ミリオンラーメンあいみすゆぅ
ジャワジャワと聞いてるだけで暑苦しい蝉の声が、熱気と共に部屋の中に充満している。
風呂掃除を切り上げてリビングに戻ってきた俺は、辛抱堪らずクーラーのリモコンを手に取った。
年期の入った機械から轟と唸りをあげて吐き出された空気は全く冷えていない。ただ生温い空気が部屋の中をかき混ぜただけだ。まあ、風があるだけまだましか。
一連の動作には我関せずと、ペラリと紙片を捲る乾いた音だけが涼しさを感じさせた。
「……お前、なんでいるの?」
「玄関開けっぱなしは無用心だよ、委員長」
これで部屋にいるのが幼馴染みの女子高生とかだったらどれほど良かっただろう。しかし、現実では俺より身長のでかい同級生の男が、背を丸めて黙々と本を読んでいた。コイツ、顔もあげやしねぇ。
「大丈夫。鍵は閉めておいたから」
「そういう問題じゃねぇよ」
「手土産は冷蔵庫に」
「そういう問題でもねぇ。夏休みだからって毎日毎日ヒトん家に入り浸りやがって。お前、彼女はどうした?」
「ああ、そうだった」
そこでようやく、嘉手納ニコラスは顔をあげた。浅黒い肌に深い彫り。父親譲りのラテンの血が濃く出た容姿は如何にも女子受けしそうだが、その中身はただの魚オタクの唐変木である。
コイツにはそれを理解して付き合ってくれている美人の彼女がいたはずなのだ。俺の家でぐうたら時間を潰すのではなく、彼女とデートでもいちゃこらでもしに行けばいいものを。
「伝言。『夏の間、うちのダメ男をよろしくお願いします』」
「……お前んとこの母親も同じこと言ってたよ」
「その母さんは今日から父さんとマドリードに。姉さんはボリビアに。妹は貯めたお年玉でマレーシアに。彼女は遠征でブダペストに行ってるから、家にいても暇なんだ。今日からこっちに泊まってもいいかな?」
「はあ!?」
コイツ、よく見たらドでかいトランク持って入ってやがる! 海外旅行レベルで長期滞在する気だ!!
俺がベランダからトランクを投げ出そうと四苦八苦している横で、ニコラスは悠々自適にマイカップでコーヒーなんぞを飲んでいる。
分厚い本を脇に積み居座る気満々の自由人は、正午を指す時計を一瞥すると猫のように伸びをした。
「もうそろそろ、来るんじゃない?」
「げっ、アイツらも来んのか今日」
トランクを落とした瞬間的、チャイムの音と共に悲鳴が上がった。慌てて身を乗り出して確認するが、見知った顔しかいないので安心した。
噂をすれば影、だ。
『あれ、鍵閉まってる。たのもー』
ガチャガチャと玄関のドアを開けようとする音がうるさい。仕方なく玄関に来たが、開ける気力がない。開けようとしたニコラスを止める。泥棒かもしれないしな。
「せめて来るなら連絡入れろよ」
『ニコラスに言ったじゃねぇか』
本人に言え。
泥棒かもしれない人間と扉を挟んで会話する。
『えー、俺だ、山下だ。開けろよ委員長。お前は完全に包囲されているー』
「人員二人でどうやって包囲すんだよ。親に通報して引き取ってもらうぞ」
『ギャーッ!! やめろやめろ!!』
『ダッサ。負け確定の勝負仕掛けるのやめなよ。ほら、その図体退けて』
ガチャリ、と呆気なく扉は開いた。え、なんで? 戸惑っているうちに、見慣れた顔がふたつ出てきた。
そのうちの小さい方、秋田がヒトを小馬鹿にした笑顔で家の鍵を掲げる。
「植木鉢の下はド定番過ぎるから止めといた方がいいと思うよ」
「うるせぇ親父がよく鍵忘れんだよ!」
なんで侵入者どもにセキュリティについて説教されねばならんのだ。
ずかずかと乗り込む山下とすれ違うと、むわんと酸っぱい臭いが漂ってきた。よく見れば二人とも、しっとりと濡れた部活着のままである。
「お前ら汗臭ぇ!! シャワーくらい浴びてこいや!!」
「部活帰りだからな。風呂借りるぜ!」
「お前ら入れるためにひいこら言って掃除したわけじゃねぇぞ!! 脱ぎながら歩くな!!」
無情にも、バタンと扉は閉められた。
ニコラスにトランクを渡していた秋田が気まずそうに頬を掻く。
「はいこれお土産。悪いね、僕らの高校だと自宅よりこの家の方が近いんだよ。風呂浴びたら掃除くらいはさせるからさ、水滴一滴残さないレベルで」
まず勝手に入ってくるのを悪いと思ってくれ。
差し出された紙袋には、上等な堅焼き煎餅が大袋で入っていた。俺の好物だ。
押し黙った俺に、秋田は本来の穏やかな顔で微笑んだ。
「この家、居心地いいんだよ。──だから追い出すならアイツ一人にして」
海よりも深く長いため息が漏れる。
ああもう、いつもそうだ。
結局のところ、俺はコイツらに弱いのである。
何が原因か、ということを考えると、やはり父子家庭であることを知られたのが大きいだろう。
その親父も仕事で滅多に家に帰らないとなれば、大人の目の届かない家は子供の楽園と認定される。
これで良いように使われるとかヤリ部屋にされるとかだったら流石に追い返したが、そうしない程度のモラルはある奴らだ。几帳面に手土産は持ってくるし家事も手伝ってくれる。何より部屋が賑やかだ。
まあ勝手に入ってきたり家具を足したりするのはどうかと思うが。
「そこで妥協してしまえるのが委員長だ」
リビングでもやしの根を摘みながら、ニコラスがぼんやりと呟いた。
その隣では肩からタオルをかけた山下が、ガタイの良い身を丸く縮めてフローリングの上を粘着ロールでコロコロしている。
断じて客ではないのだから、働かざる者食うべからずの法を押し通す。
俺は台所で具材を刻み、その横で秋田がスープを作っている。他二人は秋田によって台所侵入禁止令を公布されていた。
「秋田、醤油足りるか?」
「委員長は調味料に触らないで。自分で足す」
ギロリ、と剣呑な目つきで睨まれる。秋田は割と常時ツンケンしてるので、こんなものである。小柄で顔に険があるわけでもないので、凄んでも威嚇する小動物としか思えない。
しかし、横で気になったのか山下が言い咎めた。
「秋田ァ、その言い方はねぇんじゃねぇの?」
「うるさい粗雑の極み。壊滅的な味音痴に触らせたら平穏はないことがわからないわけ? 僕はね、疲れてるんだ。美味しいとはいかないまでも、まともなものが食べたいんだよ。おいこら入ってくるなド天然あの惨劇は忘れてないからな」
得体の知れない黒いソースを携えて寄ってきたニコラスを追い出して、秋田はお玉を手に取った。
味に関しては任せておいて問題ないだろう。
ソースを置いてもやしを差し出すニコラスが、可愛くもないのに小首を傾げて尋ねた。
「委員長、昼飯なに?」
「ラーメン。ちょうど近所のラーメン屋がお中元で麺を大量にくれたんだ。お前の土産もあるし、量は足りるだろ」
「やりぃ! オレ特盛で!」
「欲しけりゃ黙って掃除してろ」
おれのは肉抜いてね、と好き嫌いの激しいニコラスは言い残し、いそいそと本を開いた。あれはもう動かない気である。
ゴウンゴウンと音を立て、クーラーは正常に冷気を吐いている。それでも熱源が四人いるからか、汗ばむ程度の室温はある。
冬ならば諸手を挙げて歓迎するのだが、夏はやはり少し鬱陶しいかもしれない。
冷蔵庫から白ネギを取り出し、さくさくと斜めに包丁を入れる。竹輪は輪切りにするが、これもニコラスが食べないので量は少なめだ。
湯が沸いたので生麺を六人前入れてほぐしていく。これで足りるだろうか。少し心配になったので、嵩増しに白菜も入れることにする。
バラバラに湯の中を泳ぐ麺は踊っているようで見ていて少し面白い。麺に火が通ったのを確認し、鍋の中身を秋田が出してくれたざるに出す。
「あのラーメン屋、この辺で有名だよね。スープの味が微妙なのに、店主の人柄だけで長いこと持ってるんでしょ? 父さんがラーメン食わずに世間話だけして帰ってくるよ。お中元に麺送られたことはないけど」
「週に二三度通ってるからな。食生活を心配されたんだ」
「うわあ。あのラーメンを週に何回も食べるのもキツいし、食生活を心配して麺を送るのも本末転倒じゃない?」
歯に衣着せず秋田は辟易した声をだす。しかし、毒を吐きながら土鍋を取り出し、別の鍋に作ったスープをいれて火をつけてくれる。マイペースなニコラスや山下と違い、秋田は気が利くのでとてもやり易い。
秋田に指示されて手を洗ってきた山下に皿を渡すと、ふと思い出したように口を開いた。
「ラーメンって言やあさ、この間オレの爺ちゃんと飯食ったんだけど、そのときに妙なこと言われたんだ」
「妙なこと?」
本から顔をあげたニコラスが先を促す。
山下は食卓に皿を適当に並べ、席について続きを語った。
「『俺の人生で一番うまかったラーメンは百万円のラーメンだ。どんなラーメンか当てられたら、お前にも食わしてやるよ』──って」
百万円のラーメン。突然出てきた単語に面食らう。具体的にどんなものか想像もつかない。
秋田が鍋に具材と大量の麺を入れ蓋をしたのを確認して、俺も話に加わった。
「それで、わかったのか?」
「全然。当てずっぽでいくつか言ってみたけどハズレるし、親父に聞いてもわかんねぇの一点張りで、保留中。当たったらバーガーいくらでも奢るからさ、一緒に考えてくれよ。オレよりお前らの方が得意だろ、こういうの」
秋田、ニコラスと顔を見合わせる。どちらも悪くなさそうな表情だった。ならば、とニヤリと笑って見せる。
「俺三段のバーガー」
「じゃあ僕一番高いやつ」
「おれはサラダ。自然派専門店の」
「うぐっ、……ええい、なんでもこいや! 男に二言はねえぜ!!」
言質は取った。
鍋を秋田に任せ、食卓にガスコンロを設置しながら山下に笑いかけた。
「それだけじゃわかんねぇからさ、もうちょい詳しくそのときの説明してくれよ」
「おう、先週のことなんだけどよ、いつもはちょっと離れた別宅にいる爺ちゃんが俺んちに遊びに来たんだ──」
山下の家はこの町でも有数の裕福な家である。その財をコンサルティングで築き、今尚社長として会社を支え続けているのが、彼の祖父である松三郎氏だ。
山下自身は厳格な祖父を苦手としていたが、その日は直々に誘われ二人で外食に出掛けた。一家の長である松三郎氏の言葉は絶対に近く、山下に拒否権はなかった。
着いたのは有名な中華料理店だ。カウンター席などなく、卓を二人で囲んで料理をつついた。
山下は緊張しつつも朗らかに、学校や部活、友人について近況を報告していたが、追加注文をしようとしてメニューにラーメンが無いことに落胆した。
その様子を見て、松三郎氏は言ったのだ。
『やめとけやめとけ、こんなとこにうまいラーメンは置いてねえよ。どんなかって? そりゃあ、そうだな。俺の人生で一番うまかったのは、四十年前に食べた“百万円のラーメン”だったよ』
『そうだな、ヒントは出揃ってる。どんなもんか当てられたら、お前にもそいつを食わせてやるよ』
山下は目を輝かせて思い付くままアイデアを口にしたが、正解することはできなかった。なにかヒントにならないかと父親にも尋ねると、父親も十数年前に出題されていたが、正解にはたどり着けなかったようだった。
「──そして、今に至ると」
「オレはさ、いい肉が山ほど入ったとんこつラーメンとか、キャビアやフォアグラが乗ったラーメンとかだと思うんだけど、どう思う?」
どうもこうもない。
山下は目を輝かせているが、ニコラスは視線を本に戻しているし、秋田は呆れ顔で鍋の様子を見に行った。
仕方なく、俺が解説をすることになる。
「なあ、山下。それだけじゃ当てることなんてまずできねえよ。当てさせる気ねえんだよ、その爺さん」
「なんでだ? 色々思いつきそうなもんだけど」
希望を捨てていない山下は、夢見がちに黒目をキラキラさせている。コイツ、幽霊を見たいと俺らを肝試しに連れ出した中学の頃から何も成長していないらしい。
「何をうまいと思うかは、人の嗜好が大きいだろ。肉料理と野菜料理なら、山下は肉料理をうまいと思うだろうが、ニコラスは迷わず野菜料理を取る」
「おれは色々な考えが邪魔して美味しく食えないだけだけど、人によってはアレルギーもあるだろうし。美味しいと思えるかどうかは、食べたときのコンディションや状況にもよる。お爺さんが何を食べて美味しいと思ったのか、その話だけじゃわからない」
「爺さんがうまいとさえ思えば、どんなゲテモノが入ってたってうまいラーメンに成り得んだよ」
「おっまえら、頭硬ぇなあ。別にそんな真面目に考えなくていいんだよ」
呆れた声を出して、山下は立ち上がり俺たちを見下ろした。ニコラスと違って筋肉の厚みがありガタイも良い山下に見下ろされると、旧知の仲であってもたじろいでしまう威圧感がある。
「いいか、別にずばり正解を当てろって言ってるわけじゃねえんだ。いくつかそれっぽい答えを出して、どれか当たれば儲けもんだろ? 馬券と同じだよ、こういうもんは」
「何を偉そうに。お前も馬券買ったことないくせに」
秋田が減らず口を叩くが、『話をやめよう』とは言わなかった。
俺も、少しは考えてみてもいいかという気分になっていた。馬鹿馬鹿しいが、山下のこういうところは嫌いではない。
鍋が煮えるまでの間、片手間に作ったきゅうりと味噌の和え物をつまむ。菜食主義者のニコラスがいると、ちょっとしたつまみはやたら健康的なメニューになってしまう。
「調べてみたけど、百万円で売ってるラーメンはネットには載ってないね。高くてせいぜい十万かな」
「オーダーメイドかなんかか? 好物を山ほど載せたラーメンとか」
「爺さんの好物って山下知ってるか?」
「えー? 肉はもう食いづらいとは言ってたけど……。あんま拘りはねえんじゃねえかな、外国で食った虫が案外うまかったって笑ってたくらいだし」
「委員長と同じじゃん」
待て、俺は味音痴であって悪食じゃない。弁明は聞いてもらえそうにないので、慌てて話題を変える。
「じゃあお前ら、今まで食べたものの中で、一番うまいものってなんだ?」
「親戚に貰った国産和牛の分厚いステーキ」
「二日くらい食べるのを忘れてた後に食べたもやし」
「兄貴に口喧嘩で勝ったあと奢らせた鰻重」
「お前らなあ……」
美食からは到底かけ離れた奴らである。いずれの意見も、回答の参考になるかどうか怪しい。
「まあ、質よりも状況が大事かもしれないな」
なにせ、“人生で一番うまい”ラーメンと豪語しているのだ。
それだけ印象に残るということは、よほどの衝撃か、それにまつわるエピソードがあったのだろうと想像がつく。食に拘泥していないのなら、こちらの方がよほど納得がいくというものだ。
「空腹は最高のスパイスだぞ」
「僕の鰻重も“勝って奢らせた”という部分が大きいよね。“人生で一番”って言葉から察するに、過去と比べてるわけだから。古い記憶であればあるほど状況や感情による思い出補正は強くなりそう」
「なんでだよ、大事だろ味は」
お前の言う味は胃に溜まるかどうかだろう。喚く山下を黙殺して、会話を続ける。
「でも“百万円の”ラーメンなんだよな」
「普通、ラーメンに百万なんて払うだろうか」
まず最初に引っかかるのはそこだ。一般市民は百万円もラーメンに使わない。百万があるなら百人が百人他のことに使うだろう。
「アイドルの手作りラーメンとかなら百万払う人もいるかもな」
「ああ、人生で一番うまいな、それは」
「……爺さんにそんな人は?」
「婆ちゃん一筋五十年、ってことあるごとに言い張ってるし、ねえんじゃねえの?」
「その婆さんが元ラーメン屋だったり」
「しない」
とすると、料理に材料以外の付加価値がある線は薄いだろうか。
「そもそも、山下の家ってポンと百万出せるような金持ちなのか?」
「三千円の焼き肉がご馳走な一般家庭だぜ? 爺ちゃんの方針で会社の金で贅沢はしない主義なんだ。お年玉の額も秋田より少なかったっての」
「そんな人が百万のラーメン食って、しかも今度は孫に振る舞おうとするのか? 無類のラーメン好きとか?」
そんな話は聞かねえな、と山下は首を傾げている。
そこで湧いた疑心を告げた。
「この問題自体、爺さんの口から出任せなんじゃねえの?」
うっかり大言壮語してしまいあとに引けなくなった、というのもよくある話だ。
人は悪意なく意識なく嘘をつく。見栄を張り、虚勢を張り、欲を張る。
ラーメン好きでも羽振りがいいのでもなければ、普通の人間はラーメンに百万円など払わない。
ましてや孫に食べさせるとは言わないだろう。
ならば、嘘と考えた方が自然な話だった。
ラーメンに火が通ったらしい。秋田が両手にミトンを嵌めて持ってきた土鍋を食卓に置いた。
「いや、それはないよ。あの爺さん嘘嫌いで有名だから。僕も一回冗談言ったら凄い剣幕で怒られたし、それ以降睨まれてるし。なにより、山下の親父さんにも言ってるんでしょ?──はい、ご開帳」
「おお!」
秋田が蓋を開けると、ふわりと白い湯気が立った。それと共に醤油と出汁の香りが立ち込める。
視界が開けて、くつくつと煮える醤油ベースのスープに浮かべられた、半熟卵が三つ。嵩を増すために入れてある白菜や白ネギの緑がアクセントどころか主役として鎮座し、その下には輝く黄金のちぢれ麺が控えめに隠れている。
トッピングはもやしと叉焼、メンマにナルト。
ニコラス用に小さな丼も出す。
「チャーシューは山ほどあるから好きなだけ食え。肉卵ちくわ抜きのニコラスはこっち」
「ありがとう」
気づけば山下が箸を伸ばしていたため、負けじと俺も麺を奪った。
ひとり一杯に分けられればよかったのだが、生憎二人暮らしの家に丼鉢は四つもない。土鍋をつつくのが恒例になっていた。
しばらく無心で啜って、スープしかなくなった頃。思い出したようにニコラスが呟いた。
「……器が高かったとか?」
「え? なんの話?」
「百万ラーメン。もし丼鉢が百万円の値のつくものだったら、“百万円のラーメン”と言えないだろうか。それに再びラーメンを入れれば、山下に振る舞うこともできる」
なるほど、いつもぼんやりしてるコイツにしては良いアイディアだ。それなら爺さんは嘘をついてないし、山下もラーメンにありつくことができる。
この提案に山下は立ち上がってガッツポーズを取った。
「よっしゃ! これで……、いや、食べるの緊張するな」
「確かに。そんな器で食べて、味なんてわかるのかな? それを人生で一番美味しいなんて言えるの、拝金主義者くらいじゃない?」
「ということは、状況に百万円かけた、という選択肢も無さそうだな。もう一度用意するのに百万かかるし」
なかなか難しい問題だぞ、これは。
①百万円の価値がある
②再度百万円を払わずとも提供可能
③人生で一番旨いと思えるラーメン
この三つの条件を兼ね備えるラーメンなんて思い当たらなかった。
秋田がスマホを弄りながら頭を掻き、苦虫を噛み潰したように顔を歪ませた。
「ねえまさか、百万円を払っても惜しくはない、愛情こもった“奥さんの手作りラーメン”とか言わないよね? もしそうなら興醒めだけど」
「うんにゃ、父ちゃんがそう答えて“ハズレ”っつってたからそれはねえ」
考えやすい“答え”だが、なるほど。百万円の価値はあるが、実際には百万円は支払われていない、という線はあるかもしれない。
「この助詞の“の”が厭らしいよね。百万円“の価値がある”ラーメンかもしれないし、百万円“をだまし取られた”ラーメンかもしれない。なんなら、百万円“の札束が入った”ラーメンの可能性もあるわけだ」
「誰が食うんだよんなもん。委員長じゃねえんだぞ」
弄りにいちいち反応するのも面倒なのでスルーする。“百万円”に関係したラーメン、と考えると、ただラーメンに百万支払ったと考えるよりも考えやすい気がしていた。麦茶で口を湿らせて、考えを整理する。
「なら、百万円の商談のきっかけになったラーメン、とかならどうだ? たとえば、成功した商談の場で食べたラーメンとか、もしくはラーメンをきっかけに取引先と知り合えた、とか。それなら百万円の価値はあるし、山下に食べさせることもできる。思い出補正で美味しく感じられるだろうし、人生で一番うまかったと思ってもおかしくない」
「“わらしべ長者”みたいに、ラーメンから百万円になったってこと?」
「なるほど! さっすが委員長! オレの終生のライバル!」
「マジでやめろ」
四十年も前の出来事だ。些細な味は風化して、「嬉しかった」「うまかった」という記憶だけが残るだろう。それを反芻していれば、「人生で一番うまかった」ラーメンにもなりえるはずだ。
三人を見る限り、異論は無さそうである。
話も纏まったと立ち上がり、二杯目のラーメンを作ろうとしたところで、秋田が手を上げた。
「待って、四十年前でしょ? 高度成長期の真っ只中、ネットによると会社がノリにのってるとき。百万円程度の商談でそんな喜ぶかな?」
さっきからスマホを見ていると思ったが、どうやら爺さんの会社について調べていたらしい。
「百万って個人には大金だし、一食で使うなんて考えたくないけど、企業で見たら端金だよ。社員に給金払えば一瞬で消えて、設備投資もできやしない。爺さんが七十歳なら四十年前だと三十歳。会社立ち上げてそれなりに経ってるから初商談とも考えづらい。そのあと不祥事で経営難に陥ってるみたいだし、会社関係とは考えない方がいいんじゃないの?」
会社の経歴について詳しく説明されたが、ようは一度経営難になったのち、回復して今に至るということだ。
「経営難に陥ってるなら、その百万が起死回生のきっかけになったとか、精神的に救われたとかはどうだ?」
「経営難から回復するのは数年先、それを四十年前と一括りにするのは大雑把が過ぎる。いくら山下の血縁だからと言って、あの爺さんがそんな適当なことを言うとは考えにくいよ。個人的なエピソードなら……僕は知らない。山下、心当たりは?」
「爺ちゃんの思い出話か。精々、ダチと喧嘩した、くらい? 詳しいエピソードなんて聞いたことないぜ」
祖母との結婚はそれより前だし、慶事は重ならないだろう、と山下は言う。
山下が知らないのなら、俺たちには想像することしかできない。
ポツポツとアイディアを出すが、その数は少なかった。そして、案が出るたび否定材料が出されるため、発言はどんどん鈍くなっていく。
情報が足りない。
俺達には正解にたどり着くことはできない。
誰彼ともなくため息が漏れた。
空気を入れ替えるべきだろう。
改めて冷めた鍋を持ち上げ、台所へ入ると秋田が後ろについてきた。細い眉を顰めて、山下たちには聞こえないような小声で呟く。
「……余計な水差したかも」
驚いて、思わず秋田の顔を見る。と、表情を隠すようにそっぽを向かれた。
「わざわざ謝りにきたのか?」
「違う。麺と醤油の相性が良くなかったのが腹立つから、味噌混ぜに来ただけ」
ズカズカと台所に入り、冷蔵庫から味噌パックを取り出す秋田に苦笑する。
確かに、俺の発言で止めていれば、問題の正否はともかく気分よく終われただろう。
この場で正解に拘る必要性はなく、話が盛り上がればそれでいいはずだった。それでも、この場で秋田が罪悪感を感じる必要はない。
「いいんだよ。全員が納得できる答えを探してんだから。秋田の執拗な疑り深さは長所だろ」
「うるさい。誉めるか貶すかどっちかにしてよね」
「明らかに誉めてんだろ。ほら、あっちにも納得いってねえやつがいるぞ」
不機嫌を露にする秋田に示すように、二人が残っているリビングを指差す。
ニコラスと山下は、トッピングとして出したメンマをつまみながら額をつきあわせていた。
「山下、お爺さんの友達との思い出教えて」
「お前まだ諦めねえの? いや、良いけどさ。どんだけサラダ食いたいんだよ」
「他人の金で食べるサラダは美味しいよ」
秋田じゃないけど、と。図体ばかり大きな菜食動物はメンマを呑み込むと、珍しく神妙な顔をした。
「それに、『ヒントは出揃っている』って言葉が気になって。それまでに何を言って、答えを出すのに何が必要か、分かってないと出ない言葉だ。お父さんもずっと前に同じ問題を出されてるんだよね? きっと、お爺さんにとってそれだけ大事な問題なんだ。この問題を通して山下に伝えたいことがあるんだと思う」
「オレに伝えたいこと……」
『ヒントは出揃っている』。
言われてみると、確かに妙な言い回しである。
まるで、問題を出すことをあらかじめ念頭に置いてヒントを意図的にばらまいていたかのような。
気まぐれで出された問題ではなく、山下を試すような意図さえ感じられてくる。
「爺ちゃんの昔話を直接聞いたのは、一度だけだな。ほら、中学んときに秋田と大喧嘩したことあっただろ? あんときオレ、結構凹んでて、母ちゃんに心配されたんだよ」
「あったね、そんなこと。間に挟まれて大変だった」
ニコラスの相槌に、秋田は口をへの字に曲げた。『喧嘩なんてしてない』と言いたいが、さっき後悔した手前、口を出すに出せない、といったところだろうか。
「母ちゃんが爺ちゃんに相談したらしくて、電話でこう言われたんだよ」
『どれだけ長くつるんでも、友なんて結局のところアカの他人だ。何を考えているのかわかりゃしねえ。俺も昔、ずっと一緒にやってくだろう、ってダチを裏切ったことがある。人間そんなもんだ。それでも一緒にいたきゃ、折れろ、話し合え、許せないもんは見ないフリをしろ。それでも無理をしなきゃ付き合えないならダチなんてやめちまえ』
「……ヒトのことをどう説明したんだお前」
堪えきれなくなったのだろう、ドスの効いた秋田の声で、話は遮られた。話の大筋が終わるまで羞恥に耐えたのだ、コイツも成長している。
暴れだしかねない秋田を台所から追い出し、さっさと鍋でスープと具を合わせ火をつけた。これでしばらくは、放っておいても大丈夫だろう。
「友達を裏切った……?」
「爺さん、いったい何したんだよ」
突然出てきた物騒な言葉に正直戸惑いを隠せない。
──友人を、裏切る?
俺にとって友人と呼べるのはコイツらしかいない。裏切るという言葉から具体的な想像をするのが難しかった。
「オレが知るかよ。ダチ騙してラーメン買わせたとか?」
「なるほど? 馬鹿の考えにしては、アリだね」
他人の金で食う飯はうまい。二人が声を揃えて笑い合う。
その中で、一人考え込んでいたニコラスが静かに手を上げる。自然、皆口を閉じてニコラスに注目した。
「……わかったかも」
その一言に、俺たちは顔を見合わせた。
食卓のガスコンロの上で、鍋がクツクツと煮えている。その周りを取り囲むように座り、ニコラスは話を再開した。
「話を一度整理しよう。まず、四十年前。高度経済成長期。山下のお爺さんはコンサルティングの会社を経営していて、その経営は順調だった」
これまでの気だるげな様子とは打って変わって、ニコラスは背筋を伸ばし、教師のように堂々と語る。
舞台映えする容姿も相まって、ドラマの一場面のようでもあった。
雰囲気に飲まれた誰かの喉の音がリビングに響く。
「そして、①“人生で一番といえるほど美味しい、百万円の”ラーメンを食べる、②不祥事で経営難に陥る、③友人を裏切る、の出来事がどの順番かは分からないけど起こった」
ニコラスは三本、長い指を立てる。これは秋田と山下の話を統括した内容だ。認識と一致しているので、各々が頷く。
「“百万円のラーメン”は、今でも食べることが可能だし、山下に振る舞うこともできる。ただ、実際に百万円払い直すとは本人の金銭感覚的に考えにくい」
以上がこれまでに分かっている情報だ。
問題は、ここからどう、ラーメンの正体を推察するかということだ。
ニコラスのもったいぶった言い方に、焦れた山下が声をあげた。
「それで、何がわかったんだよ」
「“ヒントは出揃っている”という本人の発言と、“他の話は聞いていない”という山下の記憶力を信用すると、友人への裏切りがラーメンに関係していると考えるのが自然だ。では、“裏切った”ゆえに“美味しいラーメン”が食べられたのか、それとも“美味しいラーメン”を食べたから“裏切った”のか」
「同じように思えるけど」
秋田の疑問にニコラスは首を横に振る。
そうだ。前者と後者では、因果が違う。ラーメンを美味しいと感じた理由が違う。
「おれは、“美味しいラーメン”を食べたことが“裏切り”だったんじゃないかと思う」
抽象的な文言が理解に及ばなかったらしい、山下が苛立ち混じりに指で机をコツコツと叩く。
「わっかんねえ。わかるように言えよ」
「みんなは、必死に働いて稼いだお金を百万円つぎ込んで、ラーメンを買おうと思う?」
「だから、普通やらねえって言ってたろ」
「……まさか、働いて稼いだ百万じゃないって言いたいのか? “百万円”の方の価値が違うと」
ずっと俺たちは、“百万円”に見合う価値のラーメンとその食べ方を考えていた。
けれど、ニコラスは逆だと言いたいのだ。
“百万円”の価値が、ラーメンほどしか無かったのだと。
「不祥事があったんだろう。例えば不正なお金が動いていて、それがお爺さんの手元に入っていても、おかしくない」
「お前、爺ちゃんがズルしてたって言いたいのか!?」
より直接的な物言いに激高した山下の裾を隣に座る秋田が引く。山下を宥めるのは、いつも秋田の役目だ。
「山下の爺さんが不正をしたなんて話、聞いたことないけど」
「だから、友人を“裏切った”んだ。不祥事は加担していたはずのお爺さんとは関係ないことに“なった”。ゆえに罰を逃れた」
ニコラスは言う。四十年前に起こった三つの事象の全てに関わりがあると。
映画の中の探偵役のように俺たちを順に見渡して、穏やかに、静かに、厳かに。推理ショーは始められた。
鍋はまだ、煮え切らない。
「もちろん、これは全部おれの想像でしかない。これなら割と辻褄が合うんじゃないか、という閃きにすぎない。それを念頭に置いて聞いてほしい」
かつて、山下のお爺さんの会社ではやがて不祥事として発覚する悪事が行われていた。
それが具体的に何なのか、おれたちにはわからない。賄賂かもしれないし、談合かもしれない。これを断言するには情報と経済の知識が圧倒的に足りない。本筋にもさほど関係ないから、とにかく“不正に金を得られる悪事”としておく。
その悪事に、山下のお爺さんとその友人は加担していた。
不正に百万円という大金を手にした。
本来なら、しばらくタンスに蓄えて証拠が消えてから使うべき金だ。
けれど、悪事に加担したという心理的負担はあまりにも大きく、お爺さんは百万円を手放したくなった。
なんでもいい。何にならなくてもいい。元はあぶく銭なのだから、無為になるのが望ましい。
だからそう、“百万円”をばれないようにゆっくりと、数百円に──ギャンブルか何かで──した。丁度、ラーメン一杯分の値段に。
食べれば一時罪悪感から解放されるラーメンだ。
食べきった時の安堵感は、どれほど大きかっただろう。それが友への裏切りだったとしても。
それは、“人生で一番美味しい”というに足るスパイスじゃないだろうか。
そして、元は“百万円”だったラーメンは胃に収まり、大金はお爺さんの手元から消え去った。
不祥事として発覚しても、お爺さんは運よく検挙されなかった。
しかし、友人は処分された。“裏切った”という後悔が強く残った結果になった──。
「そんなわけあるか! 爺ちゃんはそんなことしねえよ!」
「落ち着けよ山下。火の近くで暴れるな」
いきり立つ山下をどうにか宥め、けれど俺もニコラスに問いかける。
「ちょっと推測が多すぎるんじゃないか? 辻褄は合ってるが……」
正直、突然犯罪に関わる話が湧いてきて面食らっている。俺たちはラーメンの話をしていたのではなかったか。
ニコラスはぼーっとしているように見えて、時折こうやってシビアな視点を覗かせる。だが、今回はあまりにも救いがなく受け入れがたい。
確かに爺さんの話ひとつひとつを繋ぎ合わせればそうなるだろう。しかし、すべてのエピソードを使わなければならないという証拠はどこにもない。余計なピースを足しているせいで、話が大仰になっているのではないかと疑ってしまう。
「おれも粗が多いとは思うよ。でも、そう外れてもない気がする。後ろ暗いことが無ければ“裏切った”なんて言葉使わない。“百万円”のラーメンは今も価値が変わることなく山下に食べさせることができる。一応、すべての条件を満たしてる」
「でも……! じゃあ、なんで爺ちゃんはこんな問題出したんだよ!」
問いかけられた張本人の叫びに、一同は沈黙する。
問題には意図がある。それが気まぐれであれ計画的なものであれ、解かれるという可能性を考えて出題されている。それはクイズでも試験でも同じことだ。
「懺悔じゃないの? ……時間が経ったあとに迂遠な告解をするなんて、ドラマみたいな話だけど」
ぽつり、と秋田が漏らした。
「“もし誰かが解き明かしたら、自白しよう”なんて。罪を抱えこむ罪悪感と自分からは言い出せない臆病さが入り混じって、他力本願な願掛けをしてたんじゃない? ヒントだけは誠実に出して、真面目に取られないよう冗談めかして。馬鹿馬鹿しい」
口ではこき下ろしているが、その表情は沈痛だ。誰よりも思慮深く弱者に寄り添える秋田だから、感情移入しているのかもしれない。
「違う。爺ちゃんはそんなことしない。オレの爺ちゃんだ。悪いことなんてするもんか! なあ、委員長。そうだろ?」
「なあ、って言われても……」
山下は納得していない。“全員が納得”しないと、俺たちの“百万円のラーメン”とは言えないはずだ。
そして、目の前のラーメンはすでに煮えていた。
だから俺は鍋の蓋を取り、ひっくり返した。
「──分かった。じゃあ、ひっくり返そう。前提をひとつ裏返す。山下の爺さんが悪事に加担していなかったと仮定する」
頭の中を整理しながら、鍋を菜箸でつついて掻き分ける。
具材に埋もれスープに沈んだ、幸せな“答え”を探すように。
山下の爺さんは、悪事には加担していなかった。加担していたのは、爺さんの友人だけだ。
爺さんは友人の悪事を発見し、告発しようとした。けれど、告発できなかった。
きっと彼には同情すべき、悪事に手を染めるだけの逼迫した理由があったんだ。
必要なのだと懇願され、これでどうか収めてくれと口止め料を渡された。
それが、“百万円”だ。
爺さんは悩んだ。告発すべきか、黙っておくべきか。友情と倫理感との間で板挟みになった。どちらが正しいのか、わからなくなった。
悩んで、悩んで、そのことを馴染みの店主に見咎められた。人の良い店主は顔が広く、よく常連客の相談に乗っていた。口も堅く、頼りになる。
黙っていることに耐えきれなくなった爺さんは、店主に悩みを打ち明けたんだ。
店主は親身になって聞いてくれた。押し殺した罪悪感と葛藤を、友人への情を、仕事への責任感を。
全て吐き出して、爺さんは店主に感謝した。
“聞いてくれてありがとう。自分でなんとかしてみるよ”
何から手をつけていいのかもわからなかったが、聞いてもらっただけで心の整理ができた。なにより、人の良い店主を騒動に巻き込むわけにはいかない。
しかし店主は首を振り、一杯の商品を差し出した。
“──百万円のラーメンだ”、と。
面倒を見てやる、と暗に告げていた。事情を知りすべてを承知したうえで、巻き込まれてくれる、力になってくれると。
そこでようやく、爺さんの肩から力が抜けた。ずっと背負っていた重い真実と責任感を下ろし、“ラーメン”を啜った。
「つまり、爺さんの食ったラーメンは、──これだ」
俺は今このときも食い進めている縮れ麺を指し、そう言ってやる。
三人が三者三様の怪訝な顔で自分の取り皿をしげしげと見つめる。どんなに眺めても、矯めつ眇めつしてみても、行きつけのラーメン屋の人の良い店長が自慢げに喧伝しているだけの、いたって普通のラーメンである。
「これが“百万円”の、爺ちゃんの人生の中で一番旨いラーメン……?」
「おれが言うのもなんだけど、こじつけじゃない?」
「こじつけだよ。でも、ハッピーエンドだろ?」
悪徳と後悔を重ねたニコラスの案よりも後味はずっといいはずだ。そのことだけに胸を張って、俺は何食わぬ顔でラーメンをすする。この強いのど越しが、俺は結構好きなのだ。
プッ、と山下が突然噴き出した。対面に座るニコラスの悲鳴はよそに、壊れた機械のように震え続ける友人どんどん震えを大きくし、ついには声を上げて笑い出した。心配か呆れかに顔を歪める秋田の肩をバシバシと叩き、ツボに入ったのか笑いの波はなかなか退かない。
最後には目尻に涙さえ浮かべ、喉をひくつかせながら旧友は評価を下した。
「ははっ、はー、──おう。オレはこっちの方が好きだぜ、親友!」
眩しいほどに輝く笑顔とサムズアップは詭弁の報酬としては十分だろう。
受けは上々、されど隣の秋田は気難し気な顔をして回答を吟味し、静かに問いを投げかけた。
「なら、この問題を出題した意図は? 委員長はどう考えてる?」
「そうだな。これはこじつけというか、もはや妄想の域になるけど、──会社と継がせるかどうかの試験、じゃねぇか?」
後悔の念も確かにあるだろうが、この結末に罪の告白は似合わない。
「そうか、親父さんにも出題してたんだったな。誰にも継がせない会社に、不正解だった親父さん。この問題に答えられたひとに継がせようと決めていたのか」
「一応これは“思考の柔軟性”を問う問題になるわけだし、試験にしようとしてたっておかしくないだろ。むしろ、周到にヒントをばらまいてたなら、これくらい大きな目的があってもいいんじゃねぇか?」
もちろん、この“答え”が万一正解なら、という仮定の話だが。
「爺さんに裏切られた友人は、どうなったのかな」
不祥事を起こした友人はきっと会社にはいられなかっただろう。何らかの罰を受けることになり、不正をしてまで必要だった金も手に入らず、不正を摘発した山下の爺さんに縋ることも難しかったはずだ。
視線を外して、リビングの隅に置かれている大きなトランクを見る。
「……俺は、外国で元気にやってんじゃないかと思うよ」
食べ物を旨いと思えるかどうかは状況に因る。例えば勝ち取ったものだったり、極度の空腹を満たすものだったり、肩の荷を下ろすものだったり。そのほかに俺は、“誰と食べるか”もあるのではないかと思う。気心の知れた家族や友人と歓談をしながら食べる食事は、きっといつまでも“美味しい”。
外国の慣れない料理や見慣れない食材を美味しく食えるのは、きっとそういうシチュエーションなのではないだろうか。
「……そ。じゃ、“納得”」
ぶっきらぼうな承諾を得て、最後の一人に目を向けた。
「それで、ニコラス。どうだ?」
辛気臭い話を始めたのはニコラスだ。俺はその尻馬に乗っかって、楽観的に改変したに過ぎない。
ようは著作権はニコラスにあるわけで、気を害してないか少し不安だった。
「罪悪感からの後ろ暗い解放じゃなくて、重荷とひきかえに出された他人の善意が、“人生で一番美味しいラーメン”、か。委員長らしい」
そうひとりごちると、ニコラスは肩から力を抜いたように朗らかに笑う。
「ハッピーエンドがいいな、おれも」
結局のところ、何を“答え”として爺さんに話すかは山下の裁量次第だ。ニコラスの悲観的な案でも、はたまた秋田の札束ラーメンでもいい。
何にしても、笑い話にはなるんじゃないかと思う。
食事の供にはもってこいだ。
「よっし、難しい話も腹ごしらえも済んだし、ゲームしようぜゲーム」
「お前その前に宿題やりなよ。そのために委員長のとこに宿題置いてあるんだから」
「待て、俺家主なのにそのこと初耳なんだが」
「おれ食器片しておくから──」
ジャワジャワとうるさい蝉の声も掻き消す喧騒が小さな家に響いている。
クーラーでも冷めない熱気は煩わしいが、退屈はしない。
図々しくて面倒で、バラバラの癖に一緒に居たがる、暑苦しい友人たち。
これが日常で、思い返すほどでもない普通の時間。
その価値は、きっと。
「ごちそーさん」
箸を置いた空の器は、小気味良くカランと音を立てた。
後日、ラーメン屋で爺さん随伴の山下とばったり出くわしたり、山下からバーガーの割引券を渡され『約束と違う』と追及することになるのだが、それはまた別の話だ。