第3話 初めての魔法 1
コンコンコン
静かな廊下に小さなノック音が響く。長い廊下の一番奥の部屋の前に金の髪を揺らした少女が立っていた。
妹のヘレナである。
今日は仕事に向かった父や勉強に励む上の兄達はもちろん、母も外せない用事で手が離せず、お昼まではヘレナは一人で過ごす筈だった。しかしやはり一人は寂しいもので、つい部屋で休んでいる筈のすぐ上の兄の元へ来てしまったのだ。
「おにいさま?ヘレナです。いらっしゃいますか?」
しんと静まり返った廊下に鈴を転がすような声が虚しく響く。しかししばらく待っても部屋の中からは返事が帰ってこない。不思議に思って扉に耳を寄せても物音1つしなかった。
おかしいわ。今日はレン兄様は部屋で休んでいるはずなのに…。
コンコンコン
「…おにいさま?いませんか?」
もう一度ノックを繰り返すがやはり返事は無い。ヘレナは不思議そうに首を傾げた。
そういえば兄は昨日まで寝込んでいたのではなかったか。
ふとそう思ってしまった途端に不安が押し寄せてきた。
もし兄が中で苦しんでいたらどうしよう。熱で倒れていたら?返事が無いのは、居ないのではなく返事ができないのかもしれない。もし…もし……兄が死んでしまっていたらどうしよう。
不安のまま悪い想像をしてしまい、じわりと涙が滲んだ。
…いけないわ。泣いている場合ではない。しっかりするのよヘレナ。もしお兄様がお困りなら私が助けなければ。
ぐいっとヘレナは滲んできた涙を服の袖で拭い、再び声を上げた。しかし、やはり応えは無い。仕方なく、ヘレナはレンの部屋に入ることにした。本来なら返事の無い他人の部屋に勝手に入るのはいけないことだが、今は緊急時。お兄様も訳を話せば許してくれる。
「………入りますよ?」
しばらく待ってもやはりなんの応えも返ってこないことを確かめる。そしてヘレナは覚悟を決めてほんの少し扉を開けると、恐る恐る中を覗き見た。しかし覗いた範囲に兄の姿はない。ベッドの上も空だ。
もしかしてお留守なのかしら。でもお兄様がお母様の言いつけを破って何処かに行かれることなんて……。
ヘレナはそっと扉を開けて部屋に入ると、部屋を見回した。見た限りどこにも変わりは無いように思われる。壁際には大きな本棚に、真ん中に来客用か小さめのテーブルと椅子。奥のベッドは空だし、ベッドの脇の机にも兄は居ない。あとは窓際の大きな揺り椅子………。
そこで、あら?とヘレナは目を止めた。揺り椅子が僅かに揺れているような気がする。部屋の入口からでは椅子の上は見えないので、ヘレナはぐるりと回って椅子の正面に立った。そして目に入った光景に思わず笑みを浮かべる。そこには暖かい陽の当たる椅子の上で穏やかな寝息を立てている兄の姿があった。
あらお兄様はおやすみでしたのね。
微笑ましい兄の寝顔に思わずふふふっと笑い声が零れてしまい、慌てて口を押さえる。こんなに気持ち良さそうに寝ている兄を起こしてしまっては可哀想だ。でもいくら暖かいといっても何も掛けずに寝ていたら、治りかけの風邪がぶり返してしまうかもしれない。
ヘレナはレンのベッドから薄い掛布と、部屋の隅に置かれた踏み台を持ってくると、レンの隣に入り込んだ。大きな椅子はレンとヘレナが一緒に座っても十分に余裕がある。そして持ってきた掛布を広げて兄と自分に掛けると、そっと兄に寄り添って目を閉じた。
あったかくて気持ちいい……。これはお兄様が居眠りしてしまうのも頷けます。
起きた時、私が隣に居ることに気付いたら兄はどんな顔をするだろう。
その時の兄の姿を想像してくすりと笑った。
☆★☆★☆
一方その頃……
衝撃の魔剣事件の後。俺はシエルに魔剣使用禁止を言い渡した。あれはダメだろ。俺はこの世界の魔法についてまだ何も知らないけど、流石にあれは規格外だと思う。人前で使ったら問答無用で捕まりそうだ。いろんな意味で。
「ええっ!!?あれ作るの大変だったんだよ!!?」
「ダメだろ!威力がデカすぎる!!危険過ぎて使えねぇよ!!だいたいなんであんなの作ったんだ!?」
「……なんでってそれは…限界に挑戦したくて。だってさ、魔法だよ?誰でも一度は夢見るでしょう?そんなものが使えるようになったらさ、何処までできるのか気になるでしょ?まぁ、僕も確かにちょっとくらいはやり過ぎた気もしないことは無いけど…。でもやっぱり好奇心には勝てなかったというか……。」
「わかったわかった!お前の言い分はよくわかったけど、ダメなものはダメ!」
でも、だってと言い募るシエルに、俺はキッパリ断固拒否の姿勢を崩さない。まぁ、本当に危機的状況だったら仕方ないかなとは思うけど、それはホントのホントにやばい状況で、それ以外に道は無いくらい追い詰められた場合の話。それに今こいつに下手に許可を出すのはやばい気がする。
…そんな潤んだ目で見ても駄目!!俺は絆されないぞ!
シエルの顔から視線を逸らし、ステータスに目を戻す。シエルの方から物凄い視線を感じるけど、気の所為だな!きっと!俺は鈍感だからわからない!
「……ん?なぁシエルこれって……?」
「え、どこ?」
「ほらここ。状態呪いって書いてあるけど大丈夫か?」
「……ああ。それ、ね。」
上からもう一度辿って、目に止まった文字。先程は魔王に目が行ってしまい、見落としたらしいがふと気になってシエルに尋ねた。鑑定できない呪いなんて見るからにヤバそうだろ。
何気なく発せられた俺の問いに、初めてシエルが言い淀んだ気がした。でも再び俺がシエルの顔を見た時には、変わらない笑顔が浮かんでいる。
…気の所為か?
「多分、封印された時だね。まだ解析中だから詳しくはわからないんだ。かなり複雑な呪いで、正しい順番で解呪しないと絡まりあって解けなくなる厄介な奴でね。ちょっと苦戦中。でも今はなんともないし、レンにも影響はないから安心していいよ。まあ気長にやって行くさ。」
やっぱりどことなくシエルの纏う空気がピリピリと緊張している気がした。笑顔も硬いし、ずっと笑顔のままなのも逆に怪しい。今までも確かにシエルは笑顔を絶やさず、ずっと微笑んでいるイメージだが、微笑みにもちゃんと変化があって、感情豊かな印象が強いのだ。俺の勘違いかとも思ったが、やはりこの話題になってからシエルの様子がおかしい。この話題はあまり触れて欲しくないみたいだ。早くも地雷を踏んでしまったか…?
えーと、何か違う話題……。
「な、なぁシエル。あの、さ、俺にも魔法使えるかな…?」
咄嗟に飛び出た話題にしてはいいところをついたんじゃないか?シエルはもちろん、俺も魔法に興味があるのは嘘じゃないし。ただシエルが興奮して暴走しないかが心配だけど。
「え?レンも興味ある?まあそれもそうだよね!魔法なんて気になるよね!気にならないわけがなかったね!もちろん君にだって使えるようになるさ!ていうか僕が何としてでも使えるようにしてみせる!うわぁ嬉しいなぁ!初めての弟子だ!!」
「お、おう…。」
シエルはぱっと顔を輝かせて俺の手を取りブンブンと上下に振った。思った通りに話を逸らすことには成功したが、この話題だと何か別のものを失う気がする。いや、魔法を学びたいのは本心なんだが……。シエルに教わって大丈夫なのか…?
「まず何から知りたい!?いや、その前にレンはどんな魔法が使いたいの?一般的な属性魔法から召喚魔法、契約魔法にマイナーだと精霊魔法もかな!大抵の魔法は使えるからなんでも言って!大丈夫!任せてよ!僕が必ず君を一流の魔法使いにしてみせる!」
「……とりあえず基礎からで。」
興奮気味に捲し立てるシエルから下がりつつ、要望を言ってみた。やっぱり何事も基礎が大切だと思うし、いきなり高度なものに手を出すのは愚の骨頂だろう。魔法なんて俺にとっては完全に未知の世界だ。慎重であるに越したことはない。
益々、この魔法に関してはハイテンションなシエルに任せっきりにするのはものすごく不安になってきた。
「基礎……。基礎ねえ…うーん……魔力操作からかな?」
「魔力操作って?」
「かなりざっくり言えばその名の通り魔力を操作することだね。どんな魔法を使うにしても決して避けて通れない道さ。魔力操作がスムーズにできると魔法の発動時間が大幅に短縮されるし、魔力そのものを自在に操れるといろんな事に応用できるしね。例えば体内だと身体強化系の基本だし、体外に放出できるようになると索敵なんかにも使える。想像力次第で色々できるから、僕は魔力操作を極めれば無限の可能性があると思ってるよ!」
「……へ、へぇ。」
ほんとこいつ魔法の事になると饒舌だな。よくもまあそんなに舌が回るものだ。
でも魔力操作かぁ……。そもそも俺にもあるのか?…そういえば俺のステータスはどうなっているんだろう?
「なぁシエル。俺のステータスは出せないのか?」
「出せるよ。見る?」
「ああ、頼む。」
思い付いて訊ねてみると、シエルはあっさり頷いて俺のステータスを出してくれた。
「お!ありがとな。」
レン・ネノワール
種族:人族 Lv:3
年齢:5歳
職業:なし
体力:F 筋力:F 魔力:E 敏捷:E 防御力:F
状態:なし
スキル
速読 Lv:1 礼儀作法 Lv:3 念話 Lv:―
称号
「精霊の愛し子」
加護
『異世界神の加護』
「おー…。でも、これってどうなんだ?」
現れた俺のステータスは、当然シエルに比べてスキルや称号がとても少なかった。まあ魔王であるシエルとは比べてもしょうがないが、俺には基準がわからず良いのか悪いのか判断できない。
「そうだね…。基本パラメーターはこの歳なら普通だね。可もなく不可もなく。スキルの多さも同じ。ただ……なかなかいい称号があるね。『精霊の愛し子』があると精霊魔法をほぼノーコストで使えるようになる。世界に1人しか持っていないレアな称号…というより体質といった方が正解かな。」
そう言ってシエルは何かに思いを馳せる様に目を伏せた。
「世界に1人の体質?」
「うん。なんていうか無条件に精霊から好かれる体質かな。世界にただ1人だけが持っていて、今の愛し子の君が死ぬとまた次の愛し子が現れるんだ。この称号があると基本精霊達は好意的で、特に面倒な契約を交わさなくても頼めば好意で力を貸してくれるんだ。だから精霊頼みの精霊魔法はほぼノーコストなの。でも頼めばなんだってしてくるからって、頼りっぱなしだと愛想を尽かされることもあるらしいから気を付けて。お礼は大事だよ。親しき仲にもなんとやらってね。」
顔を上げたシエルは茶目っ気たっぷりに片目を閉じてそう言った。それが妙に様になっていて、思わず吹き出しそうになる。吹き出しそうなのを咳払いで誤魔化して、シエルから顔を背けた。
まったく!これだからイケメンは!!
「…?……。…じゃあ魔力操作から始めよう、と言いたいところだけどそろそろ君は起きた方がいいかな。もうすぐお昼だし。」
「……は?…お昼………?はあ!?」
不意をつかれて俺はぱちくりと目を瞬かせた。はっと我に返り思わず叫んでシエルに詰め寄る。そのまま衝動的にシエルの襟を掴んで、がっくんがっくんと揺さぶった。
「どういうことだよ!?え?俺、半日寝て過ごしたってこと!!?」
「う、うん。そう、なるっ、ね!あやまるっ、から!はな、して、ほしいな!」
おうそうか離してやるよ。
お望み通りぱっと手を離してやれば、バランスを崩したシエルは後ろに尻もちをつく。
「いたた……。もう…乱暴だなぁ。」
いたたたと打ったところを擦りながら、恨めしそうにシエルは俺を見上げて言った。
何も言わないお前が悪い。流石に半日も寝たままは不味いだろう。
「じゃあ続きはお昼の後ね。」
またねと手を振るシエルを最後に俺は目を閉じた。
☆★☆★☆
「おにいさま。そろそろ起きてください。おにいさま…。」
耳元で優しく囁く声がする。そっと肩を揺すられて意識が浮上した。鈴を転がすような少女の声。
はて、これは誰の声だったかな…?
人の記憶で一番に薄れるのは声の記憶らしいし、俺の記憶が戻る前のことは曖昧で、咄嗟にこの声の主が出てこない。
でも確かに聞き覚えのある声なんだよな。うーん…。
記憶を辿りながら目を開けて、俺はぴしりと音を立てて固まった。目を開けた俺の数センチ先。鼻先が触れそうな距離で、鮮やかな緑色の瞳がじっとこちらを見ていた。
「………う、うわあ!!?えっ!?何!?痛っ!?」
驚きの余り飛び上がって椅子から転げ落ちた。思いっきり床に打った腰が痛いがそれどころじゃない。椅子に座ったまま寝ていた俺の隣に寄り添う様に座っている金髪美少女。…いや、幼女だな。美幼女。確か妹のヘレナだったか。
…え、何故ここに……。
「ノックをしたんですけど、なにも返ってこなくて…。お兄様が倒れていたらと……。かってに入ってごめんなさい……。」
しゅんとした声でヘレナは言った。どうやら返事が無いのを心配してくれたらしい。確かに俺は昨日までかなりの高熱で寝込んでいたらしいし、妹としては心配になる、のか?うるうると滲んだ瞳でじっと見つめられて、俺ははぅっと胸を押さえた。
な、なんて健気ないい子なんだ…!!え、世の妹ってみんなこうなの?これじゃシスコンが生まれるのもわかる。今すごく納得した。妹、可愛い。可愛いは正義。
ていうか俺、そんなに爆睡状態だったの?あの精神世界的な場所に居ると、外の事がわからないのか?そこんとこは要改善だな。後でシエルと相談しよう。
いやいやそれより目の前の不安そうな妹を何とかしないと……。え、えーと。
「し、心配してくれたのか?ありがとう。ノックに気が付かなかった俺が悪いんだから、ヘレナが謝ることはないよ。」
こんな感じか?俺には年下の兄弟はいなかったからな。まして妹。慎重に行こう。選択肢を間違えたら死ぬと思え、俺。もしこんなに可愛い妹に嫌われてみろ、冗談抜きで死にたくなる。
「いえ!お兄様のおどろいた顔も見れましたし、だいじょうぶです。」
くすりと笑いながらヘレナは気にしないでくださいと言った。茶目っ気たっぷりに片目を閉じるサービス付き。
……なにこの小悪魔。可愛いかよ……。
眩い笑顔にくらりと頭が揺れた気がして咄嗟に手を当てる。そんな俺を見て、くすくす笑いながらヘレナは俺の手を取って引っ張った。
「さあ、お兄様!お昼に行きましょう!」
……とうとい。
☆★☆★☆
はい、戻ってきました。え?お昼?特に何事も無く終えましたよ?朝と違って父さんと兄さん達はいなかったけど。
お昼は甘くないパンケーキみたいなやつだった。甘酸っぱいジャムをつけて食べる。やっぱりこの世界じゃ砂糖は貴重なのかな。ジャムも素材そのものの味って感じだったし。それでもめちゃくちゃ美味しかったごちそうさまです。
『それじゃあ続きと行こうか。』
「ああ。何から始めるんだ?」
「まず、レンには魔力を感じ取る所からだね。今から僕が君の魔力を動かしてみるから、集中して。」
言われた通り目を閉じて自分の身体に意識を集中させる。すると突然、腹の奥の方に違和感を感じた。形のない何かが体内で蠢いているみたいだ。その何かはすぐにゆっくりと、まるで血液が身体を巡るように動き出す。これが魔力なのか?
違和感に耐える事しばらく。異変が起きた。魔力が通った後、皮膚がピリピリと痺れ、後から熱が回る様になったのだ。
『そろそろ温まったかな?じゃあ今度はレンが動かしてみて。ゆっくり、ね。大丈夫、できるよ。魔力はわかるようになっただろう?それが血が巡る様に身体全体を回ると思うんだ。』
……集中………集中。
今も温かいものが身体を巡るのがわかる。それに意識を集中させて、今度は自分の意思で。少しの抵抗を感じるがずるりと魔力が動くのがわかる。それを確認して、俺の魔力を動かしていたシエルがゆっくり離れた。
しばらくしてシエルが完全に手を引いてからも、ぎこちなさはあるものの俺の魔力は動き続ける。何度も何度も魔力を身体に巡らせるうちに、コツを掴んでどんどん動きが滑らかになっていった。
「お、おお!!これが魔力!!できてるよな!?」
『うん。できてるできてる。レンは思ったより器用だね。初めてとは思えないよ。ちなみにそれは身体強化系の魔法の第一歩だよ。体内循環がもっとうまくなって、特定の場所に一定の魔力を集められるようになると強化魔法が使えるようになる。腕なら腕力強化、足なら脚力強化ってね。』
「へえ!夢が広がるなあ!」
『でしょう!?』
嬉しそうなシエルの声が頭に響く。実際に魔法が使える実感が湧いてくると、確かに俺も心が踊った。
ぐるぐる魔力を回しながら考える。意外とそこまで難しくない。基礎だからか?最初と比べるとこの短時間で驚く程上達している。もうぎこちなさはほぼ消えた。するすると面白いくらい簡単に動く。
「なんだ思ってたより簡単だな。」
『そう?じゃあ次いってみようか。』