月の子 ルナティカ
天にまんまるのお月さまがかかる夜。
月の子供達は光の橋を辿り、お母さんの元を離れて地上に降り立ちます。
月の子の仕事は、人々の安らかな眠りを妨げる悪い夢魔を追い払うこと。
夢魔は夜の陰に潜み、眠っている人間に「ネガティブの魔法」を囁きます。
夢魔にとりつかれた人間はぐっすり眠ることが出来ず、どんどん黒い心が大きくなって、やがて「悪い人」になってしまうのです。
月の子供達はそんな夢魔を光で照らして追い払い、人間の安眠と優しい心を守っているのでした。
そんな月の子供達の中に、一人のいたずらっ子がいました。
彼女の名前はルナティカ。好奇心旺盛な女の子です。
お母さんに言われるままにお仕事に精を出す兄弟達とは違って、彼女は地上の人間達に強い興味を持っていました。
眠っている人間ではなく、起きている人間にルナティカはこっそり近付きます。
今日のターゲットは公園で話をしているカップルです。
男の子はずっともじもじしていて、なんだか女の子はつまらなそうです。
これではルナティカも面白くありません。
早速、えいっとステッキを一閃!
月の光の結晶が男の子に降り注ぐと、突然彼は立ち上がりました。
そして、公園中に響き渡るような声でこう言います。
「ぼ、僕は、君が、好きだー! ずっと好きだったんだ!」
「い、いきなりどうしたの?」
「君を幸せに出来るのは僕しかいない!
むしろ僕を幸せに出来るのは君だけだ!
そうだ、今すぐ結婚しよう!」
「そんなこと、いきなり言われても……」
困惑する女の子にも、ルナティカは魔法のステッキでえいっ!
するとどうでしょう。女の子も立ちあがりました。
「……なんか、あなたとなら私、幸せになれる気がしてきたわ!」
「プロポーズ、受けてくれるかい!?」
「もちろんよ! 一緒に一姫二太朗の素敵な家庭を築きましょう!」
がしっと抱き合う二人。
しかしそこに、なんともう一人の男が現れます!
「ちょっとまったー! 彼女を幸せにするのは俺だ!」
そんな彼にも、ルナティカは、えいっ!
「よし解った、おまえらみんな俺がまとめて幸せにしてやる! 3人で幸せになろう!」
「解ったわ、私2人と結婚する!」
「男二馬力で立派な家を建てよう! 僕達なら世間の荒波を超えていけるさ!」
「3人の未来に、カンパイ!」
「2人とも、すてきー!」
そう、月の子の「キラキラの魔法」を直に浴びた人間は、このように、恐ろしくポジティブになってしまうのでした。
ある意味丸く収まっているようですが、人間界的には大惨事です。
でも、3人が幸せそうなので、ルナティカは大はしゃぎ。
悪気なんてこれっぽっちもありません。
「さて、次はどの人間で遊ぼうかな!」
早速、次のターゲットを物色するルナティカ。
そんな彼女に近付く怪しい影がひとつ――
ごつん!
と拳骨を落としたのは、ルナティカのお目付け役である幼馴染でした。
「また君は、くだらないいたずらをして!
そんなことじゃ、立派なお母さんになれないよ」
そう、ルナティカは月の世界のお姫様。
いずれお母さんの後を継いで、月の女王様になるべき女の子だったのです。
「いいもん。私、お母さんになれなくても。
あなたが私の代わりにお母さんになればいいじゃない」
「男はお母さんにはなれないんだよ、ルナティカ。
ばかなこといってないで、ちゃんと仕事をしなきゃ。
君の担当の人間が、悪い夢魔にとりつかれてしまう」
「ちょっとサボったって、大丈夫よ。
それより私、人間のことをもっと知りたいわ。
あなたも付き合いなさいよ」
そう言って、ルナティカは流れ星の箒に乗り、飛んでいってしまいます。
幼馴染は溜息一つ。
「僕は自分の仕事をちゃんとするよ。
まったく、そんなことをして、どうなっても知らないからね」
幼馴染の心配をよそに、ルナティカは夜の街で遊び続けました。
キラキラの魔法で人間達はどんどんポジティブになっていきます。
歳を取った地味な娼婦は、自信を取り戻して派手なメイクで街へ繰り出し、大人気に。
会社を倒産させた社長は、もう一度ゼロからやり直す勇気を思い出し、喧嘩で離婚寸前の夫婦は、未来への希望を仲直り。
ルナティカは自分の魔法の力を誇らしく思いました。
「ほら、なーんにも悪いことなんて無いじゃない。
私が遊べば遊ぶほど、みんなが幸せになるのよ」
事実、ルナティカの通った後には笑顔が溢れ、人間界はどんどん幸せに満ち溢れていくようでした。
たった一人を除いては。
ルナティカが一度も足を運んだことのない、町はずれの暗い森の中。
そこに、一人の少年が住んでいました。
病気の母親と小さな弟を抱え、毎日あくせくと働いてはいるものの、生活は貧しくなるばかり。
その日の食べ物にも困る有様で、暗く落ち込んだ顔をした少年でした。
もう、どれくらい、自分は心から笑っていないだろう。
ある夜、少年は考えます。
街の方ではいつも笑い声が絶えないのに、自分は何故あんな風に笑えないのだろう。
今日も悲しい気持ちでベッドに潜り込むと、どこからか嫌な声が聞こえてきました。
(おまえに幸せなんてやってこないのさ)
(どんなに頑張っても、どうせ無駄だよ)
(この世界は生まれ育ちがすべて)
(誰もおまえを助けちゃくれない)
(妬んで、恨むのは、おまえの権利だよ)
(体の悪い母親を恨め。おまえをこんな貧乏な家に産んだ母親を恨め)
(小さい弟を恨め。まだ働けない、おまえに苦労ばっかりかける弟を恨め)
(幸せそうな街の人間を恨め。おまえを石ころのように無視する世界を恨め)
それは夢魔の声でした。
「やめろ、やめろよ。
僕は誰も恨みたくなんてない!」
少年は抵抗しますが、安眠は訪れず、心は疲弊していきます。
今、街中から追い出された夢魔は、この暗い森の少年の心にとりついているのでした。
何故なら彼には、彼を守る月の子の加護がないのです。
彼を守るべきルナティカは、街で遊んでいるのだから……。
自分の良心と、夢魔の囁きの間に挟まれて、少年は家族を傷付けることを恐れ、一人森の中へと姿を消していきます。
そんな可哀想な少年の姿を遠くから見守っているものがありました。
それは天のお月さま。月の子達のお母さんである、月の女王様でした。
お母さんはルナティカが夢魔を追い払うことを怠ったために、少年が夢魔の手に落ちてしまったことをひどく悲しみました。
そして、月に戻ってきたルナティカを呼び寄せると、地上の姿を大きな鏡に映し出し、語って聞かせたのでした。
「見てごらん、可愛いルナティカや。
おまえの魔法で地上は笑いに包まれているね」
「そうでしょう、お母さん。私はいい事をしてきたのよ。
だから、少しくらいお仕事を休んでも、許してくれるわね?」
「でもね、ルナティカや。
時にはより多くの幸福より、たった一つの小さな幸福に価値があることもあるのよ。
おまえはこれからそれを知るでしょう」
鏡の中で、仲の良さそうな夫婦が笑っています。
それはルナティカが魔法をかけた夫婦でした。
ルナティカにはどうしても、これが悪いことだったと思えません。
その時でした。
夫婦の前に、黒い人影が現れました。
それはあの少年です。
「……恨めしい……妬ましい……」
少年は呟くと、大きく手を振りかざしました。
その手にどす黒い闇が集まり、うごうごと蠢いています。
それは夢魔の使う「ネガティブの魔法」そのものでした。
夢魔の力は少年の負の感情を啜り、恐ろしくも禍々しく成長していました。
かつてないほどの強大な悪夢が、じわりじわりと街を飲み込んでいきます。
(人間どもよ、この声を聞け)
(愚か者どもよ、夢や希望など甘えた幻想に騙されるな)
(この世に都合のいいことなんて起こるわけがない)
(目の前のそいつもきっと、笑顔の裏側でおまえを裏切ることを考えているぞ)
(信じられるものはこの世で金と自分だけ)
(すべてを疑え)
(自分より幸福な者を許すな)
(徹底的に貶めろ!)
醜いもの、汚いもの、怖いもの、悲しいもの。
ぐちゃぐちゃした嫌なものが、うぞうぞと這いまわるように、
少年の周りから溢れ出し、まずは幸せそうな夫婦に襲い掛かりました。
するとどうでしょう。
夫婦はあっという間にネガティブにとりつかれ、醜く罵り合いを始めたではありませんか!
夢魔達はげらげらと笑うと、少年とともに街を徘徊し始めます。
それを見ていたルナティカは叫びました。
「ひどい! あいつら、なんてことをするの!
せっかく私があの人達を幸せにしてあげたのに!
許せないわ!」
「可愛いルナティカや、もう少し、見ていてごらん」
今にも箒に乗って飛び出していきそうなルナティカを、お母さんは優しく制します。
鏡の中では、悲しい光景が広がっていました。
人が人を傷付け、疑い、奪い合います。
美しかった娼婦は部屋に引きこもり、堂々と凛々しかった社長は従業員に八つ当たり、仲の良かったカップル達も引っ掻き合いの大喧嘩!
そこで、ルナティカはふと、おかしなことに気付きました。
「……この人達みんな、私が魔法を使った人間達だわ」
そう、よく見るとネガティブの魔法にかかっているのは、ルナティカが見たことのある顔ばかりでした。
ではその他の人間はどうしているのでしょう?
ルナティカは鏡の中に目を凝らします。
「え? どういうことなの?」
ルナティカはびっくりしてしまいました。
他の人間達は誰も彼も、ネガティブの魔法を跳ね返して、普通に生活をしているのです。
そりゃ、ちょっぴり落ち込んだりはするようですが、ルナティカの魔法を浴びた人達のように負の感情にとりつかれたりはしていませんでした。
ルナティカには、まったくわけが解りません。
「お母さん、どうして?
どうして他の人達はネガティブの魔法にかからないの?」
「それはね、ルナティカや」
お母さんは言いました。
「おまえの魔法は人間から苦しみを取り除くことができる、とても素晴らしい力だわ。
けれど、人間というのはね、自分で悩んだり、苦しんだり、考えたりしながら、ネガティブな心と戦う力を育てていく生き物なのよ。
魔法の力で苦しみを取り除かれた人間は、自分で苦しみと戦う力を失ってしまうの」
「悩んだり、苦しんだりすることが、良いことだっていうの?」
「良いこと、ではないわね。
夢魔がもたらすような大きな苦しみは、人間の心を壊してしまうこともある。
それでも、必ずしも悪いことではないわ」
「だから月の子は、人間に直接”キラキラの魔法”を使わなかったのね。
眠っている間に、夢魔をそっと追い払うだけ……」
それは、彼等が無防備に眠る夜の世界を守ることで、みんなが自分自身で自分を幸せにするための手助けをするという、とっても大切なお仕事だったのです。
ルナティカは初めて、自分がとんでもないことをしたことに気付きました。
自分がしたことは、誰も幸せにしていなかったことに気付きました。
「ああ、どうしようお母さん! 私、どうしたらいいの?」
「落ち着きなさい、可愛いルナティカ。
これから急いで、月と地上を結ぶ橋をかけましょう。
月の子達をつれて、あの少年を助けに向かいなさい」
「でも、私に一体、何ができるかしら?」
お母さんはようやく、優しく微笑みました。
「今こそ、”キラキラの魔法”が本当の力を発揮する時なのですよ」
お母さんが魔法の杖を大きく振ると、まばゆい光に世界が包まれます。
お母さんにしか使えない、特別な魔法。
それは、世界を変える奇跡の魔法。
終わったはずの満月の夜が再び訪れ、光の橋が月の世界と地上を結ぶと、月の子達が歓声を上げて飛び出していきました。
金と銀の箒星が夜空を駆け回り、子供達ははびこった夢魔を退治しに勇ましく向かいます。
ルナティカも箒にまたがり、いよいよ地上へと降り立ちました。
向かうのはもちろん、あの少年のところです。
少年は今、あの家にいました。
夢魔に完全にとりつかれてしまった少年は、とうとう家族へ復讐を考えたのです。
「俺にこんな苦労をさせやがって!
俺の時間を返せ!
俺の自由を返せ!
おまえらに使った金を返せ!」
少年は、愛していたはずの家族を罵ります。
一度は傷付けることを恐れて離れたはずの家族達が、今、彼の言葉に怯えて部屋の隅に震えていました。
「俺の不幸は、全部おまえ達が悪いんだ!」
「それは違うわ!」
その時、飛び込んできたのはルナティカと、彼女の幼馴染でした。
「どうか正気に戻って! あなたは家族を愛していたはずだわ。
今は、夢魔にとりつかれているだけなのよ!」
「誰だおまえは。他人が邪魔をするな!
そうか、おまえも俺の邪魔をする気だな。許さないぞ……
俺が幸せになろうとするのを邪魔する奴は、どいつもこいつも許さない……」
黒いどよどよとした渦が、また少年から溢れます。
それは彼の家族をも飲み込もうとしました。
しかし、そんなことはルナティカだって許しません。
「そっちは任せたわ!」
「合点承知」
幼馴染が彼のお母さんと弟の前を庇って立ちはだかります。
「安心して。君達は僕が守ってあげるからね」
少年のお母さんは、弟を抱き締めながら心配そうに顔を上げました。
「あの女の子は、大丈夫なのですか?」
「大丈夫。あの子は本当に、本当にいたずらっこで、サボり魔で、まったく困ったお姫様なんだけど、でも、月の世界で一番、強くて優しい女の子でもあるんだ。
きっと、あのお兄ちゃんも、この街も、みんな救ってくれるはずだよ」
その言葉通り、ルナティカの胸には今、強い意志が爛々と輝いていました。
それは自分が引き起こしてしまったこの悲しい事件を、絶対に終わらせてみせるという、強い強い決意でした。
「あなたのネガティブな心を、私が全部受け止める!」
「できるものなら、やってみろ!」
ルナティカの体が、キラキラの魔法の力で光に包まれます。
それはまるで、お母さんのように大きな力を秘めた魔法でした。
ポジティブのパワーを持った妖精達が周囲を舞い踊り、優しいもの、あったかいもの、嬉しいもの、ふわふわきらきらしたものが、そこかしこからあふれてくるのが解ります。
しかし少年も負けてはいませんでした。
心の底から暗いものにとりつかれた少年の周囲には、凶悪な夢魔とネガティブのパワーがひしめいています。
それはルナティカのキラキラの魔法を押し返し、ルナティカの心まで蝕んでしまおうと隙をうかがっているのでした。
「がんばれ、ルナティカ!」
幼馴染が応援します。
「お願い、お兄ちゃんを助けて!」
お母さんの腕の中から、少年の弟も応援しました。
「がんばって、ルナティカちゃん!
どうか私の大切な息子を助けてください!」
少年のお母さんもいっしょになって、ルナティカを応援してくれます。
みんなみんな、ルナティカに希望を感じていました。
ポジティブな祈りと、願いと、希望と、愛の力が、ルナティカに伝わってきます。
夢魔の力を掻き分けて、一歩、ルナティカは少年に近付きました。
「私解ったわ。私の力は、この時のためにあったんだって」
「来るな! 気持ち悪い魔女め!」
「私、ずっと間違っていたの。ごめんなさい、でも、責任を取らせて」
「来るな! やめろ! おまえも俺を不幸にする気だな!?」
少年はネガティブの魔法を使って、ルナティカを追い払おうとします。
しかしルナティカは迷いませんでした。
彼の手を取り、天へと突き上げると、高らかに叫んだのです。
「いいえ、あなたはこれから誰より幸せになるのよ!
夢魔よ、散りなさい! 彼の未来は私が照らす!
輝け、キラキラの魔法!!」
二人の周囲に一段と輝く光が降りました。
少年の心の闇に寄生していた夢魔達が、光を受けて悶え苦しみます。
夢魔が弱るとともに、鬱々と世界を恨み憎んでいた少年の顔からは、だんだんと暗い色が抜け落ちていきました。
頬に紅が差し、目には光が戻り、心には優しい愛情が舞い戻ります。
光の中で、ルナティカは少年が正気に戻るのを優しく見詰めていました。
少年も、ルナティカを見詰め返して、少しだけ微笑み返しました。
光の奔流が収まった後、そこにはもう夢魔の姿は跡形もなく、手を繋ぎ見詰めあったままの二人が立っていました。
「……ありがとう、ルナティカ。
君のおかげで、僕は人間の心を取り戻せたみたいだ」
「いいえ、謝るのは私の方だわ。元はといえば全部私のせいなの」
「でも、君が僕と家族を救ってくれたことには変わりがない」
二人の間にはいつしか、奇妙な友情のような、愛情のような。
ぶつかりあった二人にしか解らない、不思議なものが芽生えていたようです。
幼馴染はちょっとイラッとして、二人の間に割り込みました。
「ルナティカ、僕達はもう帰らなきゃ!」
「ああ、そうね。そうだった」
「行ってしまうのかい」
名残惜しげに問いかける少年。
流れ星の箒にまたがって、ルナティカは彼に手を振ります。
「大丈夫、満月の夜にまた会えるわ!
だって私は、一生あなたを守っていくって、決めたんだもの!」
こうして自分の役割を果たすことの大切さを知ったルナティカは、やがて月の女王様、みんなのお母さんとなって立派に地上を守り続けました。
そのかたわらにはいつも、幼馴染の姿が。
そして、地上ではいつも彼女を待つ少年の姿もありました。
三人の複雑な関係にまつわる数多の物語は、後に聞く人達の多くを幸せにしましたが……それはまた別のお話。