タキシード下の勲章
雨の日に店にやって来た、タキシードの男。
店主はウンザリしつつも、雨宿りをする彼の話を聞いてやろうと提案した。
真夏の雨。重たく暑苦しいだろうジャケットを脱がない男は言う。
「ジャケットを脱いだら、お前もその俺が嫌いになるから」と。
※人によって気色の悪い描写があると思うのでご注意を。
あれは7月も中旬の、雨の日だったかな。
湿気と熱に舌打ちしたくなる気持ちで、こめかみに流れる汗を拭って帳簿をつけてたんだけどさ。
雨に濡れた白いタキシードを、上までぴっちりしめたあの男は、僕よりずっと汗をかいて、それなのにガタガタ震えてるもんだから、「その上着を脱ぎなよ」って声を掛けてやった。
そうすると、彼は苦い顔をして言うんだよ。
「脱げないんだ。脱いだら、あんたは…いや、あんたも俺を蔑視する。」
タキシード下の勲章
いっつも笑顔で品行方正な店主が実は、喧嘩ばかりの両親の元を高校卒業後に飛び出し、でかい街で夢を追いかけてやると食料品店を開きましたとさ。
そう事実を言ったら、お得意様となってくれているご婦人方はいつもの微笑みを捨てて嘲笑するだろう。
仕入れている食料は栄養価を調べまわってみたり、子供達の為にギリギリの値段で美味い菓子を手に入れたり、これぐらい綺麗に飾り付けた方が夢があると装飾を施した我が店も、閉店頃にゃ「所詮19歳のガキの店」と嗤われるのがもっぱらだ。「ちょっと勢いづいて売れているのが気に食わない」と面と向かって言われた際には、こっちが笑うしかなくなってきたもんだし。
雨の音が聞こえてくると、レジスターの前に立っていた僕は、ぼうっとした意識を
頬を軽く叩くことで何とか戻し、飴色がかった木製の窓から外を覗き込む。
7月。夏は真っ盛りだとは思えない雨模様に、本日は客足も少なそうだと早めの閉店を一考する。
閉めたら、好きな本でも読み寝酒を一杯引っ掛けて、いつもの心地よくない眠りに就こう。
「おっと、その前に売れ筋を書いとくんだな。フレッド。クズどもからこんだけ搾取してやったってケラケラ笑えないぜ。」
いつもはニコニコ対応出来るし、かりそめならば良心だって抱けるが
一人きりの時まで「優しくお人よしの”クソガキ”」をやる気にはなれない。
カウンター内に手を入れて、長く書いてきた古い帳簿を取り出していると
ふと、店先に飾ったベルが音を経てた。
来やがったよ、店を閉めようとしてんのにこれだ。
「いらっしゃい。」
とっさに顔をあげ、笑顔でそっちを見つめると、少しだけさてどうするかなと腰を指先でたたいた。
その先に居た若い男客は、あんまりにもこの店にこの時間にこの天候で来るタイプには見えなかったもんだから。
上等な布で織られたのだろうに、雨でぐちゃぐちゃの白いタキシードに
ぴったりと整えられた茶褐色の髪。ここからでも見てれば、その男の目に力がないのは分かった。
広い肩が忙しなく呼吸しているし、額に流れる雨粒はよく見れば汗も混じっているじゃあないか。
それほど見た目は悪くない、これから新郎の入場でございますって格好なのに
新婦に誓いのキスでぶっ叩かれたか、神父が十字架振り回して大暴れしたか、それともただ雨が嫌いなのか男は随分とまあ、弱っているようだ。
「おにいさん、疲れたねえ。雨の中、パーティー会場から全力疾走してきたみたいだよ。顔色もよくない。どうだい?初めてのご利用を祝ってアツアツの紅茶を淹れてこようか?」
「パーティーじゃないし、紅茶は嫌いなんだ。」
男の声は、意外にもしっかりとしていたので少し首を傾げつつも、「雨宿りしてく?」と聞いてみた。
とっとと帰ってくれたって良かったが、彼は疲れたいろの碧眼を丸めて、素直に顎を引く。
面倒なことを聞くもんじゃなかったなあ。心の中で呟き、帳簿を開いた。
…小雨から、一気に雨脚は強くなりつつある。
誰かにブチ切れているように、窓を叩きまくる雨の音にこっちもイライラしつつあったが、一応客の前だと笑顔を保つ。
タキシードの男はといえば、その場に崩れる様に座り込み、必死に息を整えていた。
大丈夫?って常套句は好きになれない。
踏み込む気もないのに、期待を持たせる悪の呪文みたいだしな。
だから、僕は意識の隅っこに引っかかってないという笑顔のまま聞くしかないんだ。
「タクシーでも呼ぶ?」
「今、外に出たくない。出たら、死んじまう気がする。」
「珈琲ならどう?」
「飲みたくない。」
「せめてタオルだけでもどうかな?」
「汗くさいだろうから、遠慮しとくよ。」
ことごとく提案を蹴ってくる男に、薄い笑いが漏れる。
何も買わない、意見は聞かない、だけど居させろ。なんというワガママな客か。
このままじゃラチがあかないと、くるくる回していたペンを向けた。
「じゃ、何か暇つぶしに話を聞かせてよ。店を閉める前に駆け込んできたタキシードのお客さん。ネタが尽きなさそうで面白いと思ってるからさ。」
どうだ、話を聞いてやるって言ってんだ。そっちだってその方が気楽だろ?
そんな本心はまるごと包み隠しとけば、男はやっぱりというべきか、「聞いてくれるか?」ってな安直なる返答をくれた。まったく、大泣きして商品食い散らかしながら「聞けよ、若造!」ぐらいに迫ってくれりゃあ、ぶん殴る口実もできたんだがな。
にこにこして、言葉を待っていると、男は雨の音に負けそうな小声で話し出す。
「パーティーってほどじゃないんだが、親戚一同で食事には行ったんだ。従弟が大学院の入試に受かったから、久々にみんなで会ってお喋りしながら、祝おうじゃないかって。」
「院試合格でタキシード着てお食事会?気が狂ってる。おめでとう、ぐらいで済ましときゃ華があるのに、飲み食いしてお喋りしたいように聞こえてくるよ。」
うちの親父なんて、地元のランクの低い高校に入学した時にくれた言葉は「負け犬」だったぜ、と思い返し、思わず本音をぽろっと零せば、男も案外すんなり「そうだな」と同意を示した。
さっきから、妙に波長が合うのか、それとも人に面と向かって文句を言うほど勇気はないのか、素直な奴だ。
「叔母夫婦も、うちの両親もそうしたかったんだろう。大体にして、主役と仲が悪い俺が態々行く必要性なんてなかったはずだ。みんなで食べると美味しいって形式のお言葉は使うがね。」
喋っていると、口腔内が渇くのか男は何度も息を呑み込む。でも、お喋りになったのはまあ幸先いいだろう。どうせ、雨はまだ続くだろうから。
ちらっと見ると、男の碧眼が意見を求めているのがよく感じ取れたので、思ったまま言ってやる。
「じゃあ形式の言葉だし、君は必要なかっただろうし、従弟も来て欲しくなかった。それだけだね。」
「よく手厳しい奴だって苦笑いされそうだな。」
「そうでもない。普段はこんなこと言わないんだ。」
「俺が嫌いって意味か?」
「好きも嫌いも判断出来ない間柄だろう、って言いたいけど、違うなあ。店主やってる時の僕は演者なんだ。そうすりゃ、相談ごとなんてされても真剣に聞き入ることはない。言ってほしいだろうって言葉を何となく読んで、掛けてやる。それだけで”とっても優しい人”って涙ぐむ輩が多いもんでね。君もやってみるといいよ。虫唾が走るが、そこそこ笑えるから。」
「じゃあ、俺の話は真剣に聞いてくれてるって己惚れるべきなのか?」
呆れ果てた、って緩めた表情で訊ねる男。さっさと先を言えよと睥睨すると、彼は黙り込んだ。
話したくなくなったか、言うべき何かを探しているのか。どちらにせよ、こっちはまた聞き手になった。
さっきまで落ち着いていた雰囲気の男が、いきなりガタガタ震えだしたので、泣いているのかと思ったが違った。呼吸がまた荒くなり、こめかみに幾筋も汗が流れている。寒いんだか暑いんだか、まあ見ていりゃちょっとやばい奴なんだなということはうかがえ知れたし、ふしぎなことはない。
「その上着を脱ぎなよ。汗くさいからってごまかさないでくれよ。重ったるいそれを脱がないと、今にもぶっ倒れちゃいそうだから言ってるんだ。」
首筋に伝う汗をうっとうしく思いつつ、彼に言うと、こちらを見る碧眼に一層昏いいろがこもる。
「脱げないんだ。脱いだら、あんたは…いや、あんたも俺を蔑視する。」
「なんで?タトゥーは嫌煙しないよ。」
「タトゥー、か。タトゥーだったら、良かったかもしれないな。」
「ちょいと話を遠回しにする癖が強いね。ハッキリ言ってくれなきゃ、さすがにこっちも何の為に聞いているのか分からなくなる。」
彼はほんの少し、泥のついた革靴の先を眺め、細い唇を一文字にひきしめる。
額から流れた一滴のそれが、雨水の残りか、聞かれたことへの焦りのそれか、判断はしかねた。
やがて、彼をぼんやり見てる僕を、彼も見つめた。ただし、その碧眼には強い意志にも似た光がある。
何もかも、ぼやけて、疲弊して、自分でも何を伝えたいのか分からなかったのだろうその男の目がようやく生き返ったことが、なぜか、僕にはとても悲しいことに思えた。
「切り傷が、大量にあるんだ。腕にも、手首にも、肩にも胸にも腹部にも。剃刀でやった。自分で、全部やったんだ。」
ああ。なるほど。そういうことか。
何かを責める訳じゃなく、ただ事実を告げる彼に驚愕など微塵も覚えない。
ただ、やたらと体調が悪そうなのも、家族と折り合いがうまくいっていなさそうなのも、どこか、「煙たがられて生きてきた」ように思えるのも、すべて合点がいった。
その時だけ、雨音が遠ざかっていった気がしたと思った瞬間に、外にはちかりと閃光が走る。
続いて鳴り響く雷の尖がった音に、僕は盛大に舌打ちして帳簿を閉じた。
「なんでやったか、なんて聞かないよ。でも、僕は自傷癖を別に嫌ってる訳じゃない。」
「家族や世間体は、そうはいかない。俺が何かにぶつかって、立ち止まって、もうどうしたらいいか分からなくなった時につけたものを、全部隠せって言うんだ。しかもそこに個人の意見なんてない。なんとなく、”自傷は悪いような気がする”と思ってる。だから、こんな暑い日にディナージャケットをしっかり着こなさせられる。」
「そう言ってやりゃあよかった。これは自傷じゃない、生きた勲章だ、ってね。」
そう思ったからただ言った。その言葉に、男は再び俯いて、何か考え込むように瞼を閉じてしまう。
雷鳴のなか、正反対にしっとりと降る雨の中に消えていってしまうような、そんな印象を残して。
「僕と君は友達じゃないし、なれそうにもないし、大体にして僕が欲しくないから、どうでもいいんだよ。剃刀で体を切ってるなんて言われたって。悲しいことがあった時、酒を飲んだり、愚痴をこぼしたり、それのやり方がただ、自傷だった。たかがそれだけ。」
「言ってやりたいさ!俺だって、親父とおふくろの胸倉を掴んでそう言ってやりたい!!」
冷静に言ってやっているその時、男は怒声をあげた。
押し黙るこっちを見ようとせず、表情はなにも浮かんでないのに声色にだけ怒りが滲み出ているのは、感情を剥き出しにするのがあまり慣れていないからかもしれない。
「お前の為だって言いながら、その理由を幾ら聞いたって苦笑いでごまかしやがる!本当は汚らわしいと思うなら、面汚しだと思うなら、俺を思ってくれてるなら、そうやって責めてくれればいい!!俺は自分であちこちを切り刻んだが、家族だって仕事仲間だって友達だって恋人だってこの世界だって、俺を散々に切りやがった!死なない程度にゆっくり、これからも切っていくんだ!」
子供みたいに喚く奴だ、とひややかに見つめていたが、そこまで叫んでも涙を流さない男に違和感を感じた。ここまで、何か感じているのにどうして泣きもしないんだろう。…ああ、いや別に変じゃないや。
「そうだね。でも、あんたも同罪だと思うよ。物理的に切って傷つけたからじゃない。そいつらに文句を言わないで堪えてたんだろ?周囲がちくちく針や切っ先で刺してる間、自分の首を絞め続けたようなもんだ。自分で自分を殺し続けて、代償に表情がなくなった。」
男の目が見開かれて僕を見た。傷ついたのか、気が付いたのか、どうなのかは知らないが、少なくともそうさせる効果はあっただろう。
「だから、今こそそのジャケットを脱ぐべきだね。どういう意味かは考えてくれ。」
さっきは、荒れているのにどこか優しかったはずの雨の音色は、消えていく。かわりに、重たく穿つ酷い豪雨がまたも響いた。男が僕を見ていた青い瞳から、光が消えていく。ゆっくり、ゆっくり消えていく。まるで、ろうそくの灯火のように。
「…もし、俺をどこかで見かけたら、お願いしたいことがある。」
「ものによるね。」
「簡単だ。この雨の日に、俺は一度生き返ったって思ってくれ。それだけでいいし、気が向いたらでいい。」
「君は生きてるけど。」
「本当の所は、分かってるくせに。」
ふらふらと、覚束ない足取りながら彼は立ち上がり、ゆっくりとジャケットを脱いで片腕に引っ掛ける。夏用に仕向けられたのだろうシャツから端々に見える肌には、赤く、黒く、長く、短く、体を覆いつくすほどの傷がうごめき、支配し、どうやって生きてきたかを物語る刺繍みたいに見えた。
「演者なんだろ?お前はこの店にいる限り、本来の姿であれない。お前と俺は、生きてない。」
光のない目と何もない表情で男はそう言い、くるりと背を向けて、まだ具合が悪そうに店のドアを押して出て行った。ベルの華麗な音なんて、もう聞こえやしなかった。
男が出ていくのを見届け、帳簿をゆっくりとカウンターの中に仕舞い、さあもう閉店だと僕は笑顔を崩す。そうやって、一日が終わる。明日も明後日も、死ぬまでずっと。あの男の願いを聞き遂げるか、どういう意味合いで最後にそう放ったのか、正直そんなことどうでもいいんだ。
ひとつ、あの男は勘違いをしている。
僕達はだれしも、光り輝いてドラマのような生涯で過ごしてないし、そんなに優しくないことが現実だ。いつか腐り果てて、みじめに死んでいくのだろうその日を、指折り数えて過ごすということが、生きるということだ。
僕はなぜかその時思った。
彼は最期を迎えた時、顔にまでつけてしまった傷跡をみんなに嫌悪されるだろう。
でも、その時にこそきっと笑顔を取り戻し、終わるだろう、と。
違うような、似ているような、店主とタキシードの客人のお話でした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。