第十三ラウンド はじめての、競斗着。
学校から帰ると、ぼくは我ながら慌ただしく、スポーツバッグに短パンとタオル、さらに、水筒と宿題を詰め込んだ。
「もう出かけるの?」
家事の手を止めたお母さんが訊いて来たので、
「うん。先に道場で勉強しようと思って」
と、答えた。
お母さんは、それを聞いて満足したようで、
「今夜はカレーだから。あんまり遅くならないようにね」
と、なんだか機嫌よく、ぼくを送り出した。
自転車に乗って、坂道を下る。道場である古賀公民館までは、飛ばせば十五分くらいあれば着く。焦げたアスファルトの臭いを嗅ぎながら、ぼくは、ガシャガシャとペダルを漕いだ。
公民館に着くと、入り口のドアが開放してあった。静かにそこを潜って、中に入る。下駄箱が、いくつかの靴で埋まっている。
講堂を覗いてみるけど、誰もいない。廊下を、奥に向かって歩いてみる。
前回は気づかなかったけど、いちばん奥に、もうひとつ部屋があるのを見つけた。
話し声や咳払いの音が、ガラス戸から小さく漏れ聞こえている。
ぼくは、静かにガラス戸を引き開けた。
途端に、
「押忍」
「押忍」
と、数人の声が飛んで来た。ぼくも、
「お、押忍」
と、返す。
そこは、縦長な造りの和室だった。
稽古に使う講堂の三分の一くらいの広さがあり、長机がみっつ並んでいた。競斗着を着た子供達が、それぞれの宿題を広げていた。
「押忍。来たね」
川内優希が笑う。
「押忍」
ぼくが答えると、
「ちょっと待ってて」
と、言い残して彼女は部屋を出て、しばらくしてから、何やらひと抱えはあるダンボール箱を両手で持って戻って来た。
「届いたよ、競斗着」
川内優希は、目の前で、ダンボール箱を開封し始めた。
そこには、透明なビニール袋に包まれた、真新しい競斗着が入っていた。
さらにその下には、拳サポーター、胴ガード、ファールカップにスネサポーターが入っている。
「さっそく着てみる?」
川内優希のその言葉に、ぼくはコクリと頷いた。
別室で下を短パンに履き替え、ぼくは和室に戻った。
半袖で、赤と青のリバーシブルになった道着。
……思っていたよりも、生地が硬い。
「これが、競斗着……」
ぼくは、思わず呟いた。
「帯の結び方を教えるから、とりあえず羽織ってみて」
川内優希に言われて羽織ろうとしたけど、ぼくは、そこで動きを止めた。
「どうしたの?」
川内優希が訊く。
「いや、どっちの色を表にするのかと……」
ぼくが言うと、川内優希は笑った。
「どっちでもいいよ。きちんと色を換えるのは、公式試合の時だけだから」
言われてみれば、子供達もそれぞれ好きな方の色を表にしている。ちなみに、川内優希は「赤」だった。
ぼくは、赤の方を表に着てみる事にした。
「さて。帯が少しややこしいから、わたしが一緒にやりながら教えるね」
川内優希が、そう言いながら自分の帯を解いた。
競斗着の下の真っ白いスポーツウェアの胸元に、ぼくは、なんだかドギマギした。
「まず、サイドの帯通しの穴を通します」
川内優希がやる事を、真正面から真似してみる。
競斗のロゴマークが入った方を右側にして、身体を帯に一周半させる。
回して来た帯の左端を、さっきの右端の下から通して輪っかを作り「ギュッ」っと縛る……。
……うーん。
同じようにやってみるけど、どうも、うまく締まらない。
川内優希が締めているように、両端が綺麗に垂れないのだ。
三回目の挑戦の時、
「ちょっと、動かないで」
と、川内優希がぼくの身体に手を回した。
「わたしがやってあげるから、しっかり見てて」
そう言うと、彼女はぼくの後ろから帯を巻き始めた。
こんなに女の子と接するのは、小学校の運動会のフォークダンス以来だ。
川内優希の髪の毛から漂う甘いシャンプーの匂いに、ぼくは少々パニックになった。
結局、帯の結び方はちっとも頭に入らなかった。
「まぁ、おいおい覚えてね」
川内優希はすこし不満気だったけど、それでもなんとか、格好がついた。
公民館の入り口にある大きな鏡に、自分の姿を映してみる。
赤い競斗着は、なんだかぼくにはあまり似合っていなかった。
右ストレートを、打ってみる。
鏡の中の自分が、左手を伸ばす。
拳と拳が、鏡を隔てて向かい合う。
……おぉ、格好いい。
ぼくは嬉しくなって、そのまま左フックや左ジャブ、右アッパーなんかも打ってみた。
ボクサーがやっているのをテレビで見た事はある。なんだ。これって、こんなに楽しいのか。
ぼくが夢中になってパンチを打っていると、横から、小さな笑い声が聞こえて来た。ひとりふたりじゃない、大勢の笑い声だ。
ぼくがそちらを向くと、和室の入り口から子供達が全員顔を出してこちらを見ていた。ぼくは、思わず顔を赤くした。
「はいはい。嬉しいのはわかるけど、先ずは宿題の時間だよ」
川内優希が、苦笑いしながら言う。
ぼくは小さく、
「押忍」
と、答えた。




