゃがみ込んだ。
「クソガキが、舐めた真似しやがって……」
茶髪はそう言うと、僕の腹を爪先で蹴り込んできた。
僕は、身体を丸めて必死に耐えた。
その間にも、大量の鼻血が口から流れ出ていた。
「おい、もうやめとけ!」
金髪の声らしきものを聞いた。
さらに、複数の人の叫び声、悲鳴、足音。
いろんな音を耳にしながら、僕は、ただひたすらに身体を丸めていた。




