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あの頃の空

作者: 佐藤海

第1章   さまざまな出会い


空の色はきっと地方によって違う。東京の空は晴天の時、濃い青色。昔、クレヨンや絵の具で見た空色はもっと薄い色だった。濃い青色はそれはそれで綺麗なのだけど、刺激が強い。俺は思う、あの空色を見たい。いつか見た絵の具の空色。そしてその時、隣にあの人はいるのだろうか・・・。


高校の入学式の日、俺、里村天空そらは玄関を出ていつものように空を眺めていた。色素の濃い青空、その刺激の強さに目を細めていた。そんな俺の後ろ、つまり家の内部ではどたばたとドアが開いたり閉まったり、引出しが開いたり閉じられたり、いろんな物が落ちたり蹴られたり、とにかく大変な騒ぎになっている。

俺はぶっきらぼうにそのどたばたの原因である主に声をかけた。

「先行ってる」

「駄目だ!って、もう少しだから待っててよ、もう!何でないのよ!」

その主は俺の声の数倍はあるだろう大声で叫んだ。そして一際大きな音が部屋中に響いた後、薄い緑色のツーピースを着て、セミロングのストレートの髪をかきあげながら俺の母親、里村明良あきらが姿を現した。

「あ~も~、何であるべき場所にあるものがないのよ!」

お袋はヒールを履きながら不機嫌そうに玄関に出ると、俺と同じように青空の刺激の強さに目を細めた。そして

「東京の空ってほんと濃い色・・・」

と言った。

明良の故郷は京都だ。東京に比べると幾分、空の色が薄い、絵の具の空色に近い。

「遅刻するんだけど」

俺は自分の腕時計を指差し、のんびり空を眺めている明良にそう言った。

「おお!やばいやばい」

と言って不機嫌な顔はどこへやら晴天にすっかり上機嫌になっている明良は玄関に鍵をかけ、俺に駆け寄った。明良は昔から青空が大好きだった。俺の名はその空から名付けられた。だけど、俺はその気取った名前があまり好きではなかった。

「へえ、制服似合うじゃん、うん、いい男だ」

明良は軽い調子でそう言って俺の頭をなでた。


「そら!」

高校の校門をくぐった途端、後ろからの猛タックルに俺は体がぐらついて倒れそうになった。

「雄三~、てめえなあ」

俺はそのタックルの主の首を抱え込んで何度も振った。

「痛い痛い、痛いって天空」

俺らはお互い笑いあってじゃれあった。明良はそれを微笑ましく見守っている。

「明良さんおはよ!」

雄三は俺の腕をはずし、明良に笑顔を向けるとそう言った。

「おはよ、雄三君」

明良は満面の笑みで雄三に答えた。

片桐雄三、俺の幼馴染みで小学校からの腐れ縁。小学校から柔道を続けている雄三は高校生になって男らしい体つきと顔つきになり、俺よりもずっと大人っぽい。俺は華奢で背が高く、年齢より幼く見える。

「そら!ゆうぞう!」

講堂の辺りから制服を着た女の子が俺達の名前を呼んで駆け寄ってきた。栗色のロングヘアーが太陽の光を浴びて、栗色をさらに際立たせていた。彼女は明良の目の前まで来て

「明良さん、どうもです」

とお辞儀をした。

「いつも元気ね、深雪ちゃん」

「はい、それだけが取り柄ですから」

「だろうな」

俺は笑ってそう言った。深雪は幼さの残る顔を膨れっ面にして俺に向き合った。

「天空あんたねえ。私だってもう高校生なんですからね、いつまでもあんた達と遊んでたガキの深雪だと思わないでよ」

「はいはい」

笑顔でそう言った俺の顔を深雪は大きな目で見つめた。

「天空、もしかして彼女とかできた?」

「え?」

「彼女とかいるの?」

俺はそのまっすぐな深雪の目と、突然の質問に戸惑い、言葉が出なかった。

「何?何で答えないの?」

「って、何でって、おま、おまえこそいきなり」

「かっこよくなった」

「え?」

「で、いるの?」

「いっ、いないよ。っていうか何なんだよ、おまえは」

混乱して言い放つように言った俺に反して深雪は先ほどまでの真剣な表情が一気に解れ、

「そっか。それじゃあね、式に遅刻するよ、あんた達」

と俺と雄三に笑顔を向け、明良に頭を下げてまた走り去ってしまった。

「何なんだよいきなり」

俺は何がなんだかわからずに走り去っていく深雪の後ろ姿を見ていた。

「楽しい高校生活になりそうだな」

その横で雄三が笑っていた。

安藤深雪は俺の家の真裏の家に住んでいる同い年の女の子で、丁度二人の家を境に校区が違う為、小学校も中学校も別で、高校で初めて同じ学校に通うことになった。


式が終わり、クラス替えが発表され、俺は4組、雄三と深雪は3組になった。それぞれ担任の教師から挨拶やこれからの学校生活の説明が一通りあり、解散となった。

同じクラスには中学からの同級生もいて、解散した後もいろいろと話をしていた。雄三は柔道部の見学に行くと言っていたが、俺は相変わらずそれほど部活動に専念するつもりもなく、中学校で所属していた吹奏楽部に入るつもりでいた。勿論、中学の時同様に帰宅専門。なので見学に行く必要もなくまっすぐ校門に向かった。

「天空!」

深雪から声をかけられた。

「部活の見学に行かないの?」

「ああ、俺吹奏楽部に決めてるし」

「でも帰宅部でしょ?」

「当たり前」

「ねえ、一緒に見学していこうよ。せっかく高校生になったんだし、何か新しいこと」

「深雪、俺には俺の高校生活の過ごし方ってのがある。言ってる意味、わかるだろ?」

「・・・わかった」

「ごめん。だけど、深雪と一緒の高校に通えて嬉しいよ」

俺は深雪の頭を撫でて言った。深雪は無理して笑っているかのような笑顔で俺を見た。

「じゃあな」

俺は深雪の態度が今までと何か違うと感じてはいるものの、それを深く考えないようにした。それを考えてしまうときっと今までの二人の関係が崩れていくような気がしたからだ。

それから数日、俺は何の問題もなく高校生活を続けていた。


5月も近づいたある日の放課後、俺はクラスメートに頼まれて担任の榊にプリントを持っていくことになった。榊は軽音部の顧問だったようで、職員室にはいなかったので、榊の机の上にプリントを置き、その事を告げる為に軽音部の部室に向かった。

その日も天気が良く、雲一つない青空が広がっていた。その空を眺めながら歩いていると、どこからか澄んだ歌声が聞こえてきた。その声の魅力にとり憑かれたように俺はふらふらとその声の方向へ歩いて行った。ふとその声が途切れたが、その時には既にその声の主がいる、軽音部の部室の前にいた。

そこまで来て、我に返った俺は自分が一体何をしているのかわからずにその部室の前で呆然と立ち尽くしてしまった。その時、突然部室のドアが開いた。咄嗟に反応できずそのドアに顔面を打ち付ける形になり、無様にも後ろ向きに倒れてしまった。

「ちょ、ちょっと・・・だ、大丈夫?ちょ、え~?どうしよう、ねえ!みんな!」

そのドアを開けた女の子はどうする事もできずに中にいた部員に声をかけた。これ以上無様な格好は見せられない、俺は片手で顔を抑えて立ち上がった。

「だ、大丈夫です」

「で、でも私かなり思い切り開けたよね」

その時にはその子を含めて5人の男女がいた。

「本当に大丈夫です」

とその5人から顔を反らした瞬間熱いものが俺の鼻の下をつたってきた。俺は咄嗟に左手で鼻を抑えた。やばい!けど、ここをこのまま立ち去ることも不自然だし。

「あっ!」

「え?」

一人の女の子が大声で言ったのでみんながそちらを向いた。

「榊でしょ!」

「え?あ」

「この子、榊んとこ連れていくから後はよろしく」

「おい!かな!」

みんなが困惑する中、彼女は俺の手を取ってその場を離れた。すごく自然に俺の右手を握って走る彼女に俺は何も言えずに連れられて行くしかなかった。でも、どうして彼女は俺が榊を探している事がわかったんだろう。

彼女は体育館まで来ると、裏に声をかけた。

「誰かいる?」

「え?」

「大丈夫みたいね。ここで待ってて」

彼女は俺を体育館裏に置いて、走って行ってしまった。俺はどうしていいかわからずに鼻を抑えている手を放そうとしたが、どうやら血が固まったようで手が放れない。まじかよ!かと言って無理やりはがすと大変なことになりそうだし、何で俺がこんな目に合わなきゃいけないんだよ、さかき~、恨むぜ。などと、何の罪もない榊に怒りをぶつけている間に誰かが走ってくる足音がした。俺にはその時、その足音の主が彼女だって事がわかったんだ、どうしてだろう。

「ほら、手を放して」

彼女はかなり息を切らしている。俺の為にこんなに走ってくれたのか?ていうか、榊は?

「鼻血出てるんだよね、手を放して」

「え?」

彼女は最初から俺が鼻血を出している事に気づいてあの場から俺を連れ出す為に嘘をついてここに?

「あの・・・放れないんだけど・・・」

俺は恥ずかしいのを必死で我慢して彼女にそう言った。彼女は一瞬目を丸くして驚いたが、すぐに

「あははははは。ご、ごめ、ごめんなさい。笑っちゃいけないのはわかるんだけど、はははは、ごめ、」

とお腹を抱えて笑い出した。彼女は本当に笑いが止まらないみたいで、俺に濡れたティッシュを差し出して、まだ笑い続けていた。

俺はティッシュを受け取り、固まっている鼻血を溶かし、手から放して鼻の廻りを拭いた。

「はい」

彼女は乾いているティッシュも渡してくれた。もう笑いは収まったみたいだ。

「あの・・・もう大丈夫、です、ありがとう、ございました」

俺はようやく彼女の前にまともに顔をさらけ出す事ができた。そして彼女の顔をちゃんと見る余裕ができた。

「そう、良かった。ほんと災難だったわね」

と微笑んだ。彼女はストレートの黒髪を丁度肩の辺りまで伸ばしていて、目はそんなに大きくはなく、笑うと口が大きくなるどこにでもいる普通の女の子という感じだった。ただ、黒髪のせいだろうか、茶色の目が印象的だった。

「で、うちの部室に何の用だったの?」

「あっ、そうだ。榊先生に用があって」

彼女はまた驚いて目を丸くして笑った後

「なんだ、本当に榊に用だったんだ。良かった~、私嘘ついた事になんなくて」

と俺を見て微笑んだ。

でも、部室の前に立っていた本当の理由は違う。歌声、そう、俺は歌声に惹かれて・・・彼女の声。

「あの!」

「はい?」

「さっきまで唱っていたのって・・・もしかして」

「あちゃ、聞こえた?ったく、軽音部の部室なのに外に音が洩れちゃ意味がないんだよね。榊にも言ってんだけどな」

「で?」

「ああ、えーと、そう、私」

少し恥ずかしそうに下を向いて彼女は言った。俺はそんな彼女の仕草を可愛いと思う反面、彼女の目を見れない事が残念だった。え?え?可愛い?残念?え?

「そうだ!榊に用なんだよね」

「え?」

彼女は立ち上がると、また何のためらいもなく俺の手をとった。

「あっ、ごめん。なんか、さっき自然に手を繋いでたからつい・・・」

彼女は俺の手を離してまた下を向いてしまった。こんなに恥ずかしがる彼女が軽音部でボーカルを?

「いいえ。でも榊先生はどこに?」

彼女はパッと顔を上げて、悪戯をする子供のように嬉しそうに笑って言った。

「秘密の場所」

「え?」

彼女は軽い身のこなしでスカートをひるがえして

「ついてきて。特別に教えてあげるわ」

とまた微笑んだ。

俺は言われるがまま彼女について歩いた。そう言えば俺は彼女の名前を聞いていないし、彼女が何年生で・・・ああ、校章が赤だ。っていう事は3年生か・・・、そして俺も何者であるか教えていない、なのに・・・秘密の場所を教えてくれるという。一体どうなってるんだ?

彼女は温室のある場所まで来て、振り返ると俺を手招きした。この学校に温室がある事自体俺は知らなかった。

彼女はゆっくりとその中へ入る。俺も続いて中へ入った。入った瞬間、体が暖かさに包まれた。

彼女について歩いていくと一番奥に男の足らしきものが見えた。

「やっぱりここにいた」

彼女は嬉しそうに俺に向かって頷いて、その足に近づいて行った。俺も後に続くとそこにいたのは担任の榊涼二・・・、が眠っている。

「榊、起きて」

彼女は慣れた感じで榊先生の耳元で囁いた。俺は少し胸がムカムカする感じを覚えた。

「ん?もうちょい」

榊先生は寝返りをうちながらそう言った。

「駄目よ、生徒さんが来てるんだから。えーと、名前は」

「里村です。里村天空」

「さとむら?」

俺はこんな形で彼女に名前を言いたくなかった。これじゃあ彼女の名前が聞けない。

「さとむら!って、お前なんで」

榊はようやく事の重大さに気がついたらしく飛び起きた。

「おはよ、榊」

彼女は榊に笑いかけた。俺に対する笑顔とは違う、親しみを込めた慣れた感じの笑顔だ。

「勘弁してくれよ、かな。この場所に俺がいるって事はお前しか知らないんだ。他の生徒に教えるなんてどうかしてるぞ」

榊は短く切った、たわしみたいな髪を右手で何度もなでながら眠そうな顔をして彼女に言った。

「この子は大丈夫よ。他の子に話したりしないわよ」

「はあ、ったく」

榊は大きくため息を吐いて、かなと呼ばれた彼女を睨みつけた。彼女はそんな榊を見て、それから俺を見て、笑った。

この2人は一体どういう関係なんだ?単なる生徒と先生にはどう見ても見えない。どちらかと言えば恋人同士、そんな雰囲気だ。でも

「で、里村は何の用事だ?」

俺の思考を遮るように榊が言った。

「あっ、えーと、相場からアンケート用紙を集めたものを先生に渡してくれって言われて、それを職員室の机の上に置いたのでそれを伝えておこうかと」

「ああそれね。わかった。で、今何時だ?」

「もうすぐ17時」

彼女が答えた。

「やべえなあ、もうそろそろ職員室に戻んなきゃ」

榊は大きく伸びと欠伸をすると、彼女に

「で、お前は部室に戻る。いいな」

と言った。お前という言い方が慣れている、いや、それだけじゃない。

「はいはい」

「で、里村は下校。で、ここの事は忘れて、誰にも何も言わない。いいな」

「・・・はい」

「じゃ、俺は行く」

榊は上着を持って、温室を出て行った。俺はその後姿を見ながら様様な事を考えていた。しかし、その思考は彼女の言葉で遮られた。

「さとむら、そら君?」

「え?」

「あれ?違った?」

「あっ、いえ、あってます。さとむらそら、そらは天空って書くんです」

俺は自分の気取った名前が嫌いだったはずなのに、気がつくと彼女に漢字まで説明している。

「天空って書いてそら・・・いい名前」

「いえ・・・」

彼女にそう言われて、俺は照れくさかった。誰に呼ばれるよりも彼女に呼ばれる《そら》という響きがたまならく照れくさくて

「かな・・・さん?」

「そうだ。自己紹介がまだだった。私、さわむらかな、かなは菜の花の逆よ。で、3年」

「沢村花菜さん」

「じゃあ行こうか。あんまりここにいると榊が・・・榊先生が」

「いいですよ。もう、聞きなれたし・・・」

「そっか。・・・あっ、ここの事、内緒にしておいてね。榊の安住の地だから」

そう言って、彼女は歩き出した。俺はこの二言の彼女の声のトーンが他とは違って暗いことに気がついた。

「沢村さん、榊先生とは」

「義理の兄妹」

「え?」

「榊は私の姉の旦那様」

彼女は振り返らずにそう言った。俺はその悲しそうな彼女の声、そして背中を見た時、彼女が榊に惚れている事に気がついた。そして、榊も彼女を・・・、そして俺も彼女を・・・。この世の中に一目惚れなんてないと思っていた。そして教師を含めた三角関係なんて有り得ないと。

その日、俺は眠れなかった。彼女のあの茶色の目が忘れられなかった。それでも、まだ自分が彼女に一目惚れした事も信じられなかった。彼女は一目惚れする程特別可愛いわけではない、むしろ深雪の方が可愛いのかもしれない。中身?いや、短時間で中身がわかるほどの会話だってしていない。歌声・・・確かに俺は歌声に惹かれて部室の前まで行った。だけど、それだけで好きになるのだろうか・・・、わからない。だけど、俺は間違いなく榊に嫉妬していた。それは2人の仲にただらないものを感じたからだ。それが好きだという感情なのだとしたら、やっぱり俺は彼女を・・・でも。

「あ~~~、堂堂巡りだ」

軽音部、そこに入れば全ての謎は解ける気がする。今からでも間に合うなら軽音部に入ろう。


翌日、俺は軽音部の部室の前にいた。榊とは会ったがどうしても話す気にならず、直接交渉に来たのだ。

俺は前回のようにならない為に、ドアの横に立ち、ノックした。しばらくしてからドアが開いて、この間俺にドアをぶつけた女の子が現れた。

「あれ?昨日の」

「一年の里村と言います。あの、5月になっちゃったんですけど、今から入部する事ってできますか?」

「え?ちょ、ちょっと待って、私に言われても困るんだけど・・・ねえ!正樹!」

その女の子は奥に声をかけて、それから長髪茶髪のいかにもバンドマンという男が出てきた。こいつは昨日いなかった。

「この子、一年で、入部希望者なんだって、どうする?」

「どうする?って・・・もう駄目だと思うよ」

「だよね」

「あの」

「入部に関しては榊先生に任せる事になってるの」

女の子が申し訳ないという感じで言った。俺は仕方ないので引き返そうとしたが、本当は直接部室に来たのには他には訳があって・・・彼女に会えないかと期待していたところもある。でもいないみたいで、後ろ髪引かれる思いがした。

「里村君?」

「え?」

いきなり声をかけられてびっくりした。

そこにいたのは同じクラスのあまり目立たない感じの、っていうか実は存在は知っていながらも名前まではまだ覚えていないクラスメートがいた。

「あっ、すいません同じクラスなもので」

彼女は本当に普通の女の子で、というよりもこうして改めて見るとどちらかと言えば暗い印象しかない女の子で、バンドというものとは無縁な感じなのにどうしてここにいるのだろう。

「あ~」

名前が思い出せない。

「盛岡よ、覚えてなくても驚かないわ。基本的に里村君は他人に興味ないタイプだろうし、私なんてもっと興味なかったでしょうから」

「そう」

「軽音部ってオーディションやったの知ってる?」

「え?」

「里村君、多分、っていうか絶対新入生勧誘イベント見てないでしょ」

「し、しん」

「新入生勧誘イベント。いろんな部が新入生を勧誘する為にする催し物。そこで先輩達が演奏したものを見た入部希望者が殺到したらしいの。で、そんなミーハーな新入生を一掃する為に榊先生が急遽オーディションをして、ことごとく落とされて、残ったのが私だけって事。里村君って何かやってたの?」

「え?えーと」

何もやった事ないぞ。吹奏楽だってずっと帰宅部で正直楽器に触ったこともない。触りたいと思った事は何度もあるけど・・・でも何だか抵抗があった・・・。

「里村君?」

「え?あっ・・・楽器ね・・・」

「初心者か・・・確実に駄目だと思うなあ」

マジで?

「あれ?里村天空君?」

こ、この声は・・・き、緊張して振り向けない。

「やっぱり!どうしたの?また榊に用事?」

「沢村先輩!」

「え?」

「あー!花菜さんだ!」

俺が何かを答える前に彼女の周りには人が集まってきてしまい。俺は何も言えないままその場に立ち尽くしてしまっていた。

「今日も唄ってくれるんですか?」

「受験勉強は大丈夫なんですか?」

などなど矢継ぎ早に繰り出される質問。彼女はその一つ一つに丁寧に答えている。

「おいおい、お前ら俺の存在忘れてんじゃねえか」

その後ろから男が声を出した。

「町田さん!」

「おう!」

町田と呼ばれた男はこの前この部室にいて、彼女を呼びすてにしていた。と思う男だ。バンドをやっている奴って不健康そうな奴が多いという俺の予想と違って、そいつは体育会系な体型で、雄三みたいな感じだ。

「町田さんもやるんですか?」

「ああ、花菜が唄うときは俺がギター弾かなきゃのらないだろ」

「確かに聡じゃ役不足だわ」

などとすっかり俺は蚊帳の外という感じですっかりバンド談義になり、会話に入っていけない。どうしていいかわからずにいると、俺の制服の裾がひっぱられる感じがして、見ると、誰かが俺の制服の裾を・・・って彼女だ!

彼女は俺を見て意味ありげに微笑んだ。

「唄おうと思って来たけど、用事を思い出したわ。後でまた来るから」

「えー?」

「ちょ、花菜!」

「ごめん、康司、先に練習しといて」

彼女はその体育会系の男にそう言って、さっさとそこから走り去ってしまった。俺はさっきの意味ありげな微笑がまたもや俺をここから逃すための合図だったのかも、と期待しつつ

「じゃあ、俺も榊先生に直接話をするので、この辺で」

と言いつつ、その場を離れた。で、全速力で彼女が去った方向へ走った。

待っていてくれる事などそれほど期待していなかったが、校舎へ向かう角を曲がった瞬間、彼女の黒髪が見えた。

「わかった?」

彼女はまたいたずらっぽく笑って俺を見た。

「なんとなくですけど」

「良かった。私はいつまでここで待てばいいのかと思っちゃったわ」

と彼女は独り言のように言った。

「で、部室にいたのは何で?」

「え?あ~」

俺はさっきの盛岡の話で軽音部には入れないかもという事と、実は彼女に逢いたいと思っていた事との両方で何も言えなかった。

「何?はっきりしないなあ」

彼女は俺の顔を覗き込んだ。彼女の身長はたぶん155cmくらいで、俺の身長が175cm、その差は20㎝くらいあるので、本当に下から覗き込まれるという感じだった。そしてその目は昨日一度見て忘れられなかった、あの茶色の目。俺はその目に見られると恥ずかしくて目をそむけてしまった。

「おやおや?何で目をそむけるかなあ、やましいことでもあるの?」

「そんな!そんなことありませんよ」

俺はむきになって彼女を見た。彼女は俺の剣幕に少し驚いたように体をひいた。

「あっ、すいません」

「いいのよ。私もつっこみすぎたかも」

彼女は反省して後ろを向いてしまった。

「違うんです。えーと」

俺は彼女への誤解を解きたかったので思い切って言ってみた。

「軽音部に入りたくて」

「え?」

彼女は目を大きく開いて俺を見た。だから、その瞳は苦手なんだって。

「入部希望だったの?」

「はい」

「そう、だったんだ・・・この時期に」

「はい、この時期に。しかもさっき盛岡からオーディションがあるって聞いて・・・」

「里村君は唄えるの?それとも何か弾ける?」

「いやあ、それが全く・・・」

呆れられるのを覚悟で言った。

「唄えないし、弾けないのに軽音部?」

「はい・・・。」

俺は恥ずかしくて全く彼女の顔を見ることができない。

「全くの初心者か・・・それは難しいかもね」

「ですよね」

「盛岡さんに聞いたんだったらわかってると思うけど、今年も入部希望者が多くて榊がオーディションでかなりっていうか、30分の1削ったくらいなんだよね。勿論その削った29人の中には経験者で、できる人もいたわけよ」

「30人・・・」

俺はせいぜいいても15人くらいだと思っていたのでその数字に少なからず驚き、そして現実に絶望した。

「驚いた?」

「ええ、そして諦めました」

「そもそも、どうしてその初心者である君がどうしてこの時期に軽音部に入ろうと思ったわけ?」

まさか、こればっかりはあなたと一緒にいたいからなどと正直に言えるわけもなく、俺はまた黙り込んでしまった。

「事情あり?」

彼女は深刻そうに言った。

そんな彼女に俺は申し訳ない気持ちで一杯だった。こんな不純な動機なのに、深刻になってくれるなんて。

「いえ・・・いいです」

俺はそう言うとその場を立ち去ろうとした。これ以上彼女といても辛いだけだ。

「推薦枠が残ってるけど」

「え?」

「現役部員の推薦があればオーディションは免除されるわ」

「え?」

俺は彼女の言っている言葉の意味がわからずにそればかりを繰り返した。

「だから、私が里村君を部員に推薦するわ」

「ちょ、ちょっと待ってください」

「何?」

「何?って、だって俺、初心者ですよ。っつうか何もできないし!そんな奴を推薦したりしたら沢村さんに迷惑がかかる。俺はあなたに迷惑なんてかけたくない!」

「だったら迷惑かけなきゃいいんじゃないかな」

「え?」

「ちゃんと、真面目にやって上達すればいいわけ。できるかできないかなんて問題じゃないわ」

「だって」

「言ったでしょ。その落とされた29人の中にはできる人もいたって。でも落とされてる。要は、ハートの問題だってこと」

と彼女は自分の胸を叩いた。小さい胸だ、Aカップ・・・ってよこしまな考えしてる場合じゃないだろ!

「ハートって・・・」

「音楽は好き?」

「は、はい」

「だったら大丈夫!」

彼女はようやくそこでいつもみたいに笑った。

でもよくよく考えたら、彼女は3年生だからもう部活には来ないし、来年には卒業。俺がそこまでして軽音部に入る必要あるのか?

「あ、あのう」

「何?」

「やっぱり俺・・・」

「天空?」

「へ?」

声のした方向を見るとそこには深雪が立っていた。ついでに言うと同級生と一緒に。

「深雪!」

俺はいたずらを見つかった子供のようにびくついてしまった。何もやましいことはない!ないはずなのに、深雪の顔ときたら完全に俺を睨みつけている。この目のせいで俺はびくついてしまったのだ。

「何してんの?」

「何って・・・お前に関係ないだろ!」

俺は必要以上に深雪にきつい口調で言った。それは彼女、つまり沢村さんに誤解されたくない、それだけだったのだが、これが逆効果。

深雪は完全に泣きそうな顔をして

「何よ!何してるのって聞いただけじゃない!」

と言って走り去ってしまった。ああ、もう滅茶苦茶。沢村さんの顔が見られない。

「えー、俺、行きます、すいません」

俺は沢村さんの顔を見ずにその場から走り去った。勿論深雪とは逆方向。でも確実に誤解された気がする、もう彼女に合わせる顔がない。

それからの俺と言えば、深雪の顔を見ると何だか複雑だし、沢村さんには合わせる顔がない、というのとで殆ど教室から出ないし、帰りもそそくさと帰り支度をして帰る毎日。

そんなこんなで1ヶ月。軽音部の話もあれっきりだし・・・本当に俺って沢村さんから見て無責任な男だ。あ~も~、それもこれも深雪のせいだ!何なんだよあいつは。

季節はすっかり梅雨。俺の気分もすっかり梅雨。で、そんな時は青空好きな明良の機嫌も悪くなり、最悪が続く。

そんな俺の気分を吹き飛ばしたのはれいによってれいのごとく雄三の元気な声だった。

「天空!」

雄三は俺の教室に来て俺の目の前にしゃがんだ。

「何だよ、雄三」

俺は椅子に腰掛けたまま気だるそうに言った。

「最近、深雪と何かあっただろ?」

「は?」

「いやあ、あいつずっと元気なくてさあ。事情を聞いたらお前が原因だって言うじゃないか」

「わけわかんねえ」

「とにかく俺達は幼馴染みなわけだから、これからも仲良くやっていきたいだろ。何かあるなら俺に相談しろって」

「相談することなんてねえよ」

俺はそう言って帰り支度を始めた。

「天空!」

雄三のその声と彼女の名前が聞こえたのはほぼ同時だった。

「沢村先輩が出るの?」

俺はすごい勢いでその声の方を向いた。同じクラスの女子が盛岡に話し掛けていた。そうだ!そう言えば盛岡は軽音楽部なんだ。

「うん」

「行きたい!それって誰でも行けるの?」

俺も聞きたい質問だ。っていうか何の話だよ!

「天空ってば聞いてんのかよ」

「うるさい!今大事な話してんだよ」

「はあ?」

その声で、その女子と盛岡が同時に振り向いた。

「えーと、も、盛岡!その話詳しく教えてくれないか?」

「い、いいけど」

盛岡の話では今日、吉祥寺のライブハウスで3組のアマチュアバンドが演奏するらしい。そして、そのうちの一組のバンドのボーカルが沢村さんがだということだ。俺は逢うことはできないけど、もう一度、いや、何度でも彼女の姿、そして歌声を聞きたいと思った。

「雄三!」

「は?」

「お前、今日部活何時まで?」

「6時だけど」

「したらそれから俺に付き合ってくれ」

「え?お前まさか」

「ああ、吉祥寺にライブを見に行く!」

「あのなあ、俺はそんなのに」

「いいから!頼むよ!俺の切実なお願いなんだ」

たぶん、俺はその時、本当に真剣な目をしていたに違いない。雄三はしばらく俺の目を見たかと思うと

「わかったよ」

と言った。

「ありがと雄三」

俺は今まで自分が息を止めていたのだと初めてわかるほど息を吐き出して安堵した。

それからの俺は家に帰ってから何を着ようか、もし彼女が俺に気づいたらどんな風にすればいいかとか、とにかく頭の中が彼女一色になって何も手につかないどころかいろんな事に手をつけては落ち着かずに止め、また手をつけては止めをくりかえした。

そして仕事から帰宅した明良に外出することを告げた。が、その理由は雄三の家で勉強するって事、勿論嘘だった。

どうしてか俺の中では明良にバンドの話をするのを躊躇う気持ちがある。それはたぶん、俺の父親が原因だ。明良はもう気にはしていないと言っているが、俺の父親は音楽の為に明良と俺を捨てた。明良はそれが明良自身が望んだ事だと言ったが、嘘だ。そう言う事で俺が父親を憎まないようにしようとしている。でも俺は許せなかった。どんな理由があれ妻とまだ3歳だった俺を捨てて音楽へと走った奴を俺は今でも許せない。それが俺が音楽に関することを一切しないという気持ちの理由だ。そいつの血をひいている以上、音楽に興味を持たないなんてことは今の今まで一度もなかった。でも俺はずっとその気持ちから目をそらし続けてきた。そいつへの憎しみ、そして明良への俺なりの配慮のつもりだった。それが、彼女、沢村花菜の歌声を聞いてからというもの、俺の中で少しずつ何かが変わってきている。でもやはり明良には話せない。

そんなことを考えていると雄三との約束の時間になり、俺は慌ててさっき決めた服に着替えて家を出た。明良の顔はやはりまともに見られなかった。

雄三はよれよれの白のシャツにチノパンという、およそライブハウスに行く服装ではないだろう格好で駅の改札にいた。

俺は・・・と言えばやはり黒のシャツにジーンズという普通の格好である。

「何だよ、何でお前そんな格好なんだよ」

俺は開口一番雄三に文句を言った。

「お前こそ普通だろう。それに俺は部活を早退してまでお前に付き合ってんだぞ、文句言われる筋合いじゃねえよ。っつうか、何で家が近いのに待ち合わせが駅なんだよ」

と逆に文句を言われた。

「明良に知られたくないんだよ」

雄三は黙ってしまった。雄三は今更事情を思い出したという感じだ。

「だったら何でライブハウスなんて行くんだよ。お前今までそういうのとは縁を持たないようにしてきたんじゃねえのかよ」

俺は黙って歩き出した。

「沢村花菜」

雄三は電車に乗った俺に向かって彼女の名前を言った。

「気安く呼ぶな」

「お前の何なんだよ」

「何でもねえよ」

「天空!」

「本当に何でもねえんだよ。まだわからないんだよ・・・」

俺はドアの外の景色に目をやってそう言った。それが正直な気持ちだった。

「天空、惚れたのか?」

「・・・たぶんな」

「そっか・・・」

それから先は雄三は何も聞かずにいてくれた。

ライブハウスはけっこう賑やかなところにあり、上はカラオケになっている地下にあった。それなりの格好をした若者、それから渋い感じの親父達が数人ライブハウスの前にいた。

俺達はすっかり場違いな感じでどうしていいかわからずにその場に立っていた。

「いたいた!」

そこには制服姿とは全然違って、原色のぴったりとした長袖のTシャツに黒のぴったりとしたパンツをはいて別人かと思うほどにおしゃれをし、化粧をした盛岡がいた。

俺達は目をぱちくりとさせ彼女を凝視した。

「何よ!そんなに驚くことないでしょ」

「だって、なあ!」

俺達は2人してそう言った。

「もういいから!行くよ。いい場所とれないじゃん」

盛岡はそう言ってさっさと地下に降りていき、チケットを3人分渡してライブハウスの中へ入った。そこは薄暗く、埃っぽかったのだが、数人の若者、親父達で賑わっていた。俺はこんな所に入るのは生まれて初めてだったので必要以上に緊張してしまっていて、キョロキョロ辺りを見回していた。勿論雄三もだ。

「ちょっとー、あんた達恥ずかしいからやめてくれない?初心者丸出しじゃない」

盛岡が恥ずかしそうに小声で言って、俺達の体をつついた。

「いやあ、でもさあ」

俺達はそれでもなおキョロキョロする事を止められなかった。そして盛岡のおかげでけっこう前の位置をとることができた。俺はライブハウスはコンサート会場みたいに思っていたのでちゃんと椅子があるのかと思ったが、そうではなかった。

「先輩はラストだから」

盛岡がそう言った途端、いきなり真っ暗になり、戸惑う間もなくいきなりドラムの音が鳴り、俺は空腹にものすごい衝撃を感じた。それにギター、ベース、そしてボーカル。そして廻りの奴らの声、その雰囲気にすっかり飲まれてしまっていた。俺は盛岡のように盛り上がることはできず、ただただその圧倒的な雰囲気に呆然としていた。そしてその音楽、ライブの魅力に自分が少しずつ惹かれていくのがわかった。危険だと感じる暇もなく、俺はライブに魅了され、恋をした。

一組のバンドが5曲ずつ演奏していくシステムのようで二組目の4曲目の時に一気に客が増えたように思えた。それほど次の沢村さんのバンドは人気があるという事だ。5曲目の演奏が終わった頃には俺は後ろからかなり押されていて、正直腹立たしい気持ちになっていた。

「仕方ないよ。次のバンド人気あるから」

盛岡も押されるのに耐えながらそう言った。

そう、その盛岡の言葉が間違いじゃないと俺自身が感じるほどの演奏が始まった。素人の俺から見ても今までのバンドなんて比じゃない。ドラムはものすごいスピードでリズムを刻み、ギターのテクニックだって並じゃない、指が5本だとは思えない。その中で俺が一番に目と耳に惹きつけられたのはベースだった。普通はベースなんて音が聞こえない程度で、淡々とリズムを弾いてるイメージだったのに、このバンドのベースはドラムのリズムを崩さない程度にオリジナルなリズムを刻んでいるのだ。何故か俺にはそれが聞こえた。

このバンド自体、今までの二組のバンドメンバーとは違い、年齢層が高いのにも驚いた。ベースを弾いている男は30代半ばという感じで、その人はとても楽しげにベースを弾いていた。

他のメンバーみたいに目に見えてという感じではなく、見た目はとてもクールで自分の手元しか見ていないし、顔を上げる時はメンバーと目配せする時くらいなものだ。それでも俺はそのベースの奴がとても楽しそうに演奏しているように思えた。

そんな事を考えていると、音全体が強く変わって彼女が出てきた。

彼女はあの時部室で聞いた声とは全く違う低音を響かせてスピードの速いロックを唄っていた。

気がつくと彼女が現れてからというもの、客もテンションが上がって俺はかなり前に押し出されていた。

それでも彼女を見たくて顔を上げると、いつもの制服ノーメイクとは別人のような彼女が汗を流して唄っていた。彼女が動くたびにライトに照らされた黒髪が妖しく光る。そしてその黒髪に合わせているのかどうか、メイクも黒で、彼女の目が別人のようだ・・・。

彼女に見とれてしまって、俺は他の客のように声を出したり飛び跳ねたりすることを忘れてしまっていた。

2曲目、3曲目、彼女は倒れてしまうのではないかと思えるくらい全力で客にメッセージを伝えようと汗をかいて動き回って唄っている。バックバンドの音だって今までとは比べ物にならないくらい大きいのに、彼女の声は気持ちいいくらいに通る、素人の俺から見てもすごい声量だ。。

4曲目かと思ったその時、

「ありがとう。今回またクラウディアの演奏で歌を唄える幸せを、今、かみ締めています」

彼女がメンバー全員に目を向け、そして息を切らし、少しかすれた声で客にそう言った。客は大盛り上がりで彼女の名、花菜を連発している。俺も言いたかったが、照れくさいのと同じにされたくないのとで何も言えなかった。

「クラウディアは素敵なバンドです。これからもよろしくお願いします」

彼女はそう言って頭を下げ、何故かベースの男と目を合わせた。その視線がとても意味ありげで俺はまた嫉妬してしまった。榊といいこの男といい、何で俺は彼女に関る男達に嫉妬ばかりしてしまうのだろう。全く余裕がない。そんな風に思って下を向いていると、ベースの音が聞こえた。え?ベースで始まる曲なんて聴いたことない。これって・・・その曲はとてもスローで、素人の俺にもバラードだとわかる。だけど、ベースメインの曲なんて聴いたことないぞ。

彼女はライトに照らされて、マイクを両手でしっかりと握り、一旦うつむいたかと思うと、ゆっくりと顔を上げ、今までの低音とは全く違う透明な高音で唄いだした。この声・・・最初に俺が惹かれた声だ。とてもさっきまで唄っていた同一人物から発せられる声だとは思えない。

途中でギターも入ってきたが、この曲はベースが基本となっている曲のようで、普段聴くどんなバラードとも違う、とても柔らかい感じがする曲で、失ってしまった恋人の存在の大きさに気づき、もう一度それを取り戻したいと願う女性の心情を唄った詩のようだ。一体誰を思い浮かべて彼女は唄っているのだろうか・・・、榊だろうか・・・。俺は胸が苦しくなってきた。この曲を歌う彼女はとても大人っぽくて、美しい。今までは一度も思った事がないのに、何故、今、そう思うのだろう。それは誰かに恋こがれる女性の美しさ、なのだろうか・・・だとしたらそれほどまでに榊を・・・。

そんな風に感じているとその曲が終わり。客からはため息がこぼれていた。それ程彼女が聴かせていたのだろう。鼻水をすする音もするって事は泣いている人もいるって事だよな。

「この曲は大好き・・・。でも湿っぽく終わるのもなんだから最後は盛り上がる曲でしめようね!」

彼女はさっきとはうってかわって明るい表情になり。今度はポップな感じのノリのいい曲を歌っている。それまでの大人っぽさとはうって変わって、高校生である等身大の彼女に見える。

それにしても、このクラウディアというバンドはジャンルを問わず幅広い曲を演奏できるバンドなんだな。それに、さっきのベースの男・・・何だか気になる。

「みんなありがと!また逢おう!」

と彼女は客にそう言って頭を下げ、クラウディアのメンバー達にも頭を下げて、そこから去って行った。でもいつまでも拍手とアンコールの声が鳴り止まなかった。

「さすがよね」

盛岡は汗だくで、顔を真っ赤にして興奮冷めやらぬ感じで放心状態。

「だな」

「クラウディアってこういう小さなライブハウスに出るって宣伝しちゃうとかなりお客が入るからシークレットになってるんだよね。だから沢村先輩がメンバーに入らなきゃ私だって聴けなかった。それにしても沢村先輩、クラウディアに入っても全然レベルの差を感じさせないなんてすごい!」

「沢村先輩ってクラウディアのメンバーなのか?」

「うん、まだなったばかりで、これが2度目のライブらしいけど」

「それまでボーカルは誰だったの?」

「コウよ」

「コウ?」

「あっ!そうか、里村君達クラウディアのメンバー知らないのよね。コウって、あのベース弾いていた人」

「ベース?」

あいつだ!あいつがボーカル?

「コウって名前?」

「クラウディアは基本的にニックネームだけど、たぶん名前の方だと思うよ。ってどうしたの?沢村先輩よりもコウの方が気になったの?」

俺は余程必死な表情だったのだろう、盛岡にそう言われてハッとした。

「いや、別に・・・」

おっと、雄三は・・・と雄三を見るとこれまた放心状態。

「ゆ、雄三?」

「すげえな、すげえな、あの人って俺と同じ高校生なのか?っていうか、同じ高校にあんな人いたっけ?」

「ああ、いつもと雰囲気が全然違うけど、間違いなくうちの高校の先輩だよ」

「すげえ、お前が惚れるのもわかる気がする・・・」

「え?」

「ちょ、ちょ、お前!何言って!」

「ふ~ん、だと思ったけど、高嶺の花だと思うよ。沢村先輩って、見た目も化粧すればあれくらいは綺麗になる人だし、音楽の才能あるから人気あるしね。勿論アーティストとしての人気が殆どだけど、性格もサバサバしてて普通の女子高生としても人気あると思う」

「知ってるよ・・・、だから別に俺は・・・」

俺は・・・どうしたいんだ?

「ごめん、俺トイレ行ってくる」

彼女は人気がある。それは今日、嫌っていう程思い知らされた。高嶺の花、一度か二度話したくらいの俺が何とかできる存在じゃないのかもしれない。でも、俺は・・・。

俺はふらふらと考え事をしながら歩いていたせいだろうか、トイレと間違えて楽屋のドアを開けようとしてしまったらしく

「ここ関係者以外立ち入り禁止だよ」

とスタッフに言われてしまい。

「すいません」

と謝って行こうとした時、そのドアから長身の男が出てきた。

「さ、かき、先生?」

榊だった。俺は咄嗟に言葉が出なかった。榊も同じだったらしく、一瞬驚いた顔をした後、

「里村、お前」

「涼二!」

榊が何かを言おうとしたその瞬間、さっきのベースのコウ?とかいう奴が楽屋から出てきた。

「って、取り込み中?」

「いいえ、あの・・・」

榊は珍しく、というか何故か言いよどんでいた。

「誰?」

コウの声は意外と高めだった。しかも、関西訛りだ。不思議と、俺はその声と話し方を懐かしく思った。昔、聞いた事がある・・・しかも、コウの体型はいろんな部分が細く、長く見えるので身長は榊ほど高くないのかもしれないが、高く見える。頬がこけていて、少し影があるかっこいいという感じの男だった。この人はあの人に雰囲気が似ている・・・しかもコウって・・・。

「俺の・・・高校の生徒です」

「へえ、って事は花菜と同じか」

「はい・・・」

それにしても榊の様子がおかしい。

「軽音部?」

コウが俺に話し掛けた。その目は優しくて、話しかけ方が柔らかい。バンドなんてやっている人だからもっとつっけんどんな感じかと思っていたから、さっきの考えもあって俺は何故かどきどきした。

「いえ、俺は軽音部に入りそこなったっていうか」

「で、コウさん何ですか?」

「え?ああ、今度まちゃとかと飲みに行く話があるからそん時は予定あけといてって言い忘れた」

何だ?榊の奴、今わざと俺とこの人が話すのを邪魔するように話に入ってこなかったか?

何かおかしい。

「わかりました。じゃあ、俺達はこれで」

と言って、榊は俺の肩をだいて、コウに背を向けた。

「ちょっと待てよ」

俺は榊のわけのわからない態度に腹を立て、つい先生という事を忘れてしまった。

「何?」

榊がちょっと怒ってしまったのがわかった。

「いいえ、すいません。でもちょっと待ってください。ここまで来たなら少しくらい沢村さんに」

「沢村には明後日学校で逢えばいい」

「ええよ」

「え?」「え?」

俺と榊は同時に驚いて後ろを振り返ってコウを見た。

「せっかく来たんやし逢えば?俺が許可するし」

コウがまた優しい態度でそう言った。この人は何歳なんだろう、見た目は若く見えるけど、何だか不思議な落ち着きがある。

「でもコウさん」

「涼二、お前さっきから様子がおかしいで」

「いや・・・そんなことは」

「まさかこの子が花菜と」

「そんなんじゃないです!俺はコウさんにとって」

「俺?俺がどうしたんや?」

「いや、その・・・」

「おい!涼二!」

下を向いて黙ってしまった榊にコウが怒鳴った。今までのコウとは全然違う低い声、迫力があった。

「ちょっと、コウさん何大声だして」

花菜さんが出てきた。

「里村君?」

「里村君じゃない、どうしたの?あっ、そうか盛岡さんだ」

「さとむら?」

コウが俺をじっと見つめている。大きく見開かれたその目は真剣そのもので、俺は恥ずかしくて目を伏せてしまった。

「そう、里村天空君・・・って何よ、榊、紹介してあげなかったの?」

「さとむら、そら」

コウはまた呪文でも唱えるようにそう言って、俺を見つづけている。その大きく見開いた瞳がどんどん潤んでくる。何だ?

「そう、素敵な名前でしょ」

「あ、ああ、そうやな」

コウはようやく俺から視線を外した。だけど、明らかに態度がおかしい。さっきまでの榊みたいに何かまずいことに気づいてしまった、そんな感じの態度だ。

「じゃあ、コウさんの紹介は?」

「いや、まだ・・・」

榊はすっかり俺達から視線を外している。

「何だかおかしい。気まずいんだけど・・・空気」

さすがに花菜さんもおかしな空気に気がついたようだ。

「じゃあ、俺は」

コウはさっきまでの気さくさはかけらもなく、俺を見ようとしないまま楽屋へ引っ込んでしまった。

「何なの?榊」

「いや、何でもない。俺は先に帰る。里村、好きにしろ」

榊はそう言うと、さっさとその場を立ち去った。さっきまでは必死に俺をこの場から去らせようとしていたはずなのに、一体この変化は何だというんだ。

「何だかおかしいわね」

「ええ」

「で、ライブ見てくれたんでしょ?どうだった?」

「え?ああ、ええ、すごいです。」

気がつくと俺は彼女と2人きりになっていた。すごい、俺はあの沢村花菜と2人きりで話しているんだ。そう気づいた途端、何か急に緊張して手とか震えだしてきた。

「すごいって何が?」

「いやあ、演奏とか・・・沢村さんの声とか・・・。」

「ありがと。でも何だか里村君にそんなに照れながら言われると私まで照れちゃうなあ」

「あっ、すいません!でも本当に素敵で、俺、その・・・」

「久しぶりに会えて嬉しかったわ。来てくれてありがとう。じゃあ、また明後日学校でね」

俺が下を向いて何も言えなくなってしまったので、彼女は気を利かせてそう言ってくれて、そして楽屋へ引っ込んでしまった。

俺はその時、沢村さんに逢えた喜びで、コウと榊のあのおかしな態度について忘れていた。

それにしても、本当にすごいライブだった。俺は明良に申し訳ないと思いながらも音楽の世界の魅力にとりつかれてしまう自分を止めることができそうになかった。早速お金を貯めてベースを買いにいこう。そして練習して軽音部に入るんだ。俺はコウみたいなベーシストになりたい。

勿論この事は明良には内緒だ。



第2章   血の繋がり


「ベース買うの?」

放課後、俺はいろんな話を聞こうと勇気を出して花菜さんを屋上に呼び出した。

「はい、バイトをしてベースを買おうと思うんですけど、楽器店に見に行ってはみたものの、それこそ種類も多いし、値段もピンキリで、初心者としては一体いくらくらいのを買えばいいのかわからなくて」

「へえ、やる気になったわけだ」

彼女が嬉しそうに言った。

「まあ、この前のクラウディアのライブに刺激を受けてっていやあ、すごく単純な感じで勢いにまかせてるって思われても仕方ないんですけど」

「ううん、それって全然悪くないわよ。動機なんて何でもいいのよ。音楽をやりたいと思う事が大事。それが私達のライブだったなんて嬉しいわ」

「どうも」

「で、ベースなのは何で?やっぱりコウの影響?」

「はい」

「そうよね。だってバンドを聴きに来てベースをやろうって思うことってあまりないもの。クラウディアぐらいなもんよ、そんな風に思わせる事ができるなんて。そう考えるとコウってすごいよね」

「あのコウって人はどんな人なんですか?」

「そうねえ。私がクラウディアと接点を持ったのは榊にクラウディアのライブに連れて行かれた事からなの。初めてライブを見た時からコウの作る曲の魅力に惹かれたわ。当時、コウがボーカルだったから一緒にライブなんてできないと思ってて、だからそれから先の目標はコウに曲を作ってもらえるボーカリストになる事だった。だからコウについてはいろいろ調べたんだけど、あまりよくはわからなくて・・・。で、榊に聞いたの。榊、普段は何も話してくれないんだけど、一度酔った時にコウとの出会いを語ってくれて、その時に詳しい事も聞いてやろうと思って問いただしたの。コウって独身だと思っていたら若いときに一度結婚して子供もいるらしいの。でも、どうしても音楽の道を諦められなくて、それで、奥さんもコウのその気持ちに気づいて、話し合った結果、離れようって事になったんだって。で、その時2人で2通の離婚届にそれぞれ署名捺印して、お互い持っていて、どちらかが提出したくなったら提出する。そして連絡をするっていう約束をしたらしいの」

「それで?」

俺は自分の声が不自然にならないよう努めた。

「結局、2人はまだ離婚届を提出していないの、離れてからもう10年以上になると思うなあ。それってすごいよね。この前私が歌ったバラードはコウがその奥さんと子供を思って作った曲なんだって、素敵だよね」

「素敵?」

「うん」

「何が素敵なもんか・・・。」

俺はもう自分の感情をコントロールすることができなくなっていた。怒りで声が震えてしまっている。

「里村君?」

「素敵なもんか!音楽のために家族を捨てたわけだろ!その時その子供はまだ3歳だったんだぞ!」

俺は自分の右のこぶしをコンクリートの地面に打ちつけた。

「ちょ、ちょっと里村君!」

こぶしからは血が出ていた。彼女はただ驚いて俺の顔を見ている。

「離婚しなかったのが素敵?冗談じゃねえよ、そんなのただの勝手だ!離婚届さえ出してくれれば明良は自由になれたのに・・・」

「里村君?明良って・・・誰?」

「お袋だよ」

「え?」

彼女の顔がようやく真実に辿りついた表情になった。

「そう、コウの本名は里村弘毅こうき、俺のお袋、明良の夫であり、一応俺の父親だよ」

あの時、既に榊は事実を知っていた。俺が生徒になった時にコウの息子であることに気がついたんだろう、それを隠そうとした。そして、俺の里村天空という名前を知った時のコウのあの表情。あの瞳。あの瞳は一体何を意味していたのだろう。驚愕?後悔?懺悔?不安?嫌悪?・・・一体何なんだ。

ふと、俺の頬に触れる温かい手に気づいた。

彼女の手が俺の頬に触れている。その時、俺は自分が泣いていることに初めて気がついた。この涙は何だ?喜び?悔しさ?悲しさ?・・・俺は何故泣いてるんだ。

彼女の手が俺の涙を拭ってくれている。

「どうして泣いてるの?」

そう聞いたのは俺の方だった。

「わからない」

彼女ははらはらと落ちる自分の涙を拭わずに俺の涙を両手で拭ってくれている。俺は両手で彼女の頬に触れた。彼女は一瞬びくりと反応したが、俺がその彼女の涙を拭い始めると、その泣き顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。

「これって変よ」

「そうだね」

俺もその顔を見て笑ってしまった。俺達は笑いながらお互いの頬に触れ、涙を拭っていた。

しばらくして、彼女から先に俺の頬から手を放した。俺はしばらく彼女に触れていたかったが、仕方なく手を放した。

が、彼女は放したその手で今度は俺の右手に触れた。俺はようやく訪れた痛みに顔を歪ませた。

彼女はそれを見て

「馬鹿ねえ」

と、今度は笑わずに言った。

「二度とこんな風に自分の体を傷つけないで、お願いだから」

と彼女は俺の右手に優しく触れながら言った。

「私、残念ながら気持ちはわかってあげられない。だけど、こんなのは嫌よ」

そう言って彼女はまた泣き出した。俺は彼女の茶色の瞳から流れる涙を見ていると、そして、彼女の手の温もりを感じると自分の欲求を抑えることができなくなり。彼女を抱きしめてしまった。

彼女はそこから逃れようとしたけど、俺はそうさせなかった。自分の中の凶暴な部分がそうさせなかった。俺はその時、彼女に関る全ての男達に嫉妬していたからだ。彼女を自分だけのものにしたくなった。他の誰にも渡したくない。

「ごめん」

俺は彼女の耳元でそう言った。

「それは何に対してなの?」

彼女はもう抵抗していなかった。今の俺の境遇に同情してのことだろう。その彼女の優しさにつけこんでしまっている事に罪悪感を感じてはいたものの、俺は今、彼女温もりを離したくなかった。俺には彼女が必要だった。

「自分の手を傷つけてしまったこと」

俺はそう言った。

「今していることに謝ってはくれないの?」

「謝らない。謝ったらあなたを好きだって事を否定することになるから」

彼女はもう何も言わなかった。何も答えなかった。それはつまり、俺の今の言葉を聞かなかった事にするつもりなのだろう。それでも俺は構わなかった。俺はこの先何度でも同じ言葉を口にするだろうから。


10分くらい、そうしていただろうか。

「この体勢疲れない?」

彼女のその言葉で俺はようやく彼女から離れた。

「何を考えていたの?」

「いろいろ」

「そう・・・、私はコウの事を考えていたの」

「え?」

「ごめんなさい。私は里村君の話を聞いてもコウに対しての感情が何も変わらないの。コウがたとえ、あなたの父親で、音楽の為にあなたとあなたのお母様を捨てた冷酷非情な男だってわかっても、コウが奏でる音は、唄う歌は、妻と子供への愛に満ち溢れている。私はいつだってそう感じていたから。コウは音楽と同じくらい家族を愛しているのよ。私はそのコウの音楽に惹かれた。・・・ごめんなさい、正直、あなたが、あなたのお母様が羨ましいの」

「え?」

「こんな事言うのは不謹慎だってわかってる。でも私はずっとコウの音楽を聴いてきて、離れていてもあんなに家族を愛せるコウをすごいと思ってきた。そしてその愛されているコウの家族に嫉妬していたの・・・」

「そんなこと」

「あなたもコウの音楽に触れればそれがわかる。すぐにとは言わないけど、ゆっくりでいいからコウのこと、理解していければ素敵だと思うわ」

「俺はずっと親父を憎んできた。明良と俺を捨てて好きな道を選んだ親父を許せないって、だからそんな親父を理解するなんて無理だ。あなたがなんと言おうと」

「そうね。・・・ごめんなさい、あなたの気持ちも考えずに」

「でも、俺もコウの音楽には惹かれた。だからベースをやろうと思ったんだ」

「里村君・・・。私が里村君に初めて会った時に、何となくだけど初対面じゃない気がしたことも、軽音部に推薦したくなったことも、今ならわかる気がする。きっとどこかでコウと里村君の血の繋がりを感じていたからなのね」

「血の繋がりか・・・」

だから俺はコウのベースに、コウに惹かれたのか・・・。

「俺、もう沢村さんとは呼ばない。花菜さんって呼ぶ、いい?」

「いいわ。じゃあ私も天空君って呼んでいい?」

「もちろん」

「じゃあ、天空君、遅くなったのでそろそろ帰らない?」

彼女はいつもの微笑みを見せた。でもその微笑みは今までとは違う、親しみを込めたものだった。榊に見せる微笑みとあまり変わらない。


第3章  素直になれずに


俺はコウに逢った事を明良には話さなかった。13年経って落ち着いている明良の気持ちを不必要に波立たせたくなかった。明良は今でも親父を、コウを愛しているのだろうか、もしそうだとしたら、今でも逢いたいと思うのだろうか。

明良は今年48歳だし、コウは38歳。そんな2人が今更再会したところで何かが変わったりするのだろうか・・・。

 バイトを始めると言った俺に対して明良は反対し、欲しい物があるなら買ってあげると言った。でも俺はベースが欲しいなんて明良に言えるわけもなく、仕方なくとりあえずバイトを探そうと思ったけど、正直に16歳です、なんて言って雇ってくれるところもなく、途方にくれていた。

「だろうと思ったわ」

どうしいていいかわからずに愚痴ってしまった俺に対して花菜さんは軽く言った。

「どうしたらいいのかな~。明良にはコウの事言ってないし・・・」

「この前から思ってたんだけど、明良ってお母さんの事名前で呼んでるのね、それって珍しい」

「ああ。3歳の頃まで親父、コウが明良って呼んでたからそれで俺もそう呼んでて、それがそのまま直らないって感じ」

「へえ、天空君ってお父さんっ子なんだね」

花菜さんがいたずらっぽく笑って言った。

「あのねえ」

「ねえ、嫌かもしれないけど、コウならいくつかベース持ってるし、その中には使わないものもあると思うの。譲ってもらえないか、私から聞いてみようか?天空君が嫌なら私が必要って事にしてもいいし」

「そこまで花菜さんに迷惑かけられないよ」

「私はいいよ。天空君がベース弾くの聴いてみたいし」

「コウの世話にはなりたくない。あのさあ、あのライブハウスで働くってのはできないかな?そしたら音楽にも接する事できるし」

「甘いなあ。あそこだって16歳を働かせて何か問題があったら大変なんだよ。ただでさえ、ライブハウスって目をつけられやすいんだから」

「あ~、結局俺達って親の世話にならなきゃ自分で好きなものすら買えないんだよなあ」

俺は屋上で仰向けになって青空を見上げた。梅雨も終わりに近づき、季節はもう夏になりかけている。

多分、受験で忙しい花菜さんは俺にこんなところに呼び出されて迷惑に決まっている。なのに、俺は口実を作っては花菜さんに会いたくなってしまっている。

「やっぱりコウに頼むのがいいんじゃないの?」

「明良に申し訳ない」

「コウね・・・、最近天空君の事聞くの」

「え?」

「あのライブの日から、練習のたびに、『あの里村君って、元気か?音楽は何かやってるのか?勉強はできるのか?お母さんは何してる人?お母さんは元気なのかな?』って毎度毎度いろいろ。怪しまれるとは思わないのかなあ。本当にコウってば単純なんだから」

と笑った。

「で、何て答えるの?」

「そうね、元気って事と、音楽はやり始めたばかりって事だけよ。だって天空君の事は私だってよく知らないし」

「じゃあ、教えてあげるよ。ただしコウには内緒で」

「意地悪ね」

「これくらいの意地悪は許されるだろ」

「そうね」

彼女は笑った。

俺は彼女に笑って欲しかった。だから俺の事を話すだけにして、彼女の事は何も聞かなかった。榊の事を聞きたかったが、そうしたら彼女から笑顔が消える気がしたから、俺は何も聞けなかった。そして彼女も話そうとはしなかった。

俺は当面、ベースをどうするかを考えなきゃいけなかった。コウに頼むにしてももらうわけにはいかないから売ってもらう。だからお金は必要だろうし・・・あ~も~、どうしたらいいんだよ!

それからしばらくして、明良からまたバイトの話が出た。

「欲しいものって?」

「いや、その話はもうよくて」

「バンド・・・始める為なの?」

「え?」

俺は思いがけない言葉を明良から聞いて絶句してしまった。

「やっぱり本当なのね」

明良はため息をついてからポツリと呟いた。

「だ、誰から?」

「この前深雪ちゃんに会った時にふと思い出して、最近のあんたの事を聞いたの。そしたら軽音部の人と付き合ってるっていうじゃない」

「付き合ってなんて!」

俺は付き合ってるの意味をはきちがえてしまい、てっきり花菜さんとの事を言われたのかと思い、叫んでしまった。

「天空?あんた、いったい何をしてるの?」

明良はそんな俺の様子を冷静にじっと観察した後、そう質問した。そして黙っている俺に追い討ちをかけるようにこう聞いた。

「軽音部の誰かと付き合ってるの?・・・高校生になったんだし女の子と付き合うくらい私は反対するつもりはないわ。でもバイトをするのは何の為なの?その女の子の為?だったら」

「違うよ」

俺はぶっきらぼうにそう言って自分の部屋へ帰ろうした。

「待ちなさい天空!」

「明良には関係ない!」

俺はそう言ったきり、部屋にこもった。明良は一体どんな顔をしていただろう・・・きっと寂しそうな顔、傷ついた顔をしていたに違いない。俺は久しぶりに明良に反抗した。

それ以来、明良は生活する為の必要最小限の事しか俺に話し掛けようとはしなかった。


「で、どうするんだよ」

俺は自分でどうしていいかわからず雄三に相談した。

「どうしていいかわからないからお前に相談してんだろうが」

「その・・・親父さんと話をしてみたらどうだ?」

「コウと?何を話すんだよ」

「明良さんに話すべきかどうか・・・。その人だって突然のことに混乱してるだろうし、話せば何か解決策が」

「解決策ねえ・・・」

「だって、お前ベースがないと音楽できないんだろうし、その事だってその人と話をしなきゃだろ」

「う~ん」

「で、その・・・沢村さんとはどうなってんだよ」

「別に・・・」

「別にって」

「彼女は受験で忙しくて俺にかまってる暇なんてないの」

俺は本音を言った。確かにすごく逢いたいし、話だってしたい、だけど、この時期に彼女の勉強の邪魔をするわけにはいかない。それこそガキのやる事だ。榊だったらそんなことしないだろう。

「ふ~ん。大人だな」

「どういう意味だよ」

「だって逢いたいなら逢いたいって素直に言っていいんじゃねえのかな。それが嬉しいって事もあると思うぜ。勉強ばっかしてるのだってつまんなくて誰かと話したいかもしれないし。俺だったら気にしないで言ってみるけどな、逢いたいって」

「誘惑すんなよ」

「素直になれって」

そう言われて単純な俺はすっかり逢いたくなって、翌日、3年の教室を訪ねることにした。

3年の校舎は1年のプレハブ校舎から離れていて、とても綺麗な校舎なので、俺は戸惑ってしまった。誰も彼も大人っぽくて、緑の校章をはめて歩いている俺はみんなから好奇の目で見られ、とても目立った。

「あれ?里村君だっけ?」

そこにはあの体育会系のギタリストのこうじがいた。

「ああ、こうじさん」

「こうじさんって恥ずかしいなあ。俺の名前は森田康司だよ」

「すいません」

「謝らなくてもいいけど、何?3年の校舎に何か用?」

「えーと」

俺はこの康司って奴も花菜さんに気があるんじゃないかと思っていたので、とてもいい言いづらかった。

「花菜に用事?」

「ええ、まあ」

「呼んできてやろうか?」

「いえ、クラスさえわかれば自分で行きますから」

康司って奴は俺を値踏みするように見ている。その態度が気に食わない。

「何ですか?」

「お前さあ、花菜の何?ファン?もしファンだったら」

「友達です!」

「友達?」

俺はすっかり喧嘩ごし。って言っても先に喧嘩を売ったのは相手だ。売られた喧嘩は買う。

それにファンだなんて言われたら腹も立つ。

そんな俺達の怪しい空気を感じたのか、周りに人が集まってきていた。

「何をしているんだ?」

やばい、この声は

「榊先生、何か喧嘩みたいですよ」

誰かがそう言った。

「喧嘩だ?」

その生徒達の群集から榊が現れた。

「里村?それに、森田。お前ら何してんだ?」

「天空君?」

「へ?」

その声は

「天空君じゃない。何してるの?」

何で花菜さんが榊と一緒にいるんだよ。俺は森田への怒りと、榊への嫉妬、そして何かここには自分の居場所がないような気がして、何も言わずにその場を離れた。

「ちょ、ちょっと」

彼女は俺を追って来た。でも今の俺はすごく嫌な顔をしている。そんな顔を花菜さんには見せたくなかった。俺は彼女を振り切るように走り出した。

そして屋上に上がると、何だか情けなくて涙が出そうだった。

「逃げることないじゃない」

彼女の声がした。走って来たのか、息をきらしている。

「逃げてねえよ」

俺は今の自分の情けない顔を見られたくなかったし、彼女の顔も見たくなかったから背を向けたまま言った。いっつもこうだ、俺はガキだ。

「逢いに来てくれたんじゃないの?」

「そのつもりだった」

「じゃあ、何で逃げるの?」

俺は何も言えなかった。

「どうしているのか、心配だったのよ」

心配?何で俺が心配されなきゃいけないんだよ。俺はどこまでガキ扱いされてんだよ!

「心配なんてされたくないんだよ!」

「え?」

「何で・・・何で心配なんだよ。俺は花菜さんにそんなに心配されなきゃいけない程子供なのかよ!」

俺はもう止めることのできない怒りを彼女にぶつけるしかなかった。

「私は」

「榊なら、榊なら心配することなんてないよな。あいつは大人だし、逆に心配されて、守られて、愛されて、それで、それで花菜さんは幸せなんだよな。俺の心配だったらいらない!大きなお世話だ!さっさと榊のところでもどこへでも行けばいいだろ!」

言い終えたところで、彼女を見た。彼女は目を大きく開いて、落ちそうになる涙を堪えているように見えた。そしてそのまま俺に背を向けて歩いて行った。

俺は馬鹿だ。本当に馬鹿だ。彼女は追いかけてくれたのに、榊を置いて、俺を追いかけて来てくれたのに・・・どうして傷つけてしまうのだろう。

俺はその場に崩れて泣いた。俺は、もう二度と彼女に会う事はできない。

それからの俺は何をするにも無気力だった。何事にもやる気のない里村天空に逆戻りだ。沢村花菜に逢うまでの無気力な駄目男。

「ほんと、駄目男だな」

夏休みに入り、心配した雄三が俺の家に来て言った。

「うるさい!」

「なあ、もともとは沢村さんと関ったこと自体が間違いだったんじゃないか?」

「え?」

「沢村さんと関らなきゃ親父さんの事だって知ることはなかったし、明良さんと対立する事もなかったし、深雪と変な風になることもなかった。だろ?」

確かに雄三の言うとおりだった。

「諦めて深雪と付き合えよ」

「意味わかんねえ事言うな。俺が花菜さんを諦める事と、深雪と付き合う事は別問題だろ」

「だって、あいつ同級生に告られても『好きな人がいます』とか言って断ってるらしいぜ」

「それが俺とどう関係があるんだよ」

「とぼけてんじゃねえよ。その好きな人って明らかにお前だろうが!」

「俺はあいつの口から何も聞いてない」

「言わせないの間違いだろ!」

「何むきになってんだよ」

「むきになってるわけじゃねえけど、深雪の事考えると不憫になって」

「お前は世話焼きじじいか。不憫って何だよ」

「とにかく!はっきりさせろ。沢村さんが悪いとか言うつもりはないけど」

「当たり前だ。彼女は何も悪くない」

そう言った俺をじっと見つめて雄三はため息をついて

「諦めるのは無理そうだな」

と言った。

そう、そのとおりだ。今だってこんなにも逢いたい。でも思い出す顔はいつも見ていたあの笑顔ではなくて、最後に見た、今にも泣きそうな顔だ。今、彼女はどうしているだろう、歌を唄っているだろうか、榊と一緒にいるだろうか、それとも、少しは俺の事を思い出してくれているのだろうか・・・。


第4章  何が何でも


そんな気持ちのまま時間だけは過ぎ、夏休みも後半になった。夏休みが始まると、俺はいろんなCDショップに行き、コウのCDを探した。コウやクラウディアはインディーズで出しているらしくなかなか見つからなかったが、それでも数枚購入して、毎日聞いていた。

そして、花菜さんの言うとおり、コウの作る曲はどれも恋人や家族への愛に満ち溢れているように思えて、離れている間、コウがどれほど明良や俺を思っていたか、少しは実感する事ができた。許す許さないではなく、少しだけ、コウに、親父に歩み寄ってみてもいいんじゃないかと、思えるようになった。


そして、どうにか明良に許可を得て、明良の知り合いの店でアルバイトをして、少しはお金が溜まった。アルバイト先には深雪も来て、深雪と遊びに行く事もあった。その時も俺は深雪には何も言わせなかった。気持ちの整理がついたら、深雪と付き合う事もありなのかも・・・と思ってはみたが、ぎりぎりのところで踏ん切りがつかない。花菜さんの事が頭から離れない。最近はあの最後の顔だけじゃなく、初めて会った、あの鼻血の事件の笑顔、ライブで見た綺麗な彼女。そして、あの日、俺の涙を拭って、一緒に泣いてくれた彼女を思い出す。彼女の全ての感触が忘れられない。他の女なんて考えられない。

あの日以来、ライブの話も聞かない。コウの話を聞く事もない。お金はそこそこ溜まって少しくらいならコウに払えそうなのに・・・っていうよりも、それを理由に俺は彼女に逢いたかった。ただ、逢いたかったんだ。

夏休みが終わりに近づいた頃、深雪に誘われて花火大会を見に行った。地元では有名な花火大会らしく、かなりの人が集まっている。深雪は浴衣を着ていて、いつもより可愛くなっている。周りの男達が羨ましそうに見て行く。悪い気はしないが、何となくカップルだと思われているのが気になる。後ろから雄三と・・・何故か盛岡が一緒に来ているのが変な感じだ。まあ、俺が深雪と2人きりが嫌だから雄三に誰か誘って来いと言ったのがきかっけだが、何故盛岡・・・、あれから2人は何かあったのか?

まあいい、でかした雄三、俺は盛岡に聞きたい事がたくさんある。

「で、最近どうなの?」

って、盛岡に逆に聞かれた。

「どうって?」

「何で安藤深雪と花火なんて見に来てんのよ。確かに可愛いけど、沢村先輩には負けるわよ」

「はっきり言うねえ」

「沢村先輩、みんなに合わせて元気に振舞ってるけど、本当はいろいろ悩んでると思うのよね」

「え?元気ないの?」

「うん、部室には来てくれて唄ってくれたりはするんだけど、どこかうわの空っていうか、進路のこととか悩んでるのかな・・・ライブもできなくて辛そうだし」

「何でライブしないの?」

「さあね」

「何の話?」

深雪がカキ氷を買ってきて俺に差し出してそう言った。

「別に」

「そう」

何でライブしないんだろう。元気がない。悩んでる。無理してる。っつうか、そんな時に榊は何してんだよ。そういう時こそ彼女を支えてやんなきゃいけないんじゃいのかよ。って言っても、榊は実際花菜さんのお姉さんの旦那なわけだから何かできるわけじゃねえんだよな。それに、コウだって何でライブしねえんだよ。

「怖い顔してどうしたの?」

「え?」

深雪が俺の顔を覗きこんでそう言った。

「別に・・・」

っていうか別にじゃねえ。俺、やっぱ彼女の事放っておけねえ、他の誰かが彼女を思ってようが、彼女が他の誰かを思ってようが、俺の事を嫌っていてもかまわねえ、俺は彼女の側にいて、彼女を守ってやりたい。いや、違う。俺は彼女の側にいたい。彼女を感じていたいんだ。

「天空?」

「ごめん、深雪。俺、行くとこある」

「え?」

「盛岡!花菜さんどこにいる」

「え?どこって」

「何言ってんだよ天空」

「逢いたい。逢いに行く」

「行かせない!」

深雪が俺の服を強く掴んで、強い視線で俺を見ている。

「深雪、今行かなくても、俺は結局彼女のところに行く。ごめんな、俺は」

「やめてよ!」

「部室じゃないかな」

「え?」

「先輩、唄ってると思う」

俺は走り出した。逢いたい!何が何でも逢う!人だかりに邪魔されながらも、俺はまっすぐに彼女を目指していた。

学校に着くと真っ暗で、こんな時間に本当に人なんているんだろうか・・・と、勢い込んで来たはいいが、盛岡を少し疑ってしまった。だって何の根拠があって盛岡は花菜さんが部室にいるってわかったんだよ。騙されたんじゃないだろうか・・・。

部室に近づくにつれて、俺の足は震え始めた。何となくいる気がしてきたのだ。勢いこんで来てはみたものの、正直、あんな事言って傷つけてそれ以来逢っていない、どんな顔して逢えばいいんだ。彼女は怒っているはずだ、許してくれるだろうか・・・。

俺は震える足を叩いて

「しっかりしろよ!何が何でも逢いたいんだろ!」

と声に出して自分を激励した。

部室に近づくと歌声というよりは話し声がした。

「花菜!」

え?この声は森田康司。あいつ!

俺は考えるよりも先に体が動いていた。部室のドアを勢いよく開けると、そこには右腕を森田に掴まれた花菜さんがいた。

「てめえ!」

俺は逆上して森田になぐりかかっていた。

「そ、天空君?」

「里村・・・。てめえ!」

森田が起き上がって反撃にきそうだった。体育会系の奴に正攻法で勝てるわけはない。だけど、俺は彼女を、花菜さんを守らなきゃ。

「やめて!」

彼女が俺と森田の間に立ちはだかった。

「花菜!どけ!」

「どかないわ!」

「花菜さん、危ないから俺の後ろにいてください」

「康司!」

「何だよ!」

「康司の気持ちは受け取れない」

「何でだよ!榊は」

「榊は関係ない!康司と付き合うつもりも全くない!帰って!」

彼女は今までにないくらい強い口調で話している。こんな彼女は初めてだ。

「わかった・・・」

森田はそのまま彼女と俺を睨んで通り過ぎて言った。最後に部室のドアを壊れるかと思うくらい強く締めて。

その音がしたのと同時に彼女はその場に座り込んでしまった。

「か、花菜さん?」

恐々彼女に触れてみると、彼女は震えていた。そして震える声で

「怖かった」

と一言、言った。俺は彼女の震える肩を抱きしめた。

「ごめん」

「何で謝るの?」

「守ってあげられなかった」

「そんなことない」

そして、しばらく黙ってそうしていた。久しぶりに逢う彼女は髪が少し伸びていた。でも、抱きしめている肩が前よりも細くなった気がした。

「どうしてここにいるの?」

震えが止まった後、彼女は俺に向き直ってそう言った。

「え?あ~、えーと」

彼女の久しぶりのまっすぐな茶色の瞳に俺はまたしてもどきどきしてしまい言葉を失ってしまった。

「ストーカー」

「ち、違う!違うって、言えないかもしれないけど、・・・盛岡に聞いて」

「盛岡さん?」

「と、とにかく、俺はあなたに逢いたかった。何が何でも逢いたかった。だから来たんだ」

また、沈黙になった。

「謝って」

「え?」

「前に屋上で怒鳴ったこと、謝って」

彼女は膨れっ面をして俺を睨つけている。

「言い方がきつかったのは謝ります、怒鳴ったりしてごめんなさい。だけど!俺はあの時本音を言った。俺はあなたに子供扱いされたのが悔しかったんだ」

「子供扱い?」

「心配してたって」

「心配することが子供扱い?」

「だって、榊に対して」

「全く!どいつもこいつも榊榊って」

「でも、花菜さん榊のこと好きなんだろ?」

俺はずっと気になっていた事を思い切って切り出した。

「私、そんな事言った?」

「え?言ってないけど」

「だよね。って事は誰かに聞いたわけだ」

「いや、聞いてない」

「へえ、じゃあ、誰にも聞いてないのにわかったわけだ。すごいねえ、じゃあ、今私が何を考えているのかわかるはずよね?当ててみて」

完全に怒りモードに入った彼女は今までの俺の彼女へのイメージを完全に変えてしまった。

ハードロックを唄っている彼女そのもので、俺はすっかり受身になってしまっている。

「そんなの当てられるわけないだろ」

「だったら何でもかんでも勝手に決めつけないで!」

本当に怒っている。一体なんでこんなに怒っているのかわからない。俺はそんなに怒られるような事をしたのだろうか。

そのまま彼女は黙ってしまった。

「花菜さん?」

「ごめんなさい」

「え?」

「子供はどっちなんだろう・・・私の方が子供よ、こんなに取り乱すなんて」

「取り乱す・・・って」

彼女は大きなため息をついて俺をまっすぐに見た。

「あの日、怒鳴られて、私、どうしていいかわからなくて、それで数日後、あなたに逢いに行ったの」

「え?」

「そしたら、あの・・・この前の女の子に逢って」

「この前の女の子?」

って

「深雪?」

「たぶん・・・。それで、あなたにはもう近づかないでって言われたの。・・・恋人だからって」

「ちょ、ちょっと待てよ!」

どういう事なんだよ。

「それで私・・・勘違いしてたのかなって思って、それで」

「勘違いしてるのは深雪の方だよ!勘違いっていうよりも完全に間違ってる!俺は深雪と付き合ってなんかいないし、考えたこともない!俺は・・・俺は初めから花菜さんだけを見てる。花菜さんだけが、好きなんだ。誰にも渡したくない、森田は当たり前だけど、榊にだって、コウにだって渡したくないんだ」

「コウ?」

「と、とにかく、俺はあなたが好きだ。沢村花菜が好きなんだ」

俺は一気に告白した。もう聞き流したりさせない。こんな事言わせたのは彼女なんだ。その責任はちゃんととってもらわないと。

「ここまで言わせて何も言わないなんてそういうのはずるいと思うよ」

黙っている彼女に俺は問いただした。

「私は・・・私は榊と付き合っていたの」

俺はやっぱりという意味を込めて大きくため息をついた。

「2年前に別れたわ。別れた理由は勿論先生と生徒だったって事で隠れて付き合っている事に二人が疲れたって事もあるけど、一番の理由は・・・当時、私の姉が榊と出会って、榊に恋をした事」

「でも2人が愛し合っていたならお姉さんが単なる片思いをしていたって事だろ」

「姉は・・・私が榊と付き合っている事を知って、それを学校にバラすと言い出したの」

「え?」

「そんな事をばらされたら榊は二度と教職につけなくなる。私と榊は話し合って・・・別れる事にしたわ」

「そんな簡単なものなのかよ」

「簡単じゃなかった・・・。形だけは別れた事になったけど、私達は毎日学校で顔を合わせる事になる。気持ちは簡単に整理できなかった。それに気がついた姉が逆上して、・・・自殺を・・・」

「え?」

「命はとりとめたんだけど、精神的ショックが大きくて、しばらく話せなくなったの・・・」

「しばらくって事は」

「今は話せるようになったわ。だけど、私を見ると、姉は気が狂ったように泣くの・・・」

彼女はそこまで話すと涙を流した。肩を震わせて泣く彼女を見ていると、俺は彼女が俺を好きかどうかなんてどうでもいいと思えてきた。彼女はまだ18歳なのに、どうしてこんな辛い思いをしなきゃけいけないんだ。

俺は彼女を抱きしめた。彼女はそこで張り詰めていた糸が切れたように、俺にしがみつくようにして大声で泣いた。俺は人がこんな風に無防備に泣くのを初めて見た。彼女があんな風に人の心を動かす歌が唄えるのは彼女の中にこんなにも激しい感情があるからなのかもしれない。そして、俺はそんな彼女を支え、支えられる為に出会ったのだと、勝手かもしれないが、実感した。

「怖いの」

数分後、彼女が震える声でそう言った。

「人を好きになるのが・・・人を好きになることは自分も他人も傷つけて、狂わせてしまう。榊も・・・姉の思いが強すぎて、狂いそうになっている。彼は今、私に救いを求めている。・・・どうしたらいい?」

「俺にそれを聞くの?」

「あなただから聞くの」

彼女が顔を上げて俺をまっすぐに見つめた。彼女の顔はもう涙でぐしゃぐしゃになっている。でもその瞳は俺の好きな俺を癒してくれる、強く、優しい瞳だ。

「俺は・・・」

こんなとき、大人の男ならきっと榊を支えてやれっていうのかもしれない。だけど、俺は俺は16歳のガキだ。雄三、ガキはとりあえず素直にだよな。

「榊を好きなら、榊の側にいて支えてやればいい。だけど、俺を好きなら、もう2人には関らないで、俺の側にいて欲しい。榊は好きだった人だし、もう一人は実のお姉さんだし、そんな2人から目を背けるのは簡単じゃないし、辛い事だ。だけど、俺がいる。まだ16歳だし、あなたより年下だし、支えるとか、守るとか言っても信じてもらえないかもしれない。だけど、俺は今日、改めて思った。あなたの側にいて、あなたを支えていきたい」

彼女はまっすぐ俺を見つめていた。その瞳は不安で揺れているように見えた。

「でも、あと半年もしたら私は卒業して離れてしまうのよ。そしたら私はどうしたらいい?」

「信じていて欲しい、いつだってあなたの側には俺の心があるって。・・・って言っても、俺はコウの息子だもんな、説得力はないかもしれないな」

「コウは離れていてもあなたや、あなたのお母さんを思っていたわ」

「信じてくれる?」

彼女はしばらく俺の瞳を探るように見つめていたが、一瞬俯いて、さっきまでとは違って迷いのない瞳で俺を見つめて言った。

「信じるわ」

俺は今まで緊張していた全身から力が抜けていくのを感じた。そして、そんな俺を彼女が優しく包んでくれた。そして、俺がずっと聞きたかった言葉を言ってくれた。

「天空君の側にいるわ。天空君が大好きよ、信じて」

俺はすごく嬉しくて彼女を強く抱きしめた。

決めた。俺は何が何でも彼女を支え続ける。

「俺のことも支えてくれる?」

「うん」

彼女は笑いながらそう答えてくれた。



第5章  初めて


 それからの俺達はと言えば、1年と3年とが付き合っているというもの珍しさに目立ち、時には噂話や陰口も聞くが、気にせず一緒にいられる時間は一緒に過ごすようにしていた。

彼女は受験勉強があるので、大抵は一緒にお弁当を食べるだけだが、それでも俺達は幸せだった。

榊も表向きは何も気にしていないという様子だったが、やっぱり俺と話す時は意識しているように思えた。だから俺が軽音部に入るのは難しかった。

俺はある程度バイト代が溜まったのもあり、コウと逢う覚悟を決めていた。あのライブ以来逢っていないし、親父だってわかった今はあの時とは全く違う関係の元に逢うわけだから俺も複雑な心境だ。そして、いくらコウの音楽を聴いて俺が少しはコウの気持ちがわかった気になったつもりでも、明良には後ろめたい気がしていた。いつかは明良に話さないといけないのだとわかっていても、そうできない。

ある日のお昼休み、俺は花菜さんに相談した。

「コウに逢いたいんだけど」

「平気?」

彼女は心配そうな顔をした。

「俺は、とりあえずベースも欲しいし、やっぱり、話してみたい」

彼女はゆっくり頷いて、微笑んだ。

「お母様には?」

「まだ話してない」

「そう・・・10年以上だもんね。想像もつかない」

「どういう形が一番いいんだろう?」

彼女は真剣な顔をして悩んでくれている。受験で大変な時なのに俺のことで悩ませて申し訳ないなあ。などと思いながらも俺は彼女には全てを包み隠さず話したいと思ってしまう。もしそれで彼女が悩むとしても、その方がいい気がしていたのだ。

「とりあえずコウに話してみるわ。多分天空君に逢うってだけでもコウはパニックだと思うから」

「そうだな」

それから俺達はいつものようにたわいもない話をして、別れた。

それにしてもあの日抱き合ってからというもの、俺達には何の進展もない。

彼女を目の前にすると俺は自分が男だって事を嫌っていう程実感する。触れたいと思うし、触れたら抱きしめたいと思うし、抱きしめたらキスしたいと思うし、キスしたらその先も・・・なんてどんどん欲望が膨らんできて、どうしようもないよな。

榊とはどこまでの関係だったんだろう・・・とか、嫌な考えまで浮かんでくる。そんな時、俺は、コウの音楽を聴く、そうすると何だか気分が落ち着く。母親の子守唄を聴く赤ちゃんの気持ちってこんな感じなのかな。


それから数日後、花菜さんからコウと逢えると聞いた。

「週末なんだけど、バンドの打ち合わせをこの前のスタジオでやる事になって、コウが、その時逢えないかなって言ってた。随分悩んだけど、コウも逢いたかったんだって。夜なんだけど来れそう?」

「ああ、雄三と約束があるって言えば出られると思う」

「そう・・・」

「何?」

「嘘をついて父親と逢うなんて、辛いわね。何とかお母様と逢わせられないかしら・・・」

「そんな簡単じゃないと思う」

「そうね」

週末、俺は雄三と逢うと嘘をついて家を出た。内心を明良に悟られないように、俺は殆ど明良と目を合わせなかった。

ライブハウスへの道程、俺の気持ちは沈んでいた。最初に何と言って声をかければいいのか、俺はコウの目を見られるだろうか、冷静に話せるだろうか・・・、とにかく何を話せばいいのかわからなかった。

そんな事を考えていたせいか、俺は背後に迫る人の気配に気がついていなかった。俺は後ろからいきなり殴られた。振り向いたが目の前の景色がぐらついて相手を確認することはできなかった。俺はそのまま意識を失って倒れた。意識を失う前に花菜さんの心配そうな顔が目に浮かんだ。

「ごめん」


俺は通行人が呼んでくれた救急車に乗り、病院に運ばれた。そして、当たり前のように自宅に連絡を入れられ、明良に嘘をついていた事がばれてしまった。明良は翌朝目が覚めた俺を平手打ち、そして叱りながら泣いた。そして、嘘をついて吉祥寺にいた訳を俺に問いただしたが、俺は頭が痛いと言って答えなかった。

その間、花菜さんとコウは不安で一晩中、吉祥寺中を走り回って俺を探していたらしい。

携帯電話は没収されていたので、俺は雄三に電話して、何とか花菜さんに連絡をつけてもらった。

その日の夕方、花菜さんが病室に駆け込んできて、俺の顔を見るなり、大泣きしたものだから大部屋の他の患者さん達は何事かとびっくりして集まってきた。

「本当にごめんね」

彼女は見舞いに来てからそれしか言わない。

「別に花菜さんのせいじゃないよ。それより一睡もせずに俺を探し回ってくれてた二人に申し訳ないよ」

「何言ってんの。そんな・・・」

そう言ってまた泣く。

「泣くなっつうの」

俺は彼女の頭をずっと撫でていた。

「コウも心配してお見舞いに来たがってたんだけど、こんな時に動揺させたくないからって・・・それからお母様にばったり逢ってしまうのも避けたいらしいの・・・」

「そうだな・・・コウには改めてまた逢うよ」

「毎日お見舞いに来て、毎日伝えておくね」

「受験勉強しなきゃだろ」

「ここで勉強するわ。その方が家で心配して勉強が手につかないよりいいから」

「予備校は?」

「しばらく休む」

「駄目だって」

「嫌よ!こればっかりは譲らない!」

彼女は意思の強い目でそう言った。そんな目でこんな風に言われると俺は負けてしまう。

「わかった」

俺は渋々納得したと思わせる為に、ため息混じりにそう言った。

「ありがと」

と彼女は笑顔で言った。この笑顔が見られるならそれでいっか。それに不謹慎だが、内心俺は入院中毎日彼女に逢える事を喜んでいた。

明良は午前中だし、彼女は夕方だから二人が会う事はなく、1週間で俺は退院になった。

明良はその後俺が吉祥寺に行っていた理由を問いただす事はなかった。雄三にも聞いたらしいが雄三は黙っていたし、深雪は・・・ある程度話したらしい。

そして、俺が入院している間、明良は俺の部屋に入り、そこで見つけたコウのCDを聴きまくったらしい。それを知ったのはまだ先。


退院して2週間後、突然コウが俺の学校に来た。花菜さんも来る事は知らなかったらしく、驚いていた。

「コウ?どうしたの?」

「花菜も一緒か。とりあえず二人とも車に乗って」

俺達は言われるまま車に乗り込んだ。車内はタバコ臭くて大人の男の匂いがした。明良と二人暮しだったからこういう匂いにあまり馴染めない。

俺達はしばらく走った後、ファミリーレストランに入った。

「もう具合はいいのかい?」

コウは最初にそう言った。

「はい、大丈夫です」

「すまなかった。あんなことになるとは思わなくて」

コウは頭を下げた。

「別にあなたのせいじゃないので気にしないで下さい」

しばらく沈黙があった後、コウが思いがけない事を言った。

「俺なりに考えたんだけど、君のお母さんに逢おうと思う」

「え?」

「明良さんに逢おうと思う」

今度はまっすぐ俺を見てそう言った。

「彼女に内緒で君に逢うのはやっぱりルール違反だ、と思ってね」

「許してもらえるとでも」

「いや、許してもらえるとは思ってない。だけど、君と偶然逢えたのはそういう事なんじゃないかと思った」

「そういう事?」

「どんな形であれ、逃げていないで立ち向かう時なんだ」

「何かっこつけてんだよ」

俺はコウの標準語の話し方と俺に対して君と言った事、それ以外にもいろんな怒りの感情が溢れて自分を抑える事ができなくなっていた。

「天空君?」

「13年間も好き勝手しといて何を今更・・・あんたはそれですっきりするかもしれないけど、明良の気持ちはどうなるんだよ!今更のこのこ現れて何勝手な事言ってんだよ!・・・らは、明良は・・・明良は・・・」

俺はそこが公共の場である事を忘れて怒鳴って、立ち上がって、コウを睨みつけていた。

「お客さま?」

店員が慌てて来た。

「すいません。大丈夫です」

花菜さんが謝っていた。

「いい息子に育った」

コウが涙を潤ませながら俺を見た。

「お前の言うとおりや。今までさんざん好き勝手なことして、今更お前らに逢いたいなんて勝手なんは重々わかってる。けど、お前に逢ってから俺は自分の衝動を抑える事ができへんようになった」

コウが立ち上がって俺に頭を下げた。

「天空、すまなかった。許してくれとは言わへん。だけど、どんなに怒鳴られてもなじられても、俺はお前に逢えて嬉しかった。明良にも逢いたい、あいつにどんな目に合わされても逢いたい」

コウはいつまでも顔を上げようとしなかった。

俺は親父に久しぶりに名前を呼ばれた事に懐かしさを感じた。そうだ、3歳までしか一緒にいなかったけど、俺はこの声に名前を呼ばれて、抱き上げられるのが好きだった。そして、あのタバコの匂い、俺は好きだったんだ。親父に肩車をしてもらうと、青空がすごく近く見えた。俺はあの親父の肩より高い位置から見える空が大好きだった。俺は大声で泣きたい気持ちになった。そして、俺は搾り出すように声を出した。

「親父」

その声に反応するようにコウがゆっくり顔を上げた。その両目から涙が溢れていた。

「すぐに許す事はできない。けど、ゆっくり、これまでの13年間以上の時間をかけて親父を許していくよ」

「ありがとう」

コウはさっきよりも深く頭を下げた。

俺は力尽きたように座った。隣にいた花菜がゆっくりと俺の手を握ってくれた。

公共の場でこんなことをしたものだから俺達はすっかり従業員やお客さん達の注目の的になった。なので、俺達は逃げるようにその店を出た。

「この店には二度と来れないわね」

花菜は涙で真っ赤になった目をして俺に微笑みかけた。

「そうだな」

俺も微笑み返した。

「ありがとう天空、ベースの件は明良に逢ってからでいいか?」

「ああ」

「じゃあ家までは行けないから途中まで送る、すまない」

「気にしなくていいよ。途中からデートして帰るから」

と言って俺は花菜さんを見た。花菜さんは顔を赤くして俺の腕を叩いた。

「何だ!やっぱりお前ら付き合ってんのか?」

「まあね」

彼女はまた俺の腕を叩いた。

「花菜、天空を頼むな」

コウは真面目な顔をして花菜さんを見た。

彼女は黙って頷いた。

そして、帰りの車の中で俺達は音楽の話をしながら時間を過ごした。そしてコウと別れた後、俺達は本当に初めてのデートをした。

「何か恥ずかしいわ」

「何で?」

「こうして二人で歩くの初めてだし・・・、しかも手繋いでるし」

と彼女は俺を軽く睨んだ。

「俺は嬉しい。こんな風にして恋人同士みたいに街を歩きたかった。みんなに俺達の関係を見せびらかしたい気持ちだよ」

「やっぱり子供ね」

「子供扱いすんな!」

「はいはい」

彼女はそう言って笑って、初めて体の力を抜いて俺に付き合ってくれた。そして、その日、俺は彼女を家の近くまで送って、初めてキスをした。俺にとっては初めてだったから、ドラマで見るみたいにしたけど、あれで良かったんだろうか・・・。彼女はその後、俺の胸に顔を埋めて俺達はしばらく抱き合っていた。

そして更に嬉しいことに彼女が帰り際に

「おやすみ、天空」

と俺を呼び捨てにしてくれた。俺は一瞬理解できなくて彼女が走り去る背中に慌てて声をかけた。

「おやすみ花菜!」

彼女は制服のスカートを翻して、俺に微笑みかけると手を振って帰っていった。

正直、めちゃくちゃ幸せだった。年上なのに可愛い彼女に俺は毎日毎日惹かれていく。


再会、そして・・・


「キス?」

「そう!まじで幸せ。しかもお互い呼び捨てになって、二人の距離が縮まった気がするんだよな~」

「俺達は前から呼び捨てだけどな」

「お前らは同い年だろうが!っつうか、お前と盛岡っていつからそういう関係よ?何で俺に教えてくれないわけ?水臭いなあ」

「お前はいろんな事で大変そうだったし、それに俺達はっきり付き合ってるって感じじゃないし」

「は?それどういう意味だよ」

「盛岡はああ見えても結構大人なわけよ。大人っつうかドライっつうか」

俺は何度か盛岡と話したことを思い出した。

「そうかもなあ」

「だから俺が告白した時も『嬉しい!私も好きだったの!』的なもんじゃなく『私を?へえ、珍しい趣味』って冷静に言っただけで、それからは部活が終わったら一緒に帰るとか、電話するとかそんな感じだしなあ」

「って事は付き合ってねえじゃん!」

「だからお前に言ってなかったんだよ。だって振られたかどうかもわかんない感じだろ?」

「わかんねえ女。けど、お前はいつから盛岡好きだったんだよ?」

「ああ、お前と行ったライブの時。お前がいない間にいろいろ話してて、それからかな」

「ふーん」

あの時にそんなことになってたんだ。まあ、恋に落ちる時は突然って事か・・・じゃあ、俺も花菜を好きになったのは別に珍しいことじゃねえのか。

それから俺達は雄三の家で恋愛トークを繰り広げて、夜に家に戻ろうと雄三の家の玄関を出た途端俺の家から俺の家の物だと思われるフライパン、お玉、その他もろもろが出てきて家の前に止まっている見覚えのある車に激突している。

流石に近所の人達が何事かと窓や玄関からおそるおそる顔を出している。

激突されたのはコウの車だった。コウが来ている。

そして、コウが追い出されて玄関に出てくるのが見えた。俺はコウに駆け寄るかどうか迷った。

「明良!明良!」

コウが大声で明良を呼んでいる。

「明良!頼む!話を聞いてくれないか!」

「うるさい!帰れあほ!」

すっかり関西弁丸出し。かなり怒っている?

「帰らへんぞ!」

こっちも負けじと関西弁。

いきなりドアが壊れるかと思うくらいの勢いで開いて、コウのおでこを直撃した。この前の俺みたいだった。コウはおでこに手を当ててよろめいた。

明良が玄関から出てきてコウに歩みよるとコウの左頬を思い切り殴った。

夜の静けさの中、その音は近所中に響いた。近所の人達は何事かと、警察を呼んだ人もいたみたいで、俺はそのおまわりさんを説得する羽目になった。

コウは衝撃でよろめいたものの、かろうじて壁にもたれていた。明良はそれを静かに見ていた。コウは明良に向き直った。だけど、口から血が流れていた。

「もうええんか?もっと殴らんと気がすまんやろ?」

「何で離婚届出さんへんかった?」

搾り出すような声で明良が言った。は明良の表情は見えなかったが、全身が震えていた。しばらく二人は向き合ったままだった。二人の間には入り込めない空気が流れていた。

「すまない」

コウが頭を下げた。

「ごめん。俺、無理やったんや。断ち切る事なんてできへんかった。俺は明良の夫で、天空の父親でいたかった」

「・・・そやったら勝手にしたらええ。けどうちらには関係あらへん」

明良はそう言うと玄関に向き直った。その背中にコウが叫んだ。

「一緒にいたい!今更勝手なんはわかってる。許してもらえるなんて思ってへんけど、それでも俺には明良と天空が必要なんや」

「勝手な事言わんといて!」

明良はコウに背中を向けたまま言った。

「もう、無理なんや。帰って」

その最後は静かに言った。

「お騒がせしました!」

明良は近所の人達に大きな声でそう言って頭を下げると

「天空!家に入りなさい」

と俺に向かって言った。俺がいた事を知っていたんだ。

それでも俺は明良の顔をまともに見る事ができなかった。そう、明良は泣いていた。俺は生まれて初めて母親が泣いているのを見た。俺が高校に合格した時、次の日、明良の目は赤く腫れていた。だから泣いていたのはわかった。だけど決して俺の前では泣かなかった。そんな明良が顔をぐちゃぐちゃにして泣いている。その顔は前に花菜が俺の前で大声で泣いた時と似ていた。

「母さん」

「あんたが母さんなんて言うの珍しいね」

明良はもう標準語に戻っていた。

明良の声が大きいのも標準語がうまく話せるのも、明良が昔舞台俳優をしていたからだ。そして、俺が東京生活に馴染めるように明良は地元の人と話す時以外は決して関西弁を使おうとしなかった。

「天空」

「何?」

「あの人をどう思う?」

「え?」

「何でもないわ。部屋に戻りなさい」

「俺は、時間をかけてゆっくり家族に戻れれば・・・って思う。でも明良が!明良が嫌なら、俺は明良に従う」

「あんたは私を恨んでないの?」

「恨む?明良を?何で?」

「あなたを父親のいない子にしたのは私だからよ」

「明良が出ていけって言ったのか?」

「そうよ。私はどこかで、弘毅に音楽を続けて欲しいと思っていたのかもしれない。だから音楽を続けたいと言った弘毅に、だったら家を出て行って下さいと言ったの。あの人は不器用な人だから、音楽と家庭を両立できないってわかってた。私は、弘毅の息子であるあなたさえいれば、生きていけるって思った」

ここで明良は大きなため息をついた。

「でも、それは私だけの身勝手で、あなたを13年間も・・・一番父親を必要としていた時期に父親から引き離してしまった。許される事じゃないわ」

「どうして離婚届を出さなかったんだよ」

「私は、あの人の妻でいたかった。天空の父親でいて欲しかったの」

「もしコウが出していたら、その時はどうするつもりだったんだよ」

「どうもしないわ。それが彼の出した結論なら受け入れるつもりだった」

沈黙が流れた。俺は心底むかついた。結局俺は両親の身勝手さに振り回されている。

俺はこの両親に怒りをぶつける権利を持っているはずだ。

「コウをこの場に呼び戻す」

「え?」

涙を溜めた大きな目で明良が俺を見た。

「明良に文句は言わせない」

「ちょ、ちょっと待ちなさい!」

「明良に文句を言う権利はない!」

俺は明良を睨んでそう言い放つと、携帯でコウの電話番号を呼び出し、かけた。しばらくしてからコウが出た。

「天空?」

「今から家に来い」

「え?でも明良は」

「明良には何も言わせない。俺が話があるんだ」

俺はそう言って一方的に電話を切った。

それからも明良は俺の顔をじっと見つめたままだった。それから5分もしないうちに家のチャイムが鳴った。多分、コウはまだ家の近くにいたのだろう。

「どうした?」

「とにかく入って」

コウがリビングに入ると明良は一瞬その姿を見て、視線を伏せた。

「話は聞いた」

「え?」

「身勝手な両親だ」

二人は言葉を失っていた。

「子供って何なんだよ!俺はあんた達の玩具じゃねえんだよ!俺には心があるんだよ!それを無視して自分達のことばっかり考えやがって!」

「天空」

「何が天空だ!結婚して子供をつくったって事は責任が生じるんじゃねえのかよ!親としての責任が!それを夢の為に放棄した父親!そして放棄させた母親!勝手なことばっかりしてんじゃねえよ!」

俺はその場にあるものを手当たり次第に投げまくった。

「あんたら大人だろ?親だろ?だったら責任もってくれよ!」

二人は黙ったままだ。

「何とか言えよ!言い訳してみろよ!」

俺はもっともっと言いたい事があった。でも、たぶん言わなくてもわかるだろうと思って、これ以上は何も言わなかった。

「殴りなさい」

「え?」

「私達を殴りなさい天空」

「何言ってんだよ明良」

「そんな事で償えるなんて思ってないけど、私達は罰を受けるべきだわ。そうよね?」

そう言って明良はコウを見た。

「そうだな。殴れ天空」

二人は俺の前に立った。

「明良は、女手一つで俺を13年間育ててくれて、感謝してる。だけど、親父を追い出したことは許せない。だから」

俺は平手で軽く明良の頬をひっぱたいた。

「こんなのでいいの?」

「言っただろ、育ててくれた事、感謝してるって。けど、コウは簡単に許せないからな」

「ああ」

俺は思いっきり殴った。でも、さっき明良にぶたれていた方を殴る事ができなかったので、左パンチだったけど。

「お前左利き?」

「違うよ。さっき明良にぶたれてただろ?だから」

「お前」

「俺、こんな事ぐらいで許すつもりはないからな。・・・コウに聞きたい、コウは今から俺達を養っていく覚悟があるのかよ?今までずっと音楽しかしないで一人で生きてきて、急に家族が二人も増えて、しかも養っていかなきゃいけなくて、そういう事していく覚悟はできてんのかよ!」

「覚悟がなきゃさっさと逃げ出してる」

「簡単だと思うなよ」

「ああ」

「したら後は二人で解決してくれ。俺はどんな結論が出ても従うよ」

「天空はどうしたい?」

明良が聞いた。

「俺?俺は3人で一緒にいたいよ」

俺はそう言うと自分の部屋へ戻った。そして、花菜に電話をした。そして思い切り泣いた。

「今から行こうか?」

「何言ってんだよ、今夜中の3時だぞ」

「何時だろうとかまわないわ。逢いたいの」

俺はその花菜の言葉で自分の抑えていた気持ちが解放されるのを感じた。

「俺が行く。待ってて」

俺は上着を持って階段を下りた。

「何?」

リビングを通ると、明良とコウがまだそこにいて、二人とも驚いた顔をして俺を見た。

「花菜に逢いに行く」

「花菜って・・・あんた今何時だと」

「送ってやるわ」

「弘毅!」

「父親らしい事してやりたい。これが初めの一歩や」

「あんまり甘やかさんといてや」

「ありがと」

俺はそう言って、コウに車に乗せてもらった。

「で、二人の話し合いは?」

「俺の就職先が決まるまではこのまま別々に住む」

「そんな簡単に職が決まるのかよ」

「決まらんやろうなあ、一度もまともに働いた事ないし。それにバンドかって中途半端にはできへん。何にせよすぐにどうこうできる問題やない」

「先の長い話だな」

「ああ。悪いな、振り回して」

俺はずっと疑問に思っていた事を聞いた。

「13年経って、明良は年とったって思う?」

「は?」

「だって結婚した時点でもう32歳のおばさんだったし、今はもう48歳だぜ。コウは、まだ38歳で若いし、男盛りでもてるのに何でわざわざあんなおばさんと苦労してまでやり直そうと思うのか、ちょっと不思議でさ」

コウの横顔は笑っていた。

「結婚した時点で32歳のおばさんだったわけだからそれ以降若くなる方が不自然やろ」

「そりゃそうだけど」

「まあ、聞け。明良と結婚したのは、明良と結婚するって出会った時に思ったからや。それでもそん時俺はまだ18歳やったし、夢もあった。こんな年上と結婚なんてするわけない、ありえへんって思ってた。そやから適当に相手してたし、うっとおしくなったら突き放した」

「コウ!」

「けどな、何か頭の中を離れへん。他の女と付き合っても明良と一緒にいた時間が忘れられへん。好きなんかもしれへんけど、軽い気持ちで付き合える女とちゃう。付き合うってなったら結婚や、そんなんは絶対嫌やった、俺はまだまだ遊びたかったしな」

「それなのに何で?」

そこで、花菜の家の近くに来てしまった。

「着いたで」

「気になるだろ」

「久しぶりに明良に逢った時思ったんや。遅かれ早かれこいつと結婚するんやったら今でもええかなって」

「今でも、明良を好きなのか?」

「好きやなかったらやり直さへんやろ」

「どこが?」

「天空、覚えとけ。ほんまに人を好きになったらどこが好きとかはない。理屈なしに、惹かれる。むしろ嫌いなところがないんや。嫌なとこは一杯あるけどな」

「意味わかんねえ」

「いつかわかる時がくる。その相手が花菜やとええけど、花菜は涼二と」

「別れたよ」

「涼二は簡単に諦めへんぞ」

「どっちの味方なんだよ」

「そりゃお前に決まってる。頑張れ」

「おう。ありがと、コ、お、親父」

「ああ」

俺は照れてしまったが、コウは心底嬉しそうな顔をしてくれた。

車から降りて、近くの公園に行き、花菜に電話をした。

「天空」

花菜が走って来てくれた。

俺は花菜を強く抱き締めた。愛おしさと、そして『涼二は簡単に諦めへんぞ』というコウの言葉に不安を感じて、何処にも行かせない為に。

「どうしたの?」

「俺に親父ができた」

「って事はコウが戻ってくるの?」

「ああ、いずれな」

「いずれ?そっか・・・、複雑な気持ちだな」

「何で?」

俺は花菜を離した。

「コウは、コウの音楽は孤独だからこそ魅力があるの。コウが家族を持つって事は音楽を辞めてしまうって事よね・・・」

とても寂しそうな花菜の顔。彼女は俺の幸せよりもコウの音楽の方が大切なのか?

「そんなに嫌か?」

「え?」

「俺に家族ができる事よりも、コウが音楽を辞めてしまうって事の方が花菜にとっては重要なんだな」

「何言ってるの?そうじゃないわ、そうじゃないけど・・・私の目標はずっとコウの音楽と共にある事だった、だから目標を見失ってしまったって思っただけで、天空が幸せになる事はいい事だし」

「いい事だし何だよ!」

「天空」

花菜は俺に手を伸ばしてきた。けど、俺はその手を無視した。

「やっぱ花菜の頭の中には音楽の事しかないんだな。コウと同じだ。音楽が一番、好きな人は2番ってか」

「順番なんてないわ!」

「だったら何でそんなに寂しそうな顔してんだよ!」

俺達はしばらく睨みあった。

「ごめん、俺」

「今は何を話しても無駄ね。せっかく来てもらったのに悪いけど、私家に戻るわ」

「待って花菜」

俺は花菜の手を掴んだ。花菜はその手をゆっくりと離して歩いて行った。

俺はブランコに座って、項垂れた。

「駄目かもな、俺達」

何処かで犬の鳴き声がした。


第7章  大人になりたい


俺は朝までその公園を動く事ができなかった。だから朝帰りをした俺を明良は呆れたような顔で見たが、その後、息子の異変に気がついたのか

「何かあったの?」

と聞いた。いつもの俺なら無視して部屋に戻るだろうが、今日の俺は明良に聞きたいことがあった。だけど、明良は仕事があるので、話は夜になった。

俺は寝不足のまま学校に行き、授業中、居眠りばかりしていた。時々雄三が来て、昨夜の大騒動について聞いてきたが、またゆっくり話すとだけ言って、また眠った。俺はこうやって眠ることができるが、明良はきっと居眠りもできず頑張ってるんだろうなあ、夜、疲れているのに話をしていいのだろうか・・・などと思いながら、俺は家に帰ってからも花菜との事を考えながらつい寝てしまっていた。

ドアをノックする音がして俺は目を覚ました。

「ご飯食べる?」

俺は時計の針を見てびっくりした。もう20時になっていたのだ。明良は仕事から帰って眠ったのだろうか?

「明良、少しは寝たの?」

「うん。だから食事は手抜き」

確かに目の前の料理はスーパーで買ってきたお惣菜を温めただけの手抜き料理だった。

「確かに」

俺は少し笑った。食べ終わってから俺と明良はコーヒーを入れて、俺は花菜との出会いから俺達とコウとの関係を含め、これまでにあった事を話した。

明良は聞いている間、あまり俺の顔を見ずに、コーヒーカップを見つめていた。時々寝ているんじゃないかと疑ったくらいだ。

「そう・・・」

明良はため息とも相槌とも思えるものを発した後、俺の顔を見て言った。

「天空はどうしたいの?」

「え?」

「このまま、その花菜さんと終わってしまってもいいの?それともやり直したいの?」

「それがわかれば苦労はしないよ」

「だったら終わりにしなさい」

「え?」

きっぱりした言い方だった。

「何言ってんだよ!今わからないって」

「そうよ。あんたは迷ってる。だけど、迷うって事自体、既に花菜さんから心が離れている証拠なのよ」

「そうじゃない。俺は自分が花菜にとって音楽以上のものでない事が悔しくて、コウに負けてる事が悔しくて・・・それでわからなくなってるだけだ」

「何がわからないの?」

「彼女の気持ちだよ」

「それは彼女があんたと音楽どっちが好きかって事?」

「そうだよ」

「そう・・・」

「俺が聞きたいのは、明良はコウにとって音楽が一番大切だってわかっていたのにどうして結婚したのかって事だよ」

「好きだからよ」

あっさりと答えられてしまった。

「でも決して一番にはなれない。2番目でも良かったっていうのかよ」

「ええ、2番目だろうと3番目だろうとかまわないわ。私は彼を好きで一緒にいたいって思ったし、彼の好きな中に何番目だろうと私が入っていて、一緒にいたいと思ってもらえたのならそれで十分。私は、彼が私を好きだから好きになったんじゃない、初めて逢った日から私が勝手に彼を好きでいるだけだから」

「そんなのおかしい!そんなの独り善がりだ」

「天空、考えてみて。天空は私が弘毅に裏切られてその原因である音楽を憎んできたと思っていた。だからどんなに自分が音楽に惹かれても、私の気持ちを考えてこれまではずっと気持ちを抑えてきた。でも、弘毅の音楽に触れた時、音楽がやりたいと思って、私を裏切った。それはあんたの中で私よりも音楽が大切になったからでしょ?違う?」

「違う!裏切ってなんかない。俺は明良が嫌だって言うならやらなかった」

「でも黙っていた」

「それは・・・」

「責めてるわけじゃないわ。それに落胆してるわけでもない。それであんたの中で、大切なものの順位が入れ替わったって思ってるわけじゃないもの」

「入れ替わってなんかない。俺にとっては明良が一番だ」

「だったら私が、今から音楽の事も花菜さんとの事も反対だと言ったらあんたはどうする?」

「そんな事・・・そんなのわかんねえよ」

「意地悪な質問だったわね。16歳のあんたにそんな決断をさせるのは酷だったわ。私だって30歳過ぎてからわかった事だものね」

「明良」

「今、彼女は混乱してるんだと思うわ。だって目標としてきたものが突然姿を消したら、あんただって混乱するでしょ。今までそこだけを目指してがむしゃらに頑張ってきたのに、それがなくなったら目指す場所がわからなくなるだけじゃない、自分の今いる場所さえわからなくなる。何をしていいのか、今まで自分のしてきた事だって何の為だったのかわからなくなるわ。今、彼女は弘毅という目標を失ってそういう状態にあるの。もしそれが自分だったらって考えてみなさい。そして、そんな時、好きな人からあなたがしたような仕打ちをされたと考えてみなさい。少しは彼女の気持ちがわかるはずよ」

「俺は・・・」

「あなたはまだ若い、そんなことわからなくて当然よ。私も弘毅も30歳過ぎてからわかったんだから」

明良が笑った。そして俺の頭をいつものように軽く数回叩いた。

「天空、急いで大人になる必要はないのよ」

明良はそう言ってやっとコーヒーに口をつけた。

「俺はどうすればいい?」

「自分で考えなさい。人生は長いの、何も焦る必要はないわ。それにしても・・・弘毅の音楽は人の人生を左右してしまうものなのね・・・」

明良は大きくため息をついた。

それから俺は明良の言った事を自分なりに考えた

俺のとるべき行動は何だろう。彼女の側にいて支えてやることなのか、今は距離をおくべきなのか、どうしたらいい?

それから1ヶ月間、花菜と会わないようにした。今会ってもまた喧嘩になってしまうような気がしたからだ。コウは1週間に1度、家に来て食事をして行った。その時に花菜との話をしたが、コウは今は会わない方がいいと言った。花菜は今、コウとも会わないようにしているようだ。


携帯がなった。俺は咄嗟に花菜だと思った。だけど、電話の相手は雄三だった。

「今から家に来い」

「は?」

そのまま電話は一方的に切られ、折り返しかけても繋がらなかった。一体何だっていうんだよ。しかし、その謎は雄三の家に行くことで判明した。

「何でこういう事に・・・」

そこには盛岡と深雪がにらみ合って座っていた。

「盛岡が遊びに来てたとこに、深雪が相談にきて」

「ねえ、里村君どうなってるわけ?まさかまたこの子とどうにかなろうとしてるんじゃないでしょうね?」

「そんなことはないけど、盛岡には関係ないだろ」

「関係大有りよ。花菜さん、全然練習に来ないし、音楽辞めちゃうかもって言ってるのよ!」

「え?」

「勝手に辞めればいいじゃない!それと私達とは何の関係もないわ」

「辞めるって言ってるのか?」

「本人に直接聞いたわけじゃないからよくはわからないけど、榊先生が説得してるって」

「榊が?」

俺は嫉妬で頭がおかしくなりそうだった。

「どうしたの?」

「おい天空!」

俺は雄三の家を飛び出して、直接花菜さんの家に向かった。正直、俺は行ってどうするなんて事は考えてなかった。

彼女の家の前まで来て、俺は彼女の携帯に電話をした。しかしかからず、しばらく近くの公園で待つことにした。1ヶ月前、彼女と喧嘩をした公園だ。そこで、俺は少しずつ頭が冷えてきて、自分が怒りにまかせてここに来た事を後悔し始めていた。今、彼女が頼りにできるのは榊だけなのかもしれない。俺には音楽のことはわからないし、彼女の才能だってわからない。彼女の才能を見出したのは榊なのかもしれない。だとしたら、彼女が音楽を辞めないように説得できるのは俺じゃなく榊なのかもしれない。・・・帰ろう。

俺がそう思って公園を出たところで花菜の声が聞こえた。

「帰って!」

「花菜!」

「こんな事を続けてたら姉さんが傷つく。お母さん達だって変に思うわ」

「お前が学校で俺を避けなければ家まで来ない」

「話したくないの」

「里村のせいだろ。あいつが花菜に近づきさえしなきゃコウが音楽を辞めるなんて言い出す事もないし、そのせいで花菜」

「やめてって言ってるでしょ!」

「お前の才能はこんなところで終わらせていいものじゃない。コウが音楽を辞めるのは仕方ないことだとしても、それでお前まで辞める必要はどこにもない」

「あなたの台詞とは思えないわ。クラウディアのコウに惚れていたのはあなたじゃない。そのあなたが仕方ないなんて・・・よくそんな事が」

「お前が高校を卒業したら離婚する」

「え?」

「二人でアメリカに行こう。そしてそこで」

「馬鹿なこと言わないで!頭がおかしくなったの?」

「おかしくなったのかもな。俺はもう悠里とは一緒にいれない」

「姉を、これ以上傷つけないで!」

「だったら俺を傷つけてもいいのか!」

そこで榊は彼女の両肩を持った。

「先生何してんすか?」

「里村?」

「天空?」

「里村、お前こんな時間にこんな所で何してるんだ?」

「先生こそ、こんな時間に家庭訪問ですか?」

「話を聞いていたのか?」

「すいません、聞いてしまいました」

「とにかく帰れ」

「先生も帰った方がいいんじゃないですか?」

「お前には関係ない」

「帰って榊」

彼女の目は真っ赤だった。俺はそれだけでも榊を殴りたい気持ちだった。

「話はまだ終わってないからな」

榊はそう言って帰って行った。俺は彼女の顔を見る事ができずに

「じゃあ、俺も帰る」

「何しに来たの?」

「音楽辞めるって聞いて・・・」

「責任感じたわけ?」

「そんなんじゃないけど」

「感じてよ」

「え?」

俺は驚いて彼女の顔を見た。彼女の目はまっすぐに俺に向かってる。

「天空はどうしたい?」

「何を?」

「何でもないわ。おやすみなさい」

彼女は俺に背を向けて玄関に向かった。たぶん、いや、絶対、今引き止めるべきだ。引き止めて抱き締めるべきだ。心はそう思っているのに、体が動かない。だって、今引き止めても俺には彼女をどうする事もできない。そんなのは無責任だ。

一緒にアメリカに?それは榊だからできる事で俺にはできない。それが大人と子供の差。『天空、急いで大人になる必要はないのよ』

明良、俺は急いで大人になりたいよ。大切な人を守れる力が欲しい。俺は今ここでこぶしを握り締めることしかできない。



第8章  雨降って地固まる?


冬が訪れた。そして俺は何もできないままだった。

「誕生日のパーティー?」

そんな意気消沈した俺にいきなり明良が提案してきたのは明良とコウの誕生パーティーをしようという事だった。

「何でそんなもんしなきゃいけないんだよ」

「うるさい!14年ぶりに家族で祝える誕生日なんだからね」

「だったら俺の誕生日にすりゃいいじゃん」

「あんたの誕生日は終わった」

「そうだった」

「で、パーティーって誰を呼ぶんだよ」

「そうね、雄三に深雪ちゃん。雄三の彼女でしょ、クラウディアのメンバー、コウの友達。そして・・・花菜さん」

「何で?」

「会ってみたいわ」

「だったら深雪はやめといた方がいい。それにコウの友達ってのもな」

「事情はわかってるわ。だからこそみんなでやりたいの」

「どうにかできると思うのかよ?」

「さあね~、それはわかんない、でも、何もしないよりも今よりひどくなっても何かしたい性格なの」

「破壊型だっけな」

「そ!さーて、頑張ってよ天空」

「は?俺かよ!」

「当たり前でしょ、あんたの両親の誕生パーティーなんだから」

「はめられた」

俺は久しぶりに心から笑った。明良は流石だ。

「へえ、ええな、それ。おもろそうや」

そしてコウもノリノリで大賛成。


で、12月のコウの誕生日と2月の明良の誕生日の真ん中の日にパーティーをする事になった。そして、誰が来るのかお互いわからないまま当日を迎えることとなった。

俺はその日までに自分の気持ちを整理した。今度こそ、花菜にちゃんと自分の気持ちを伝えられるように、他の誰かと比べてではなく、俺自身が花菜をどう思っているか、どうしたいか、ちゃんと伝えなきゃ前には進めない。今の自分にできる精一杯の事をする。

当日、一番最初に登場したのは深雪だった。深雪は明良にべったりくっついて準備を手伝っている。

「ほらほら、あんたが働かないでどうすんの?」

「はいはい」

明良は結局自分で動いてしまっている。そういう性分みたいだ。

それから次が雄三と盛岡、そして花菜だ。

「お邪魔します」

「お邪魔します!盛岡と言います!お招きいただいてありがとうございます!すごく嬉しいです!」

盛岡がかなり興奮気味に言った。しかもまた服装がすごい。この前のライブの時の服装に近い。

「盛岡はクラウディアのファンなんだよ」

俺が明良に言った。

「へえ、そうなんだ。ありがとうね。今日はメンバーも来るし、楽しんで行って」

「いえいえ」

花菜が控えめに盛岡の後ろから出てきて

「沢村花菜です、始めまして。本日はお招きいただき、ありがとうございます」

と明良に挨拶をした。

「始めまして。お会いできて嬉しいわ」

と、微笑んだ。

俺は何も言わず、彼女の手をひいてリビングに連れていった。深雪は彼女の姿を見ると、敵対意識を剥き出しにして、彼女を睨みつけた。俺はそんな深雪を無視した。可愛そうだとは思うが、中途半端な同情や優しさは余計に深雪を傷つける。そして、花菜も傷つける。

そんな花菜をかばうように盛岡は隣に花菜を座らせた。

その後、コウと一緒にクラウディアのメンバーと榊が現れた。盛岡は何も知らずに大興奮している、そんな盛岡に雄三は呆れ果ててしまっていた。花菜と榊はお互いにここにいる事に驚いている様子だった。彼女は助けを求めるように俺を見た。俺は彼女の横に座って手を握った。

「ではでは、皆さん揃ったようなんで、俺と俺の妻明良とのバースデーパーティーをひらきたいと思います」

コウが大声でそう言った。全く何が俺の妻だよ。さんざん放ったらかしにしといて勝手なもんだぜ。

「では、乾杯の音頭は私達の愛息子の天空に!」

明良が言った。

「冗談だろ!聞いてないぜ」

「ほらほら文句言わないの」

「やれよ、天空」

全く勝手な両親だ。

「本日は俺の勝手な両親の為に貴重な時間を割いて頂き、ありがとうございます。明良、コウ、誕生日おめでとう」

と俺は二人に言った。そして、みんなは口々におめでとうと言った。

しばらくの間は食事をしたり談笑が続いていたが、その空気を破ったのはコウだった。

「今日はみんなに報告がある。特にクラウディアのメンバーに。知ってのとおり、この先俺は、妻の明良、息子の天空と家族として生きていく事を選んだ。でも、音楽を辞める事にはすごく躊躇があって、正直迷っていた。でも、そんな中途半端な状態で家族でいる事も、クラウディアを続けていく事も、とても失礼な気がしていた。そして、やっと決心がついた。俺はクラウディアを抜ける。勝手ばかりで申し訳ない!」

コウはメンバーに頭を下げた。

「音楽やめんのか?」

メンバーの一人が言った。

「クラウディアのように仕事としての音楽はしない。趣味としてだけは許してもらうつもりやけどな」

と明良を見た。明良は微笑んで頷いた。

「クラウディアを抜けさせてください」

コウはまた頭を下げた。しばらく沈黙が続いたのち

「仕方ないなあ。そしたら、しばらくは息子を借りるぞ」

とさっきのメンバー、確かギターの人が言った。

「え?」

これにはみんなが同じ反応だった。そのメンバーと俺とをみんなが交互に見た。

「え?お、俺?」

「ちょっと待て。こいつを巻き込むわけにはいかへん」

「明良さん!無理なお願いは承知だ。だけど、コウの音楽を引き継げるのはやっぱり息子の天空君しかいない。コウの事もあるから音楽の道を目指す事には絶対反対なのはわかってる。だけど」

「反対よ」

明良は二の句をつなげさせなかった。

「天空には普通の生活をさせたい。普通に高校を卒業して、大学に入学して、普通の社会人として生きて行って欲しい。私達のような人生は送って欲しくないの」

「でも」

「勿論、こいつには音楽をやりたいって気持ちがあるわ。だけど、それは趣味程度にしておいて欲しいの。プロで食っていく事の難しさは私達が一番よく知っているから」

と、明良はコウの顔を見て言い、コウは明良に頷いた。

「シュン、悪い。俺も天空には普通の人生を送って欲しい」

「俺はやりたいよ」

「え?」

「天空!」

「俺はクラウディアでやりたい!俺の好きな音楽、俺の好きな人はクラウディアにいる」

俺は花菜さんを見た。花菜は驚いた顔で俺を見つめている。明良がため息をついて、続けた。

「天空、あなたは今しか見えていないわ。この先、その気持ちがいつまで続くの?その気持ちが消えた時、あなたには何も残らない」

「嘘だね」

「え?」

「明良は嘘をついてる。明良は舞台俳優として生きた数年を後悔してるの?やらなきゃ良かったって本気で思ってるの?コウだってそうだよ。そんなに有名にならなくても音楽で生きてきた人生は後悔してないはずだよ。俺はそんな夢の為に生きた二人の息子なんだ、普通に生きるなんて無理な話だろ」

「後悔はしてるわ。その為に一体どれだけの人を苦しめてきたか・・・、勿論私自身も苦しんだわ。夢を追うっていう事はたくさんの犠牲を、自分だけじゃなく回りの人達も含めての犠牲を伴うものなの。好きってだけじゃ、自分の人生を後悔することになるのよ」

「コウもそう思ってんのかよ」

「明良の言う事は正しい。余程強い意志を持って望まんと、夢に自分の人生を狂わされる」

「クラウディアのコウの言葉とは思えねえな」

榊が口をはさんだ。

「さっきから聞いてりゃ、普通じゃねえか。俺はそんな奴の作る音楽に惚れこんでたっていうのかよ!情けねえよ、コウ。だろ?花菜!盛岡!」

花菜は目を伏せている。盛岡は怒りで震えながら立ち上がって発言した

「確かにそうよ!クラウディアのファンはそんな奴の音楽に惹かれてたっていうの?だったら私達も人生狂わされてるのかも!」

「おいおい!言いすぎだぞ」

雄三が制した。

「俺達が言いたいのは覚悟を決めろって事や」

「そう。覚悟を決めてやるなら後悔しても失敗だとは思わないから」

「コウ、明良」

「どんな人生を選んでも人は後悔するの。だって選択肢はたくさんあるんだから」

「天空、考えろ。そしてちゃんと考えて出した結論なら俺達は応援する」

「私達はあんたが望む人生を応援するだけよ」

「俺は・・・」

「花菜がいるってだけでクラウディアに入るのは許さんぞ」

また榊が口をはさんだ。

「あんたは関係ない!」

「ファンだって何かを言う権利はあるわ!」

盛岡が言った。

「いいかげんな気持ちでクラウディアも花菜も手に入れようなんて甘いんだよ!」

「榊!」

さっきまで黙っていた花菜が叫んだ。

「いい加減にして」

「花菜」

「花菜、目を覚ませ。俺ならお前を幸せにしてやれる。音楽も続けさせてやれるし、勉強だって助けてやれる。里村に何ができる?何もできない、まだこいつは子供だ」

「私だって子供だわ」

「お前は違う。才能がある、夢を現実にできるんだ」

「さっきから聞いてたら俺の息子に対して失礼な発言ばっかやな涼二」

「あんた達親子のせいで一つの才能が潰されかけてるからですよ」

「涼二!」

「俺はあんたに憧れてた!あんたが好きだったんだ!俺は音楽を諦めて親の言うがままに教師になった。毎日がつまらなくて、そんな時、あんたの音楽に触れた。ヤスさんがあんたの知り合いで紹介されて話をした時、音楽だけじゃなくその人間性にも惚れて、それで教師という職業も好きになってきたんだ。そして、花菜に出会って、惚れて、俺は花菜と一緒に夢を、諦めた夢をもう一度見れるんだって。順調だった・・・悠里が現れて全てが駄目になるまではな。でも俺は諦めなかった。俺達の愛が変わらない限り、俺達は一緒になれるって信じてたんだ。それなのに」

榊は俺を睨みつけた。

「あんたの息子さんが横から花菜にちょっかいを出した上、あんたから音楽を奪い、花菜からも音楽を奪おうとしてる。俺から全てを奪おうとしてるんだ!」

「涼二」

「榊先生、あんたは自分の夢を他人まかせにしてない?」

「何だって?」

明良が続けた

「弘毅も花菜さんもあんたにとって叶えられなかった夢。二人に出会って、いつのまにか現実が空想で夢が現実だと思うようになったんじゃないの?あんたは現実高校教師で悠里さんって人の夫なんだよ。そこから目をそらしちゃあんたの人生は先へ進まない。教師を辞めるのも離婚するのもけっこうだけど、それを誰かのせいにするんじゃなく」

「あんたに何がわかるんだよ!俺からコウを奪っておきながら」

「もうやめて!」

花菜がまた叫んだ。

「あなたがそんなんだから、お姉ちゃんは、いつまでも芝居を続けてるんじゃない」

「芝居?芝居だと?」

「お姉ちゃんは狂ってなんかないわ。この前、お姉ちゃんが私に会いたいって実家に来たの。その時のお姉ちゃんは私の知ってるお姉ちゃんで、これまで芝居をしていた事を告白して、その事を私に謝ったわ。お姉ちゃんは榊の事をとてもよく理解してる。お姉ちゃんは榊に自分の選んだ人生を後悔して目をそらし続けるのではなく、現実に目を向けて欲しいって。現実に目を向けるのは辛いことだろうから、側でその現実を受け止める手伝いをしたい、どんな痛みが伴っても一緒に乗り越えていきたいって、そう思ったって、好きだから一緒に乗り越えられるって・・・。でも、自分じゃ駄目だった、だから離婚する、私に、榊と一緒になってって、そう言いに来たの」

「悠里が?」

「そう・・・、姉は命をかけてまであなたを救おうとしたのよ。それなのにあなたは一体いつまで現実から逃げているつもりなの!私が好きになった榊は、教師が好きだって言った榊よ」

「花菜」

「すごい愛ね。狂ったお芝居なんてすごく難しいのに」

明良が言った。

「涼二、頭を冷やせ。お前が一番見なきゃいけないのは教師という職業、その悠里さんっていう奥さんやないんか」

コウがそう言って榊の肩を持った瞬間、榊が崩れるようにコウにもたれかかって泣いた。

「女は強いなあ」

コウはそう言って、榊を支え続けた。

花菜は泣いている。俺は花菜を支えた。花菜は素直に俺に体を預けてきた。

「深雪」

「え?」

「深雪は俺にとって単なる友達だ。今までもこの先もずっと、それは変わる事はない」

「天空」

「私を女性として好きになる事は絶対にないの?」

「考えた事はある。だけど、やっぱり無理だった」

「沢村さんがいなくても?」

「ああ。ごめん」

「あ~あ、私って馬鹿みたい」

「馬鹿じゃないわ。深雪ちゃん、魅力的になったもの。人を好きになるって事は自分と向き合う事よ。そして、自分を変えていけるすごいパワーをくれるの。その恋が成就しなくても決して無駄じゃないし、馬鹿なことなんかじゃ決してないわ。天空を好きになってくれてありがとう」

明良が深雪を優しく抱いた。

「花菜」

「え?」

「俺は花菜が好きだ。でも俺、そればっかりだった、自分の気持ちを押し付ける事しかしなかった。好きになったらそれだけ見返りが欲しかった、あって当然だと思っていたんだ。だけど、違うんだよな。明良とコウが教えてくれた。恋愛は自然なんだって。自然に惹かれ合う、そして、たとえ離れていても自然にお互いを思い合う。相手の幸せを思う。離れたくても離れられない。今、俺にとって花菜がそういう相手なんだ。俺はまだ子供だから、頭ではわかっていても、この前みたいにわがままに自分の感情をぶつけてしまう事があるかもしれない。それでもこの気持ちは変わらない。花菜が大好きだ」

花菜は茶色の瞳をまっすぐに俺に向けている。さっきまで泣いていたその目はとても力強く俺に向かっている。

「天空、天空が私を変えてくれたの。榊と別れた時、二度と人を好きにならないと思った。それなのに天空に逢って、天空に惹かれる自分がいて、そんな自分が信じられなかった。そんな軽薄な自分が嫌で必死で否定しようとしたわ。だけど、否定できなくて、あなたが自分をどう思ってるのか、そればかり考えていた。だから今の私は幸せ過ぎて、それを失うのがとても怖い」

「失ったりしない」

「大好きよ、天空」

俺は彼女を強く抱き締めた。

「あ~も~!羨ましいなあ」

雄三が突然立ち上がって吼えた。

「ちょ、ちょっとどうしたの?」

「盛岡里美!」

「は?はい?」

「お前は俺の事どう思ってんだよ!」

「どう、どうって?」

「俺はお前が好きだ!音楽からむと馬鹿みたいにテンション高くなってついてけない時もあるし、ひどい事平気で言ったりするけど、そんなお前のパワーにすごく惹かれる。お前が俺の事好きじゃなくても、俺は好きだけど、こんな中途半端なのは嫌だ!」

すごい大声での告白だ。

「中途半端って?」

「だってお前一回も俺に好きだって言ってくれたことないじゃんか」

「好きじゃなきゃ一緒にいないし」

「好きじゃなくても一緒にいるやつもいるだろ」

「私は好きじゃなきゃ一緒にいない!それに、先に好きになったのは私なんだからね!」

「え?」

「あんたはライブの時かもしんないけど、私は初めて里村君に会いに教室に来たあなたを見た時に一目惚れして、それからずっと見てたんだから」

「だから俺の名前!」

俺は盛岡が俺に近づいてきた魂胆に初めて気がついた。スゲー。

「え?え?って事は・・・」

「この筋肉鈍感馬鹿!」

盛岡は顔を真っ赤にしている。可愛い。

「何だかすごいことになったなあ」

明良が言った。

「ほんまやな。何の為に集まったんかも忘れてしもたわ」

「まっ、バースデーパーティーなんて口実やし」

「そやな」

俺の両親は満足そうに笑っている。

「したらしきり直しや!」

「飲みなおすで!」

その宴会は朝まで続いた。とりあえず、一件落着なんだろうなあ。 


最終章 空


あれから、コウは仕事を見つけて、毎日慣れない通勤サラリーマンをしている。俺達家族は一緒に住み。喧嘩も多いが(ほとんど夫婦喧嘩)、それなりに楽しくやっている。

俺と花菜、雄三と盛岡もあれ以来そこそこうまくやっている。深雪は付き合う相手をコロコロと変えて恋愛を楽しんでいる。

俺はクラウディアのメンバーになる為にコウの猛特訓を毎日受けている。花菜は受験勉強を終え、志望の大学に合格し、クラウディアの次のライブの準備に大忙しだ。

榊は花菜のお姉さんと離婚せず、今は仲良く一緒に暮しているらしい。


4月、新学期が近づいたある休日、ベースの稽古をしていた俺にコウがいきなり言った。

「息抜きや!キャッチボール行くで!」

「は?何で俺が?一人で行ってよ、俺忙しいし」

「ごちゃごちゃ言うな。息子とのキャッチボールは父親の夢や」

「そういうのって子供の頃するもんだろ」

「子供の頃できんかったから今するんやろ。ほら用意して!行くで!」

コウは何処から持ち出したのか、っつうかあったのが驚きなボールとミットを用意して、昼寝していた明良をたたき起こした。

「ちょっと、何やねん」

「キャッチボールや」

「は?意味わからん」

最近二人は一緒にいる事が多いので明良もすっかり関西弁になってしまった。

コウはぶつぶつ文句を言う明良と俺を車に乗せ、大きな芝生のある公園へ向かった。

日曜の昼間だから家族連れが多い。俺達もそんな家族連れの一組となり、ノリノリのコウは俺にキャッチボールをさせた。そして、芝生に寝転んで今にも寝そうな明良をまたたたき起こし、キャッチボールをさせた。

やり始めると俺も明良もノリノリで、・・・しかし元々体力のない俺達家族は1時間もすると疲れきって、3人で仰向けになり、雲一つない青空を見上げる形になった。

「夢だったんだ」

「え?」

「こうやって親父とお袋と3人で青空を見上げること」

俺は涙ぐんだ。そんな俺の頭を明良とコウはぐちゃぐちゃに撫でた。

「やめろよ~」

俺はこの青空から名付けられた自分の名前をやっと好きになれた。そしてその時の空の色はいつか見た、絵の具の空色だった。この先、俺の人生にはいろんな事が起きるだろうけど、この空は一生忘れることはない、絶対に忘れない。



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