2.零下の消失劇 -Last-
「千尋…今、君は何処にいる?」
一誠の声色はさっきの余裕を保った声では無く…仕事中の、シリアスな口調だった。
周囲の景色は、海が見える場面はとうに過ぎていて…小樽の街中へと変わっていた。
「小樽。市内に入ってて…5分もしないうちに高速に乗る所」
私は、彼の声から緊張感を感じながら答える。
この電話の最中も、赤いZは背後に…亡霊のように存在していた。
道は除雪されていて…安全な速度だとはいえ、所々がブラックアイスバーンになるまで凍てついている中を、大昔の後輪駆動…それも、結構なパワーがあるそれを難なく操って付いてきている。
私は背中に嫌な汗を感じつつ、一誠の言葉を待つ。
路肩に止めて"会話"何てことも考えたが…この街中で騒ぎを起こすことになれば、この崩壊しかけの異様な世界は、最悪…あっという間に塵と消えるだろう。
だから…何もできない状態で、こうして一誠と話すしか無かった。
「…市街…なら、今頃は運河あたりか」
「正解」
「了解…高速に上がって…輪厚で合流できそう?」
「そこまで何も起きなければ」
「何も起こさないようにしてよ?」
「善処するよ」
私はそう言って通話を終えると、由紀子に携帯電話を返した。
そして、煙草を一本取り出して咥えると、シガーライターで火を付ける。
「…それで?諦めモード?」
「輪厚まで行って、一誠と合流…それまでは何もしない」
「持つの?」
「向こうの私の聞いて欲しいけど…私が向こうの立場なら、私はこんな目立つ場所で手を出さないし…高速道路で事を起こすなんてことはやらない」
私はそう言って苦笑いを浮かべて、煙草を吹かして、ふーっと煙草の煙を吐き出した。
窓を少々開けて、外に煙を逃がす。
一誠に言った通り、5分もしないうちに高速道路へと上がっていく。
左手には観覧車があるショッピングモールが見え…その奥には海が見えた。
私はその景色を一瞥すると、チラリとバックミラーを見て…そしてアクセルを少々多めに踏み込む。
何も弄っていない、十年ちょっと前の空冷ポルシェは…スムーズに速度を乗せて行ったが…
ポルシェという名前の割には遅く感じた。
追われている立場からかもしれないが…回転の上りは遅く、車も重く感じる。
「由紀子」
トンネルを幾つか抜けて、速度も十分に乗せた後。
私は助手席でサイドミラーを気にかけていた相方に声をかけた。
「?」
「…レコードで、今まで通って来た場所に異常がないかを調べてくれない?」
由紀子にそう告げると、彼女は直ぐにレコードを開いてみてくれた。
そして、表示された内容に何か違和感を見つけたのか、幾つかペンを走らせる。
「違反は無し…ただ、私達がさっきまで居た日向の、千尋の家が無くなってる」
「……無くなっている?」
「ええ。何となく、気になって確認したら、廃墟扱いじゃなくて、そもそも"存在しない"となっていたの」
「……後ろに付けてきている彼女が何かを知ってそうだね」
「かもしれない…」
「この世界の異常も彼女が原因…?違ったとしても裏で糸を引くくらいはしているか…」
私達は、何もアクションを起こさないで…淡々と背後に付き従ってくる赤い車を見ながら会話を重ねる。
現在は小樽をとっく越えて…もうじき札幌に差し掛かる頃合い。
右手に山、左手に微かに海が見える光景はとっくに様変わりしていて…左手側には広大な街の姿が見えていた。
「今回の異常で、確かに今怪しいのは、後ろに居る彼女だけどさ」
「ん…」
「レコードで感知できない…とか、別人に急変するとかなら…時任さんだってそうだし、千尋がこの間処置したロシア人だってそうでしょ?」
「まぁね…」
「ロシア人はもういないから除外だとして…時任さんは…?」
「何か事を起こすにしても、ノンビリしすぎてる。だから黒とは考えたくないけれど」
「白とも言えないよね?後ろにいる千尋を探してたみたいだけど、それが終わったなら?」
「…それで裏切られました…ってなる頃には手遅れって?」
「うん…怪しんでおいても良いような気がする」
「そうしよう……」
・
・
結局、高速道路に入ってからも背後のZは何かを仕掛けてくるわけでもなく…淡々と背後を付いてきただけだった。
料金所を2つ通り抜け、単調なペースで車を走らせ続け、無事に目的地まで辿り着く。
ウィンカーを上げてパーキングエリアへと入って行くと、背後に付けていたZも同じようにウィンカーを上げて付いてきた。
駐車場を見回すと、隅の方に銀色の、最新型のポルシェが止まっている。
その傍らに立つ2人の男女を見止めて、私はそのポルシェの横に自分の車を止めた。
「立場は?」
「様子見で」
由紀子と軽い確認を済ませてからエンジンを切ると、外に出る。
Zは私達の車の後ろに止まったらしい。
「何事も無くこれたみたいだね」
「とりあえずは」
一誠と合流した私達は、2台のポルシェの間に立って、後ろに止まった古い国産車の方に顔を向ける。
エンジンが止まり…運転席のドアがゆっくりと開いた。
「そして…そっちの千尋にはちょっと用事がある人が居てね」
一誠が降りてきた人物へ開口一番にそう告げる。
不気味なほどに表情を変えないもう一人の私は、ドアを閉めると時任さんの方を見て何かを理解したらしい。
コクリと頷くと、Zの鼻先に立って煙草を咥えた。
「時任蓮水…君は解放してやったはずだけど」
不敵な表情…というよりも、表情筋が一つも機能していないかのような表情を張り付けた、もう一人の私が一誠の言葉を聞いて答える。
その視線は、一誠の横に立っていた白髪の少女の方へと向けられていた。
「説明してよ。君が僕に何をしたかも分からない。3軸で…僕は気づいたらこうなってただけだよ?」
蓮水さんはロボットみたいな私に向かって尋ねる。
その声色には、少々の気味悪さへの抵抗感が滲んでいた。
「説明できない。そのうち分かるから…貴女にお迎えが来たって思ってくれれば、何時か分かるでしょう…?」
「説明できない?」
「そう。私だって、何故、貴女を"解放"したのかは言語化出来ないの」
もう一人の私は、表情をピクリとも動かさずに告げる。
対面に居る私達は、一様に引きつった表情を張り付けていた。
感じられるのは…気味の悪さ。
会話が成り立たない事への恐怖。
…4対1でも、私達が劣勢にあると感じられるほどのプレッシャー。
「酷い説明だね。千尋らしくない」
一誠が会話に口を挟む。
「せめて"解放"ってどういう事かくらいは説明できるだろ?君が、意味もなく蓮水を襲ってこうなってるんだ」
「襲ったわけじゃないよ。声を掛けただけさ」
一誠の言葉を、もう一人の私は即座に否定した。
「彼女にやったことも、私が受けたことに過ぎない…条件が揃ったのが彼女だけだったんだろう」
「その条件って?」
「分からない」
「分からない?じゃぁ、分かるのは誰なんだ?」
「さぁ…?私を今の存在に仕立て上げたのは、初瀬有栖という人物」
「な!」「え?」
もう一人の私の言葉に、時任さんと由紀子が反応する。
「アリスが?…」
「そう。彼女がどの世界の人間かは知らないけれど、私は彼女に"処置"されてこうなった」
そう言って、首筋を撃ち抜くポーズを取る。
「注射器でチクっと…そして私はレコードの管理人の任を解かれて、ただただ世界を漂うだけの存在になった」
「自由になったからって、他の世界に入り込んで混乱させているの?」
「まさか。静かに、その世界が終わるまで居続けて次の世界に行くだけ…仕事をしていない管理人のようなものさ…何時かの、君みたいな」
そして、私に視線が注がれる。
「それは、何時かの貴女にも当てはまるんじゃなくって?ポテンシャルキーパーだったんでしょう?」
「どうだろうね?想像に任せるけど」
彼女は余裕ある態度を崩さない。
「……さて、そろそろ良いかな?終わりかけの世界で長々と喋っている暇も無いだろうし」
彼女は何も答えない私達を見回して、ようやく口元に小さな笑みを浮かべる。
「分からないことだらけで御免なさいね。でも、分からないものは分からないまま…ずっと見て見ぬふりをしてきたから」
「知ろうとしても分からないって?」
「そう…ただ、流れの一部になって漂っただけ…」
彼女はそう言って両手を後ろに組むと、肩を竦めて見せた。
「こうして、レコードの管理下にある人間でも、管理人にもならないで…ただ生かされ続けている状況に置かれると、色々と暇でね」
寒空の下でも、震える素振り一つ見せない彼女は、淡々とした口調で話し続ける。
「そして、暇を持て余したある日、ふと気づく。レコードの管理人ともあろう人材が何故"人手不足"なのか?」
その言葉を聞いた私達は、互いに顔を見合わせた。
考えたことは、無いわけではない…
だけど、それは何時の日か一誠が言っていた気がする。
「一誠が何時か言っていたはず…"1950年以前のレコードの管理人は存在しない…僕が最古参だ"…そんなことをね」
彼女はゆっくりとそう告げると、私は彼に視線をやった。
「言ってたよね?」
「その通りだ。蓮水も僕と同じ時期になったから…この2人が観測できる範囲では最古の管理人だよ」
「私は何時の日かそれを聞いた時は、普通に聞き流した」
彼女は私達の間で交わされた確認を聞いてから、再び口を開く。
どこか、私の事を見透かされたような気がした。
「ここまで話せば良いところかな?…全てを話せる位に、知っているわけじゃないから」
彼女は私の目をじっと見据えてそう言うと、ピタリと口を閉じた。
「何故なら、今はそれを追いかけてる最中だからって?」
私の確認に、彼女はコクリと頷く。
「長い旅だよ。この答えを見つけた暁には、どうなるかなんて分かったものじゃない」
彼女はそう言うと、後ろに組んだ手を解いて…着ていたトレンチコートのポケットに手を突っ込んだ。
「!」
「!」
私達は全員…彼女が手を動かした時に、彼女の下に転がった物を見逃さない。
私は由紀子の腕を引っ張って背後に駆けだし…一誠と蓮水もそれに続いた。
「この世界には良いヒントがあったよ」
最後の瞬間…彼女が張り上げて言った言葉が耳に刺さる。
数歩分の距離を取った所で、由紀子を先に逃がした私は、彼女の方へと振り向いた。
2台のポルシェ911の奥…赤いフェアレディZの前に佇んだ彼女は、変わりない、普段の無表情顔を張り付けて私の事をじっと見つめている。
煙草を咥えて…じっと見据えた目は、何処か赤く光っているように見える。
その足元には…何時の間に取り出していたのか…何時の間にピンを抜いていたのか分からないが…記憶にある限り、強烈な威力のある擲弾が2つ転がっていた。
離れていく刹那。
最早、彼女の…私の普段の声色では周囲の喧騒に声が掻き消される距離まで離れると、彼女はボソッと呟いた。
「また、何処かで」
口元から、何を言っているかは読み取れたが…彼女の表情を見る前に全てが終わる。
彼女が立っていた場所は…ものの一瞬で木端微塵に弾け飛んだ。




