きみの夢を見た
何年も前から、よく見る夢がある。
夢の中で彼女はずっと泣いている。
どうして助けてくれなかったの、と悲痛な声をあげて泣いている。
悪夢だと思った。
だって、本当の彼女は絶対にそんなことは言わない。
なのに、なぜそんな夢を見るのか。
そう考えてしまって、ゾッとした。
隣国マナティアの姫は、幼い頃から我が国ガラハルトでも有名だった。
曰く、聡明で線の細い優しい姫だと。
兄弟の中でも最も出来損ないで第三王子という立場の私は、マナティアへと婿入りするだろうと、囁かれていた。
私の10歳の誕生日。
「マナティアから参りました。ユリアラシルスと申します。お誕生日おめでとうございます、レクサス様」
そう言って微笑んだユリアラシルスは、小さな身体に似合わない大人びた目で私を見ていた。
その立ち振舞いは凛としていて、いっそひれ伏してしまいたいような気持ちになったのを今でも鮮明に覚えている。
王になる器を持った少女。
それがユリアラシルスの第一印象だった。
ユリアラシルスが優秀だと言われている理由も、彼女と話をすればすぐにわかった。
博識な彼女と話をするのは楽しかった。
まるで自分まで賢くなったようで。
しかし、小さな身体に似合わないほどの知識の量には確かに彼女の努力が滲んでいた。
「ユリアラシルスは、寂しくない?」
「ええ」
ある時、ぽろりと口からこぼれた私の質問に、彼女は間髪入れずに頷き、ゆったりと微笑む。
そして、彼女のなにもかもを見透かしたかのような目が私を捕らえた。
「レクサス様は、寂しいのですか?」
ドキリと、した。
そうして思い知らされる。
寂しかったのは彼女ではなく自分だったのだと。
彼女を侮り、彼女に可哀想などというレッテルを貼り付けて自分の体裁を保とうとしたのだと。
そして、それを彼女に見抜かれた。
カッと胸が沸騰したように熱くなる。
恥ずかしさと、得体の知れない感情が私を突き刺したのだ。
弁解をしたかった。恥ずかしい自分などなきものにしたかった。
今までだって、戦わないことで自分の矜持を守ってきたのだ。最初から諦めてしまえば、楽だから。
自分が逃げているだけだなんて、そんなこと本当はずっと知っていた。
けれど、私の口をついたのは弁解とは程遠いふつふつと煮えかえるような熱量を持った無様な言葉。
「きみと一緒に、いたい」
目頭が熱くなって、ポロリとなにかが落ちる。
運命だなんて言葉じゃ足りないようなほの暗いなにかが、私の足を掴んだような気がした。
少しだけ驚いたように目を見開いた彼女の喉が小さくコクリと鳴った。
「ええ、レクサス様」
そう言って艶やかに微笑んだ彼女の目は、どこか揺れているように見えた。
「ずっと、一緒にいよう。ユリアラシルス」
彼女の瞳が確かに私をとらえ、静止した。
彼女が正式に私の婚約者になり国に帰ると、私の生活は一変した。
毎日大量の本を読み、身体を鍛え、さまざまな人々の話を聞く。
誰よりも気高く、誰よりも強い、そんな彼女の右腕になりたかった。
恥ずかしい話、私は自分よりも年下の少女に憧れてしまったのだ。それはもう、どうしようもないくらいに。
そして、唐突にその日はやってきた。
ユリアラシルスの訃報が私の鼓膜を揺らす。
曰く、魔物に襲われたと。
ガラハルトでは、街に魔物を寄せ付けないように科学を駆使して対策しているがマナティアはそうではない。
死と隣り合わせの生活だと、だからこそ国民を守るのが自分の使命だとユリアラシルスも言っていた。なんの陰りもない、まっすぐな瞳で彼女はマナティアの行く末だけを見つめていたように思う。
でも、それならば私はなぜ。
なぜ、ここでこうして立ち尽くしている。
一体なんのために。なんのために。
でも、嗚呼、なにより私は、ただもう一度ユリアラシルスに会いたかった。
ユリアラシルスの訃報を聞いてから、毎日夢に彼女が出てくるようになった。
夢の中でユリアラシルスは、ずっと泣いている。
私を責める言葉を吐きながら、助けてほしかったと泣き叫ぶ。
今まで見たことのないような泣き顔で、絶対に口にしないであろうことを夢の中のユリアラシルスは叫ぶのだ。
私はそれがとても恐ろしかった。
夢の中のユリアラシルスが恐ろしかったのではない。
なにより恐ろしくおぞましかったのは、そんな夢を見る自分だった。
毎晩毎晩同じ夢を見て、だんだんと悪夢ですら愛おしくなって、そうして無感情に毎晩夢で彼女に会うようになった。
月日が経って彼女の記憶が薄れてしまってからは、夢の中の彼女はかろうじて人の形を保っているだけだ。
夢に出てくるのはもはや、ユリアラシルスではない。
彼女の気高い立ち姿も、自信に満ちた艶やかな微笑みも、覚悟を宿した瞳も、もう脳裏に正しく思い描くことはできない。
何度夢を見ても、彼女が助かることはない。
そんな日々を繰り返し、いつの間にか兄たちよりも秀でていると言われるようになっていた。
けれど、なにも私の心を満たさない。
世界に色などないのだと知った。
ただ、優しい悪夢だけが私に絶望の色を見せた。
そんなある日、魔物の森で出逢ったのは、浮世離れしたように鮮やかな空色の髪を持つひとりの少女。
出逢った少女、ユリシスは不思議な少女だった。
はじめに見たときには、この世のものとは思えないぐらいに儚く見えた横顔が一緒にいるうちに段々と血色を帯び、その表情をころころと変える。
けれど無邪気に笑うその裏で、なにか闇を抱えているだろうことは想像に難くなかった。
たったひとりで魔物の森にいたのだ。
身寄りもなければ、頼れる存在などいないに違いない。
ユリシスと出逢った夜から、それまで毎晩見ていた夢をぴたりと見なくなった。
ユリシスの美しい空色が私の眼にキラキラと滲んでいく。
ユリシスの笑顔をずっと見ていたかった。
ずっと一緒にいれたら、なんて子供のような夢を思い描いた。
守りたい人が、できた。
今度こそ守りたかった。
なのに、なぜ消えてしまったの。
ユリシス。
「なるほど。突然ユリシスさんは姿を消し、レクサス様以外の誰もユリシスさんを覚えていない、と」
「ああ」
目の前のリズの唇は弧を描いているが、その目は深々と冷たい色を帯びている。
「そんな相談をなぜ私に?」
「きみは聡明だからなにか気付くことがあるかもしれないと思って」
姿を消したユリシスは、どこを探しても見つかることはなかった。それどころか私以外の誰もユリシスを覚えていない。
「いい度胸してますね。婚約を蹴っておいて」
「本当にすまなかったと思っている」
「まあ、腹は立ってますけどユリシスさんの話を聞いて腑に落ちた点はあります」
リズは、突き刺すような目で私を見た。
「そもそもユリシスさんと一緒にいるために、私と結婚しようとしたのですね」
「リズ……」
「あなたの国と私たちの国では、格に差がありすぎる。私たちはあなたの提示する条件を飲むしかありません」
リズはどこか嘲笑するように言葉を吐いた。
「大切だったんだ、ユリシスが……。ずっと一緒にいたかった……それがどんな形でも、なにを犠牲にしても」
ゆっくりと息を吐いたリズは、それから僅かに眉を寄せる。
「なぜ、ユリシスさんと結婚なさろうとしなかったのですか。あなたは身分を気にするようには見えません。二人で市井に降りてもよかったのでは?」
「……結婚してほしいと言ったら、彼女はまるで絶望したような顔をしたんだよ」
結婚でもなんでもよかった。これからもずっとユリシスと一緒にいられるのなら。
でも、ユリシスの目に絶望の色を見た瞬間に一緒にいるだけでは不十分だと気がついた。
「怖じ気づいていないとは言えない。でも私は、ユリシスの笑顔を見ていたかった。私と結婚して、その笑顔が消えてしまうのならそれでは意味がないんだよ」
リズはしらけたような目で私を一瞥して、再び大きく息を吐いた。
「気になったことがいくつかあります。まずは、ユリシスさんが消えた前日。ユリシスさんが言った、私が助けたのにという言葉」
「リズたちが私を魔物から助けてくれた後に、ユリシスに出逢ったんだ。出口まで案内してくれた。」
ユリシスがいなければ、魔物の森から出ることができなかったかもしれない。
そう思って口にした言葉に、リズは眉根を寄せた。
「待ってください。私たちはあなたを魔物から助けたわけではありませんよ。私たちがあなたと出逢ったときには魔物はもういませんでした」
リズの言葉に絶句する。
「私達があなたを見つけた時には魔物はもういなかった。最初からなにか話が噛み合わないとは思っていたんです」
リズがスッと息を吸って強い目で私を見た。
「可能性の話ですが……ユリシスさんが魔物を追い払い本当の意味であなたを助けた人なのでは?私は魔物に出会った事がほとんどありませんが、魔物は一度狙った獲物を見逃すことはほとんどないと聞きます」
「そ、れは……ユリシスが魔物から私を守ってくれたという事か……?きみたちではなく……?」
「真実はわかりません。けれど、私たちはあなたが倒れているところしか見ていません」
ユリシスの必死な声が、脳裏によみがえる。
ユリシスは出逢ったときから、恩を売るような素振りは見せなかった。
そんなユリシスが、あんなに必死に言った言葉を私はどう受け取った?
「……っ、最低だな、私は」
ユリシスが私と一緒にいたくないと思っても仕方がない。
「……落ち込むのは後でおひとりでなさってください。それよりも、気になるのはユリシスさんがどうやって魔物を追い払ったのかということです」
「……ユリシスは、なにも持っていなかった。彼女のように小柄な女性が素手で魔物をどうこうできるはずが……」
やはり、運良く魔物が私を見逃してくれただけなのだろうか……と考えながらリズを見るとリズがなにかを確信したように笑っていた。
猛禽類を思わせるような獰猛な目。
「リズ……?」
「ガラハルトの隣にはマナティアという国があると聞いています。マナティアの民は魔法と呼ばれる不思議な力を使い、魔物を追い払うとか」
リズが言いたいことがわかって、息を飲む。
そうだと確証を持てるような材料はどこにもない。
「ユリシスはマナティアの人間……?でも、マナティアは隣国と言っても気軽にガラハルトへ来られるようなことにはなっていない……」
「魔法が使えるのなら、レクサス様以外の人間がユリシスさんを覚えていないということにも説明がつきます。気軽にガラハルトへ来たわけではないから魔物の森にいたのでは?これは勘ですが、私の勘は結構当たるんですよ」
そう言って笑ったリズに確固たる自信を見る。
きっと彼女の勘とは、知識に裏付けられた推測なのだろう。
「リズは……どうして私の相談に乗ってくれるんだ?ユリシスがいなくなったから婚約破棄をするだなんて最低だと、自分でもわかっている」
「単純な理由ですよ。……ガラハルトに恩を売るのも悪くないと思いまして」
リズが笑う。
爛々と輝いていた大きな目がどこか愛しげに細められた。
その瞳はいつだか見た、国を想う瞳と重なった。
「私は第三王子だし、ガラハルトは私を切り捨てるよ」
もし彼女が私の立場であったなら、自分のために、国が揺らぐことなどあってはならないと言うだろうか。
「いいえ、ガラハルトはあなたを切り捨てませんよ。今のガラハルトはあなたを切り捨てることなどできません」
強い目だ。
確信を持った、強い目。
いつだか見たものとは、また違う美しさを持った瞳だと思った。
「きみは……きっと、いい統治者になるな」
私の言葉にリズは、ひゅっと息を飲み、それから自らを落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた。
「ありがとう、ございます……」
ユリシスが、マナティアの民……。
そうであるのならば、魔物の森に姿を隠していた?なにかから逃げている?
マナティアの資料を見ていても、望む情報は獲られなかった。
あの日あの部屋で拾って、手離せなかったユリシスの髪を眺めながらそれでも、空色の髪を持つ民の情報など、どの文献を探しても見つからない。
彼女に会いたいという想いばかりが心の中に、積もる。
深いため息を吐いた私の前に、ジルがお茶を置いて、動きを止める。
思わず、といったように止めたジルの身体がゆったりと呼吸するように動きそれから強張った声を発した。
「レクサス様……マナティアのユリアラシルス様が亡くなって、悲しいのはわかります。しかしもうあれから6年近く経つのです……このようなものを持たれるなど……」
痛ましいような目で机を見るジルに眉を寄せる。しかし、私の心臓は突如なにかが始まったかのようにドクドクと激しく打ち鳴り始めていた。
「待て、なにを言っている……ジル……」
私の身体が、まるでこの時を待っていたかのように打ち震える。
「ですからこのように、ユリアラシルス様のお髪を持ち歩くなど……大体このようなもの一体どこで……」
「ユリアラ、シルス……?」
ユリアラシルスの名前を聞いて無意識に思い浮かべたのは、ユリシスの姿。
「ええ、このような色の髪をマナティアで持たれているのはユリアラシルス様ぐらいでしょう……?」
ジルの言葉に息を飲んだ。
一瞬にして点と点が繋がる。
まるで脳は始めからわかっていたというように、当たり前のようにそれを感情が享受した。
ユリシスとユリアラシルス。
一度認識してしまえばもう、そこには疑う余地も存在しなかった。
なぜ気付かなかった。
なぜ気付けなかった。
こんな簡単なことに。
「これも、魔法か……」
「レクサス様?」
「ユリアラシルスは死んでいない」
静かに呟いた声は、やけに響いて聞こえた。
私の呟きを聞いた後、なにか言おうと僅かに口を開いたジルはなにも言わなかった。
なにかを考えるように黙ったまま、しばらく立ち尽くしたあと一人の男の名前を呟き踵を返して部屋から出ていく。
ジルが呟いたのは、6年前にマナティアからガラハルトに移住したマナティアの元宰相の名前だった。
マナティアの元宰相を訪ねると、彼は珍しいものを見るように目を細めた。
ユリアラシルスとユリシスのことを話すと、元宰相の手が何度か強く握られる様が見えた。
「なるほど。しかし、レクサス殿。他国の事に首を突っ込むという事にはそれなりのリスクが伴います。その覚悟はおありですか?」
「他国の事などではない。……この国の、妃のことだ」
「ほう……なるほどなるほど。いいでしょう、私が知っていることをすべてお話しします」
そう、苦笑して話始めたのはマナティアの現実だった。
ユリアラシルスがもうすぐ本当に消えてしまうかもしれないという事実に愕然とする。
そしてその奥に見えたのは、ただひたすらに強い、ユリアラシルスの覚悟。
「ここであなたにお話ししたのは、懺悔のようなものです。ユリアラシルス様は、私にとっても娘のような存在でした。それでも、私はあの方を守ることができなかった。」
それから、震える息を吐いて彼は続けた。
「マナティアの言い伝えなど、本当になんの意味もなかったのだと私はこのガラハルトへ来て実感しました。けれど、私は思うのです。恐らくあの方は言い伝えに意味などないことを始めから知っていた」
それでも、自らが犠牲になることでマナティアの民の心の安寧を守ろうとした。
覚悟はあるのか?と再度問われた気がした。
ユリアラシルスの決意を、踏みにじる覚悟。
それでも、私は。
きみがいなくなるのは、もう嫌だ。
「レク、サス……?」
その日は美しい満月だった。
元から線が細かったユリシスは、更に儚くなってしまったように見える。
ユリシスは白衣装を身に纏い、祈るような所作でそこに立っていた。
あと少しでも遅れていれば、きっと消えてしまったのだろうとわかってゾッとした。
「帰ろう、ユリシス」
信じられないものを見たかのように見開かれていた目が、ゆらゆらと揺れる。
「どうして」
無意識なのだろう。
呆然としながら、それでもユリシスは首を振った。
「ユリシス」
「どうして」
ユリシスは呆然としたように何度も何度もどうしてと呟いて、それからなにかに気付いたように小さく息を飲み、喉を鳴らした。
「どうして……?アルミ、ナ……」
まるで絶望したかのような顔に、私の足がすくむ。
いつからこんなに臆病になったのだろうと考えて、答えはすぐにわかった。
「きみに、出会ってから」
どこか虚ろな目をしていたユリシスが、確かに私を見た。
「レクサス」
「あの日きみに出会ってから、私はきみだけがほしい。」
「レクサス」
「きみだけが、ほしいよ。ユリアラシルス」
「……っ、」
ユリシスの手を取る。簡単だ。
簡単なことだ。
掴んだ手は、氷のように冷たかった。
ユリシスの手を掴んだまま出口へと走る。
出口の近く、黒い装束を纏った深い藍色の髪の男が静かに立っていた。
「アルミナ……っ!」
ユリシスが男の方へ手を伸ばす。
男は誘われたようにユリシスのほうへ手を伸ばそうとして……止めた。
「幸せになってください……ユリアラシルス様」
男が笑う。泣きそうな顔をして、けれど嬉しそうに嬉しそうに笑った。
それを見たユリシスが息を呑む。
信じられないものでも、見たかのようにユリシスの唇は震えていた。
まるで恋人のような二人を見ていられなくてユリシスを抱き上げ、出口をくぐる。
最後に、来た道を振り返るとあの男はこちらに向かって深く深く頭を下げていた。
心の奥底からドロドロと仄暗いなにかが溢れてきて止まらない。
ユリシスが、笑顔でなければ意味がない?一緒にいられればそれでいい?私はなにもわかってなどいなかった。
出口から出て少し歩くと、ユリシスは呆然と私の顔を見た。
「卑怯だと笑ってくれていい。恨んでくれていい。それでも私はユリシスが欲しい。……きみを私の妃にしたい」
驚いたように目を瞠って、それから。
ユリシスは、泣いた。
私にしがみついて、声をあげて。
まるで母を失った幼子のように、ユリシスは、泣いた。