【小話】目覚めの朝
「――っていう夢を見たんだよ」
「はぁ、そうですか。それはなんていうか……難儀でしたね」
暖炉には絶えず火が焚かれている。従者のおかげで今朝も凍えること無く目を覚ますことが出来たフォルカーは、ベッドの縁に腰を下ろしたまま用意されたシャツに腕を通した。磨かれた銀製の飾りボタンが朝の陽を反射して光る。
「いくら陛下のお考えとは言えエルゼ様と貴方がご婚約した夢だなんて……。もしかしたらエルゼ様の想いが殿下に届いたのかもしれません。流石ですね」
「まぁ、あいつの熱意は買う。しかし婚約回避の為にお前を指輪に謁見させるなんてな」
「ゆびわにえっけん??何の話ですか?」
「あー、いいのいいの。こっちの話」
なるほど、婚約が夢ならばポルトを指輪の間に連れて行ったことも夢だったということか。それはそれで惜しい気もするが、まぁ良い。ふーっと肩の力が抜ける。
「今朝は昨日より冷えてますから、上着はこっちの赤いのと紫色のものが厚手でよろしいかと。お好みは?」
「もう少し薄めの紺色のやつがあっただろ。そっちがいい。ダボつくの嫌いなんだよ」
「はぁい」
パタパタとチェストへ戻り、指示された衣装をせっせと探す金色の髪の少女。その姿をじっと見つめた。驚く程いつも通りの朝、いつも通りの彼女だ。飽きもせず着ている赤いサーコートも健在だ。……当たり前のことなんだろうけれど、何故か現実味が薄い。まだ頭が寝ぼけているのかもしれない。
「殿下?どうされました??」
主の異変に小首をひねりながら頭に「?」マークを浮かべるポルト。探してきた上着を持って駆け寄る姿は、放り投げたボールを持ってきた子犬のようだ。細い毛並みにふれるように思わず手が伸びた。
「ふぇ?」
変な声を出すポルトはさておいて、少女の頬をふにふにと指の腹でつまんでみた。夢の中では北塔の監獄の中に一人閉じ込められ、囚人同様の扱いを受けていた。冬の冷気にさらされた頬は冷たく涙で濡れていた。何度も拭ったしずくの感触はおかしなほどリアルに残っている。
ポルトは女だ。泣くなとは言わない。しかし、あんな声を押し殺して何かを堪えるような姿は出来れば見たくはない。
「嫌な夢だったんだ。本当に……」
息が詰まる程の胸の痛みが蘇るようだ。フォルカーは堪えるように目を細める。
自分を落ち着かせるように何度も少女の頬を撫でた。
彼女も何かを察したのか、いつもみたいに悲鳴をあげることも「セクハラ!へんたーい!」と叫ぶこともなく、静かに瞳を閉じて大きな手の平にそっと頭を傾ける。……心地の良い重みで、何処かで凍っていたものが解かされていくようだった。
「私がここを離れると?貴方と喧嘩をして、他の男性と一緒に?」
ポルトが少々訝しげに顔を上げる。金色の瞳にかかるまつ毛が何処と無く艶めいて見えた。
女の顔に触れたことなんて今まで数え切れない程あった。なのに、今日は何故か…鼓動が早まる。
「あぁ……。俺に心底愛想を尽かせて。……いや、もとから好きでもなんでもなくて、金回りが良いからいただけだって……。いや、良いんだ、それでも。そもそも家臣っていうのは稼ぐために働いているのであって……」
「殿下」
フォルカーの言葉尻を食うようにポルトが不服そうに口を尖らせる。
「前にも言ったでしょ?私は見返りなんていらないって。疲れた時に寄りかかって欲しいって。嫌いな人にそんなこと…言わないですよ」
「……そう…か」
彼女の言葉一つ一つが痛みのトゲを丸くする。不思議と軽くなる身体から、言葉が落ちた。
「……ポチは俺のこと好きか?」
『嫌いな人には言わない』ことを自分には言ってくれる…ということは、そういうことなんじゃないだろうか?
いつもみたいに『従者としてですよっ』なんて言われないように、いつになく真剣に、誠意を込めてもう一度聞いてみた。
あんな夢を見たせいだ。万が一が無い訳じゃない未来に、少し不安になっているだけ……。
一方、彼女は瞳孔が開き頬が急に熱を持つ。わかりやすく照れていた。
気まずさから逃げるように「ぅ…あの……えぇと……」と言葉を濁しながら視線をスライドさせる。
この反応だけでも十分に笑えるし癒されるのだが、求めていたのはもっと先の、はっきりとした答え。それは人見知りする彼女への意地悪でもなんでもない。
「頼む。言ってくれ」
朝の忙しい時間に何をやっているのだろう。真面目な彼女のことだ、本当ならこんな面倒くさいお願いなんて「はいはい」で済ませてしまいたい所だろう。
ポルトはしばらく犬のようにうなりながら桜唇ときゅうっと噛んでいた。
「嫌か?」、そう問おうとした瞬間、意を決した金の瞳が上を向く。
「す…きっ」
「――……っ」
胸元でぎゅっと握られた両手。凛と勇ましい眉毛とは逆に、言葉は小さな子供が話すような少し辿々しさが、返って混じりけの無さを証明しているようだった。
「そうか」と言うと、彼女もこくこくと頷く。相変わらずの小動物みたいな動き。思わず口元がほころんだ。そしてそれにつられるように、愛らしい桜唇がゆっくりと上がる。
「……っ」
優しく下がった目元。はにかんだその表情は、季節の始まりに咲く小さな花のように繊細で可憐。
その笑顔に自分も「……そうか」と繰り返してゆっくりと熱のあるため息を吐く。……世界を壊す言葉とともに。
「ここが夢か」
眼の前の風景が疾風のように一気に収縮する。
白い陽の光も、温かな暖炉も、見たこともない微笑みを浮かべた少女も……。
暗い宇宙の点に全てが吸収されるように吸い込まれると、何も残らない『無』の世界が広がった。
右も左も…上も下も無い世界で、浮いているのか立っているのかもわからないような場所に一人きりだ。
助けを求める手は上がらない。そのまま瞳を閉じて闇の中に身を任せた。
「――……」
刻を知らせる大聖堂の鐘が、冬の朝の空気を震わせる。
ベッドの天蓋のカーテンはまだ開かれておらず、隙間から漏れている光が白い線を描いていた。
夢か現かを確かめるように、フォルカーは目元をこすりゆっくりと顔を触る。輪郭にそって滑る指先の感触が、こここそが現実なのだと知らせた。
ふぅ…と小さく漏れる息。
起き上がるにはまだ早いが、再び目を閉じたら同じ夢をみるとも限らない。……それとも、あの世界に居続けることが出来たら…救いの来ない避難所のようなあの場所で彼女と居られたら……。そんなことをまだ何処かで思っていたりするのだろうか?馬鹿な話だ。
眠りは人々に平等に訪れるが、夢から覚めればこの世の鎖に繋がれた生活が始まる。
目に見えないそれを今朝ほど感じた日は他に無かった。




