藍天的絶望
まさに青天の霹靂。
受験者はずらりと文机に向かって問題を解いている。
それにもかかわらず、俺の目の前にはまっさらの半紙があった。
――終わった。
そう思った俺の頭上には、いっそ清々しいような藍天が広がっていた。
拝啓、母上様。またもや四年間の浪人生活が確定いたしました。
*
「回答やめ!」
老教官の重みのある声が響きわたった。
周りの筆を持つ手がぴたりと止まった。
元々回答を放棄していた俺の筆は止まり続けたままである。
また四年間、文机に向かう日々が始まるかと思うと憂鬱だ。
俺は役人が紙を回収していく様をただひたすら見つめていた。
隣の席には見知った奴が涼しげな顔をしていた。
「辛苦了」
奴の唇がそう動いた気がした。
顔には余裕の笑みを浮かべている。そう、こいつはこういう奴だ。
しかも、男のくせに西施もかくやというきれいな顔立ちをしているから厄介だ。
美人の名前は薛梁という。薛が姓で、梁が名前だが、薛梁と全名で呼ぶことにする。
*
薛梁に会ったのは四年前、俺が前の試験に落ちた頃だった。
そのとき彼は十五歳だった。
「試験はどうだったかね」
そう尋ねる老師に肩をがっくりと落として俺はただ一言、
「駄目でした」
と言った。
「そうかい」
粒ぞろいの秀才が集まった私塾で、俺は完全に落ちこぼれだった。
文字が読める者もろくにいない田舎で、俺は百年に一人の「神童」と崇められた。女手ひとつで育ててくれた母は俺が十二歳のとき、この塾へ入れてくれた。
「こんにちは」
竹簡を持った小柄な美少年が俺の前に来た。
「老師、新しい門下生ですか?」
「薛梁と申します」
まだ透き通った声の少年は、恭しくお辞儀をする。
「彼はまだ十五だが、四書五経をすべて暗記していてね」
将来有望な弟子が増えて良かったじゃないか。
ここに来て数年の間に、俺は分かったことがある。
俺はただ、字が読めただけだった。
そして塾では市井とは違って、文字が読めることなんて至極当たり前のことだった。
*
「今回こそは受かりそうだ」
「やっと故郷に良い知らせができるぞ!」
「父上や母上に文を書かないと」
手応えがあったのか、喜びに湧く受験者が大勢いるように見えて、つらい。
同じく手応えがなく自信なさげの者は見つけられない。
まわりを見渡しても、薛梁のほかに見知った顔はなかった。当の薛梁も余裕たっぷりの表情で、一緒にいたら自分が惨めになりそうだったが、仕方がない。
「よし、今日は飲み明かすぞー!」
俺は薛梁の肩をぐいと引き寄せた。顔のわりにそれほど華奢でもなかった。
初めて会った頃はほっそりと少年然としていたが、その背は俺を越しそうになっている。
もういっそ、俺は落ちてこいつが受かっていたとしても今日は飲み明かそう。
*
「薛さまぁ」
酔った妓女がゆらゆらと豊満な身体をよろめかせ、領巾が揺れる。
薛梁は顔色ひとつ変えず、鯨のように酒を飲んでいる。
すっかり出来上がった妓女と飲み比べをしているらしい。
木乃伊取りが木乃伊になるとは、まさにこのことだ。
「薛さまぁ」と甘えた声の妓女に心も動かないとは、さすが堅物朴念仁。
妓女が近寄ってくると、薛梁は軽やかに身を交わした。
「完璧無欠優等生殿は、まさか女嫌いか?」
もしくは断袖か。
もしどちらかだと言われても、こいつに釣り合う美女はほとんどいないだろうから当然とも言える。
「完璧無欠の優等生なのは認めますが、後者は認めません。それに断袖の趣味もありません、今のところは」
うわっ、気に食わないやつだ。
「わたしの勝ちだな」
薛梁と飲み比べをしていた妓女は、しばらくまたたびに群がる猫のようにふにゃふにゃとしていたが、その後寝入ってしまったらしい。
妓楼での遊びも慣れていないのだろう。門下生たちが妓楼へ遊びに行っても、「ぼくは本を読むのが好きですから」と涼しげな顔で言って、「付き合いが悪い」と顰蹙を買っているような奴だ。
だからこうして妓女をひとり、酒で駄目にしたのか。この後が肝心だろう、この後が。
「じゃあ何だ。据え膳食わねば何とやらというのを知らんのか」
言おうと思った成句を思い出せないことほどつらいことはない。
「据え膳食わぬは男の恥、ですか」
俺が言おうとしていたことを、こいつはすぐに言い当てる。こういうところが何だか嫌だ。
「そーだ、そーだ、それ、それ」
「哥さん、かなり酔っていませんか? こんなことを聞くのも愚問ですね」
「美味いんだもの」
そうだ、美酒のせいである。
「酒のせいにしない。ちゃんと節制しないと。ほら、水です」
何杯飲んでいるのか分からないくせに、素面のようだ。
「わー、月だ」
杯に写る月に手を伸ばすと、バシッと叩かれた。
「酔って月を捕まえるなんて、李白じゃないんですから」
こんなときもお堅い話か。
「おまえの頭の切れること。切れること。絶対におまえなら受かるよなあ。俺はまた四年間の浪人生活が確定だよ」
「わたしも不合格は確定ですよ」
今なんと言ったか? 不合格? こいつが?
「冗談はよすんだな、秀才くん。老師も哥さん方も皆、おまえは合格確実だって」
「不合格も秀才も、本当です。ただ、試験なんて最終的には自分ですから」
自分で秀才とか言っちゃう? と思ったが、確かにこういう奴だ、こいつは前から。
そして不合格の割に落ち込んでいない。まぁそうか、こいつは初めて受けたんだからな。
「またよろしくお願いしますね」
かわいげのない弟弟だ。酒を飲んでいるくせに素面みたいに言うなよ、本当に。
*
「詩作なんて俺、まっさらよ」
「ああ、あの問題ですか。あれは暇だったので般若心経でも書いておきました」
薛梁はにやりと口角を上げた。八重歯がちらりと見える。
「もしかして解けなかったのか?」
俺は少し嬉しくなった。難問だと思ってはいたが、塾生きっての天才・薛梁も頭を抱えるほどの難問だったのか、あれは。それならば解けなくて当然、当然。
「いいえ」
「そ、そうか」
「あと、もしかして今、あれはかなりの難問だったんだ、とか思いましたよね? しかしながら、あれはまったくの易問です。四年前のわたしでも解けたかと」
一言多い。完全無欠の優等生なんかじゃない。一言多いのはこいつの欠点だと思う。
「おまえ、答えを知っていてわざと……」
「ええ、わざとです。わざと解きませんでした」
「なぜそんなもったいないことをしたんだ」
「わたしは引き伸ばしたかったのですよ」
「また浪人生活を送りたいってか」
「本質を言えば」
「なぜだ? 皆、喉から手が出るほど合格したがっているんだぞ。おまえだって知っているだろう? 塾の皆が血反吐を吐くような思いで……それをなぜまたあんな時期を過ごしたいなんて思うのか?」
「気になりますか?」
*
昔、結婚の約束をした娘がいたんです。
わたしより二つばかり年上の娘でした。小さい頃は本当の姉のように思っていましたが、わたしが七つになった頃から疎遠になりましてね。
よく言う「男女七歳にして席を同じうせず」というやつです。
あるとき地元に太監が視察に来ました。うちの地元にゆかりがあるとかで。
そこで後宮に仕える娘を選ぶために未婚の娘たちを集めるように御触れ書が出ました。
いわゆる官女狩りですね。まあ、狩りというほどのものでもありませんでしたが。
さきほど話した娘もその対象になるわけで。器量を見込まれて後宮行きが決まったんです。
それを聞いてわたしは彼女が王都へ向かう前の夜、家に忍び込みました。
「男女七歳にして席を同じうせず」が何だと娘の部屋へ。そこで思いきって言いました。
帰ってきたら必ず嫁にする、とね。
*
「意外と血気盛んなのな、おまえ」
表情が乏しいから知らなかった。
「それで、今、その娘は?」
「珊瑚宮で先日亡くなった皇子の喪に服しています」
珊瑚宮といえば美人揃いで、歴代の帝の覚えもめでたい。
子福者の帝は、珊瑚宮の主である妃のみならず、女官にも子供を生ませているらしい。子福者ゆえに東宮以外の子女のことはよく分からない。
「もしかして帝の寵姫に手を出したのか」
「手は出してません。夜と言っても冬でしたから酉之刻《午後五時》にもなっていないかと」
しれっと言う。可愛くない。
「だから、帝の寵姫なのか?」
焦らしているのだろうか。まるでこいつの手の内で遊ばれているようだ。
「ただの官女です。皇子の生母に仕えていたため、その皇子の喪に服しています。あと三年はかかるんじゃないかな」
薛梁は指折りをして数える。
「それとおまえが試験に落ちること、何の関係があるんだ?」
「ここで試験に受かってしまえば、許嫁が喪に服している間、娯楽に興じることになるじゃないですか。だから自分にも制約を設けたくて」
真面目か。いや、真面目を取り越してなんていうか……
「なあ、おまえって馬鹿だろ」
「ええ、阿呆です」
笑った顔は年相応の青年の顔だった。
あと四年間また学び舎を共にする仲間だと思うと、少しだけこいつのことが好きになれた気がした。まあ、顔だけは良いし。
*
「哥さん、次の試験が四年後とは限りませんよ?」
「え?」
「哥さんが受けたのは四年前、その前の試験はさらに三年前、その前は……」
「待って、待って。まさか二年後とか言わないよな?」
「可能性としては否めません」
「間隔が短くなるのに焦らないのか?」
「なぜ焦るんです?」
「何でって、そりゃあ……」
「焦りませんよ」
薛梁はちらりと八重歯をのぞかせた。
「わたしは受かる自信がありますから」
爽やかな笑顔を張り付けて言われた。
訂正、やっぱりこいつのことは好きになれない。
*
「あ、名前あった」
薛梁は「猫がいる」とか「雨が降ってきた」とでもいうような言い方で言う。優等生のあいつにとって合格というのは、そんなごく当たり前のことなのだろう。
こいつ、人の気も知らないで。
「良かったな」
「哥さんのもありますよ、ほら」
駄目元で来たはずだったのに、奇跡だった。
平々凡々な名前ゆえ、同姓同名の人間がいるのではないかと疑ってしまう。
でも俺の名前だった。
後から知ったことだが、白紙で提出した問題は「解なし」だったらしい。
「般若心経なら不合格になると思ったのに。無回答扱いか。まぁ、娯楽は節制しますよ。わたしは哥さんとは違うので」
同僚になった弟弟子は、相変わらず嫌味な奴だった。