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プロローグ

 もうすっかりと日も暮れて、その住宅街は、ひっそりと静まりかえっていた。


 どこの地方にでもあるような、似たような造りの建て売り住宅ばかりがきっちりと並べられた、なんとも没個性的な町だった。


 その一角の、ある一軒。

 豆球だけが灯された、薄暗い二階の部屋で、少年はベッドに横たわり、スマートフォンを見つめていた。


 おしゃれではなく、不精で伸びたと思われる髪。

 寝間着のシャツと短パンの中の身体はよく鍛えられ、しなやかな筋肉のシルエットを、薄明かりに浮かび上がらせていた。


 年齢は、十代の半ばくらい。


 切れ長い二重の瞳。よく通った、鼻筋。端正な顔立ちをしているが、しかめ気味にスマートフォンを眺めるその視線が、少年を、幾分か老けて見せている。

 

 1999年。

 横浜アリーナで行われた総合格闘技イベントの、試合のひとつ。


 スマートフォンの中では、その様子が映し出されていた。


 リング上には、黒いラインが一本サイドにあしらわれた黄色のスパッツを履いて、拳にオープンフィンガーグローブを嵌めた、若い日本人選手。向かい合うのは、青いムエタイ用のトランクスに、同じく拳にオープンフィンガーグローブを嵌めた、若いタイ人選手。


 ゴングが鳴り、ふたりがほぼ同時にコーナーを出る。


 ゆっくりと距離が詰まり、やがて、ふたりはリングのほぼ中央で向かい合った。


 互いの手が、触れ合うか否か程の、微妙な距離。


 日本人選手が、まるで様子を見るかのように、軽いジャブを右拳で二度はなつ。

 二発目のジャブの引き際に「バチン!」という炸裂音が響き、次の瞬間、日本人選手が前のめりに倒れた。


 観客席から、ざわめきが起こった。なにが起こったのか、理解できていない者も多かった。


 タイ人選手の、左のハイキックが当たっていた。


 タイ人選手は、悠々と、自分のコーナーに後退った。その背中に、セコンド陣がタイ語でなにやら怒鳴りつけた。だが、タイ人選手は、肩をすくめる仕草をして見せ、自軍のコーナーに寄りかかった。

 セコンドの指示を、まるで聞いていない様子だった。


 総合格闘技なので、ダウンカウントはない。レフェリーが止めるか、選手のセコンドがタオルを投げ入れなければ、倒れても試合は終わらない。


 タイ人選手は静かにコーナーを背にして日本人選手を見ている。


 倒れた相手へのパンチ「パウンド」であるとか、または「サッカーボールキック」であるとか。そういう追撃をかける素振りもなく、ただ、ニヤニヤと倒した相手を眺めている。


 レフェリーは、困惑していた。


 あまりにも早すぎるのだ。


 この試合は、今回のイベントの中でも目玉試合のひとつだ。


「秒殺」と言えば聞こえはいいが、大イベントの中のひと試合、ましてや、プロモーションにそれなりの人と金が動いた試合となれば、そう簡単な話では済まない。


 スポンサーへの忖度、中継のテレビ局への体裁、主催者と、その後ろの「業界の顔役」への事情説明……。


 ここで止めてもいいものか、思わず、レフェリーは本部席に目を走らせた。大会のプロデューサーとテレビ局のディレクターが、揃って渋い顔を見せた。


 まだ、止められない。


 レフェリーは、その表情で、そう理解した。


 その時、会場が騒めいた。


 日本人選手が、立ち上がった。

 虚ろな瞳をリング上に彷徨わせ、タイ人選手を見る。


 レフェリーが続行の合図を掛けるより早く、日本人選手が飛びかかる。


 グレコローマンレスリングの、胴タックルだ。


 それを、タイ人選手ががっちりと押さえ込み、押し付けた腕で巧みにコントロールする。


 ムエタイの、首相撲。


 左右の膝蹴りが、面白い様に日本人選手の身体を抉る。


 なんとか凌ごうとするが、ついに、致命的な一撃が、日本人選手の胃を正面から捉えた。


 日本人選手が、腹を抑えて蹲る。

 そこに、タイ人選手の右の肘打ちが振り下ろされる。


「ガツン」という硬質な音が、横浜アリーナに響く。


 日本人選手のセコンドが怒鳴り、会場が騒然となる。


 肘打ちは、反則である。


 糸の切れた操り人形の様に日本人選手が倒れた。


 もう、誤魔化す事が出来ないレベルの倒れ方だった。


 さすがに、慌ててレフェリーが割って入る。


 1ラウンド3分2秒。

 日本人選手「久原正勝」の反則勝利であると、館内放送が伝えた。


 客席から、歓声と、ため息と、野次が飛んだ。


 倒された勝者、久原正勝は、両肩をセコンドに抱えられる様にして退場する。


 カメラが、顔に掛けられたタオルで悔し涙を拭う久原の顔をアップで捉える。


 その向こうで、久原正勝を倒した敗者「ガオラン・ユニバーサルムエタイジム」は、さっきと同じ様にコーナーに寄り掛かり、退場していく久原正勝を眺めていた。


 その顔に、厭な笑が張り付いていた。


 動画をそこで止めると、少年は、無言でスマートフォンの画面を閉じる。


 ベッドの上で背伸びをして、ゴロンと、身体を反転させる。


「いまに見てろ……」


 そう呟いて、少年は、瞳を閉じた。


 



 

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