三者三様✿恋模様:前(★)
「――――――ッッ!!」
どこからか吹くすきま風は、夜特有の香りを鼻孔へと運ぶ。
いつもならとっくに寝付いている時間だというのに、昼間とは違う自分の鼓動が気になって寝付けない。頭から毛布をかぶり直す。
しかし黒い霧のように身を覆う不安で、知らず知らずのうちに身体が強ばっていた。
(………どうしよう………)
見えない幽霊を恐れる子供になった気分だ。
早鐘を打つ鼓動。全身に滲む冷や汗。いつから握りしめていたのだろうか、手のひらには爪の後がくっきりと刻まれていた。
身体を起こし部屋を見回すと、テーブルに置かれた一本のロウソクがかすかな灯りをともしていた。
歴史を感じさせる石造りの建物、その一室には自分の他に数人の男が寝息を立てている。
大きいが簡素なベッドが三つ、そこに仲間達と雑魚寝をしていたが途中で誰かに蹴り落とされたらしく、自分は石床に転がっていたようだ。入り直そうとしたが、先輩の寝相はその隙を微塵も与えない。
(……夜が明けたらまた仕事が始まるのに……)
小さい頃から同じような現象に悩まされ続けているが、最近はそれでもマシになった。自分なりの対処の仕方を見つけたのだ。
未だ収まらぬ鼓動を手で押さえながら立ち上がる。
隣のベッドにも蹴落とされた仲間が床に転がり、盛大ないびきをかいていた。
(こいつなら……っ)
物音を立てないようにゆっくり近づく。そしてその肩に軽く額がつくように寝転がった。ほんのかすかに伝わる人の温もり、そして木とも石とも違う柔らかさ、過剰に存在感のあるいびきの音で、徐々に瞼が重くなる。
空がうっすらと白けてきた頃、やっと休息を得ることが出来た。
◆◆◆◆
昨日とは違い、いつものサーコート姿に戻ると二匹を連れて近くの森へ来ていた。
あまり眠れなかったせいか少し頭がぼぅっとする。祭事の任務でなくて良かった。
豊穣祭は二日目に入った。
きらびやかな場所は嫌いではないが落ち着かない。風が吹き抜ける屋外にいた方が気分は晴れやかだ。
この季節の空は高くて、日光も柔らかく降り注ぐ。両手を伸ばし、思い切り伸びをした。
(それにしても、昨日は色々ヤバかったな。エルゼ様に変な恨み持たれてないと良いけれど……)
……いや、多分持たれた。もう諦めよう。小さくため息をつく。
近くでじゃれ合っていた狼達の鼻先が風の中にいつもと違う匂いを感じ取り、動きを止めた。
「カロン?」
二匹が見つめる先には深い茂みが揺れているだけで、特に変わった様子はない。だが……
(ここは庭師が手入れをするような造園じゃない)
兵には専用の鍛錬場があるし、なにより今日は要人貴族等が集まる豊穣祭。暇を出されている部隊は無いなずだ。
パーティに飽きた貴族連中が散歩で入ってくるほど城から近い場所でもない。そもそもここはフォルカーが狼達の為に用意したプライベートな場所で、民間人が入ってくることもありえない。
「………」
以前隊長が言っていた。
大きな戦の後だから目立った競り合いは無くなる。しかしその分、他国からの隠密行動者…つまりスパイに注意しろと。混乱に乗じてどんな奴が入国しているかわからない。
ポルトは二匹の目を見た。緊張感を漂わせる彼らが指示を待っている。
「―――――行け!」
静かな、しかし力強い声。それと共に二匹が何かに向かって駆けだした。
腰に帯びていたショート・ソードを抜き、その後ろを追いかける。
森の中から大狼達の吠え立てる声が響く。風とは違う木々の揺れ。ガサッと大きな音を立てて、茂みから一つの影が飛び出してきた。
構えた剣が陽の光に反射し、金瞳の焦点が瞬時に絞られる。
くんっと息を飲んだ。
「きゃあぁあぁあっっ!!おやめなさい…!!おやめなさいって言うのがわからないの!!??」
「エルゼ様っ!?」
――――――いた!ここまで来る貴族様がいた!
いつもきちんと整えられているピーコックグリーンの髪にはたくさんの木の葉や小枝がついている。
そういえば昨日、フォルカーと離れるのは嫌だと言って城に宿泊したと聞いていたが、一体こんな場所で何をしているのか。いや、そんなことより今は彼女を救い出す方が先だ。このままでは、尻尾をちぎれんばかりに振ったシーザーが化粧を全て舐めとってしまう。
「ひ・姫、大丈夫です!彼らは女性に噛みつくことはありません。シーザー、カロン、もういい。戻れ!戻れ!!」
剣を納め、彼女の元へ駆け寄ると思い切りはね除けられた。
思っていたよりもその力は強く、ポルトは勢いよく尻餅をつく。
「この無礼者…!無礼者、ぶれいもの――――――ッッ!わ・わたくしを誰だと思っているの!?こんな馬鹿犬、さっさと始末しておしまいなさい!!」
よほど恐かったのだろう、強気なことを言っていても犬を差す指がぷるぷると震えている。
ポルトは二匹に座るように指示を出すと、慌てて跪き頭を下げた。
「申し訳ございません!こっこちらの二匹はフォルカー殿下の飼われている狼でして……!雌のカロン、少し身体の大きい方が雄のシーザーと申します。そして、私は先日ご挨拶させて頂きました殿下の従者、ポルト=チュリッヒです……!」
「またお前なの!?」
「はい…え!?いや、決して意図したわけでは……!」
これは明らかに面倒なことになる、本能がそう言っている。
とにかく先に謝っておこう。
「エルゼ様とは知らず無礼な行い、大変失礼を致しました。昨今、王家を狙う不届き者が現れるという情報があり、思わず二匹を放ってしまいました。責任は私にあります。どうかこの二匹には寛大なご判断を……っ」
「え!?フォルカー様の……ワンちゃんなの?」
「はい……っ!それはもう、大切に大切にされているワンちゃんで、殿下自ら拾われました。兄妹のいない殿下にとって、可愛い弟妹みたいなものですっ」
「……さっきわたくしが馬鹿犬とか始末しろとか言ったこと、他言したら首をはねるわよ」
「はい!エルゼ様は『とても愛らしいワンちゃん』と仰っていました!」
「それでいいわ」
ふんっと腕を組んでポルトを見下ろす。
「……それにしても、姫はこちらにどんなご用件で?」
オシャレなヒールで野山を駆け回るなんて、なかなかたくましい女性である。
「フォルカー様がどこにもいらっしゃらないのよ。貴方知らない?」
「えっ?あ・いえ…っ、こちらにはいらっしゃらない……です」
「従者のクセに役に立たないわね。貴方こそ、ここで何をしているの?」
「わ…私は毎日この森で二匹の運動をさせております。ここは殿下がご用意された二匹のための運動場のような場所でして。殿下が狩りに出かけられた際、獲物を追い込んだり持って帰ってきたり出来るように、こちらで訓練をしております」
「まぁ、猟犬だったの。どおりで犬にしては随分と恐い顔……」
(……それは狼だからです)
もう面倒だから言うのは止めた。
「えと、他にも、近衛隊の宿舎や殿下の元へ届け物をすることもできますし、お側に仕える時は警備の役割も担います。女性や子供には襲いかからないように訓練されておりますので、よろしければお触れになりますか?」
カロンは少し緊張しているようだが、シーザーはエルゼと目が合うと嬉しそうにしっぽを振ってクンクンと鳴いている。甘えたいらしい。
ここ最近わかったのだが、シーザーは主人に似て女性が好きなようだ。そういえば最初に自分に寄ってきたのもカロンではなくシーザーだ。
「わたくし、動物は苦手なの。ドレスに毛もつくし。それにしても……森を迷っているうちに随分いろんなものがひっついてしまったわね。ポルト、ちょっとこっちにきて手伝いなさい」
「え?」
「馬鹿みたいに惚けてないで、ゴミを取れっていっているのっ。誰かに見られたらどうするつもりっ?」
「は・はい!!」
「……貴方、本当に昨日の彼と同一人物なの?今日はまるで地方から出てきたばかりの田舎者みたいじゃない」
「まぁ……実際地方から出てきた田舎者ですから、エルゼ様のお目に間違いがないのだと思います……」
ぶつくさと文句を言われながらも、これ以上彼女の機嫌を損ねないように、丁寧に木くずや葉を取り除いていった。
艶やかでボリュームのある髪は触れると花のような香りがする。
思わず熱のあるため息を吐くと、「何?」とエルゼが振り向いた。
(うわ……、近くで見ると本当に綺麗な人だな……)
アメジストの瞳が陽に照らされて鮮やかに光る。長いまつげ、小さな鼻、きめ細かい柔肌を辿っていけば、ふくよかな谷間が見える。
昨日は緊張しすぎてあまり目に入っていなかったが、陽の下にいるエルゼは記憶にある姿よりもずっと美しい。
(殿下……どうしてこんな人から逃げてるんだろう……)
こんな主人なら、多少足蹴にされたってかまわない。ぶつけられる苦言も、そのうち快感になってしまいそうで恐い。
そんなことを考えているとは思わず、エルゼは何かを思いついたようにふと口を開く。
「貴方、いつもその格好なの?フォルカー様の側にいるのなら、それ相応の身なりってものがあるでしょうに」
「あ……はい……。私は軍出身で、そういったことにはあまり……」
「貴方の評価はそのままフォルカー様の評価にもなるのよっ?主に恥をかかせるつもりなの?まったく……、そこにお座りなさい!」
「えっ??」
思っていたより力強い握力で腕を捕まれると、強引に座らされる。
一方、エルゼは近くの小川で手を塗らすと、跳ねていたポルトの髪を丁寧に濡らし始めた。そして、自分の髪に挿していた髪飾りをひとつ抜くと、櫛にになっている部分で金髪をとかす。
「せめて毎日鏡はご覧なさいな。何故フォルカー様は何も言わないのかしら。まったくもぉ……、趣味が疑われてしまうじゃない」
細く柔らかい指、心地よく髪を滑っていく櫛の感触に、顔が熱くなっていくのがわかった。
どうしよう。すごくドキドキする。なんでこの人、こんなに良い匂いがするんだろう。何より一番目がったのは、自分のものとは存在感がまるで違う二つの柔丘。絶対に柔らかい……!男だったら触りたいと思うのだろう。自分は恐れ多すぎて視界に入れるだけで罪悪感がする!
何より思っていたほど悪い人じゃなさそうで、感情が引きずられていくのがわかった。
「……どうしたの?あなた、顔色がおかしいわ。風邪でも引いたの?」
心を見透かされたようで、思わず鼓動が跳ねる。
「……こ・こんなに美しい方とお会いするのは初めてで……。何故殿下がエルゼ様をお迎えにならないのか、まるで理解ができません……」
殿下には申し訳ないが、本音である。
「でしょう!?貴方からも、よく伝えておきなさい!」
「はい……っ」
毛先の跳ねが大体収まったのを見て、エルゼは髪飾りを元に戻した。
鏡も見ずにそんなことが出来るなんて、きっと器用な人なんだろう。少なくとも自分は鏡があっても寝癖ひとつ直すことはしない。
「……ねぇ、フォルカー様は動物がお好きなのかしら?」
「特にそういったお話を伺ったことはございませんが、この二匹は特別なのだと思います。それもこの子達にはよく伝わっているようで、世話役の私でさえ、殿下がいらっしゃるときは二匹を扱いきることができない時もあります」
「そう……」
「如何されましたか?」
「フォルカー様がお好きなら、わたくしが逃げるわけにはいかないわ…!」
胸の前でぎゅっと手を握りしめ「よしっ」と小さく気合いを入れると、エルゼはシーザーを睨み付けた。
ごくんと生唾を飲み、指先を恐る恐る白い毛並みへと伸ばす。
(シーザー、お座り……っ)
彼女が何をしようか察したポルトがシーザーに合図を出す。
エルゼの指がふわふわとした毛並みに触れる。緊張した面持ちで二三度撫でると、シーザーのしっぽがちぎれんばかりに左右に揺れた。湿った鼻先を姫の手のひらに押しつけるとペロリと舐める。
「きゃぁっ!」
思ってもいなかったシーザーの行動に驚いたエルゼは思い切り手を引っ込めると、その反動で体勢を崩す。
「姫っっ!!」
ポルトは地を蹴って彼女の身体を受け止め、そのまま下敷きになった。決して軽くはないその重さで喉の奥から「ぷぎゃ」と変な音が出る。
枯れ始めた草がクッションの代わりになったが、身体を起こした瞬間、頬に痛烈な刺激を受けた。
彼より素早く起きあがった姫の平手打ちが、頬に紅葉模様をつけたのだ。
「ぶぶぶぶぶ無礼者おぉおっ!ただの一兵卒のくせに、どこ触ってるのよっ!しかも『ぎゅっ』て力を込めて……くぅのっ変ッ態ッッッ!!」
「えぇぇえええぇっっっ!?わ・私はただ姫が倒れそうになったので……っ」
「わたくしの身体はフォルカー様のもの!少しでも変な気を起こしたり、妙なそぶりを見せたら即刻首を切り落としますっ!いっそこの手でぶっちぎってやりますッッッ!!」
「おおおおお起こしませんよ、そんなものっ!起こるわけありませんっ」
命は惜しいという以上に、死ぬにしてもそんな理由は本当に嫌だ。
「な・なんですってっ!?毎日貴方の百倍も一千倍も身なりには気をつけているわたくしに魅力も感じないと!?」
「いえっ、決してそういう意味ではなく……っっ」
あれ、なんかこのくだり、イェニーの所でもやったような……。
「これでもわたくし、フォルカー様にいつお声をかけていただいてもいいように努力を惜しんだことはないわっ。外見だけじゃないのよ!?国内でも有数の先生方に来て頂いているし、専門的な言葉じゃなければ多少の通訳はできるわっ」
「あ・は・はいっ」
「狩りがお好きだと聞いたからついて行けるように乗馬も習ったわ。お酒もお好きだって聞いたから、酒造所の人間を家庭教師に雇い入れたくらいよ。まぁ、他の女性との噂は色々聞いているけど……ま・まあ、若い殿方なら仕方のないことね!わたくし、いちいち問いつめるほど器の小さな女じゃなくってよ!如何かしら!?貴方の知りうる女性の中で私以上の方がいらっしゃって!?」
「完璧じゃないですか……!!」
フォルカー様、嫁に貰った方が良い!、ポルトは心で叫ぶ。
「これくらい当たり前よ!だいたい貴方、フォルカー様のお側にいるからって何か勘違いされているんじゃなくて!?貴方に必要なのはそんな貧乏そうな身なりでも無礼な物言いでもないの!失礼のないマナー、屈強な肉体、そして主と国に命をかける忠義でしょ?ちゃんと責務を全うしなさいっ」
「は・はいっっ」
手を腰に当てながら上から怒鳴る声は隊長に比べると随分と可愛らしいものだったが、フォルカーの前で甘えている時のものとは天国と地獄程の差を感じる。
(これが女のヒステリーってやつか……)
隊にいる時間が長く、あまり女性と時間を過ごすことがなかったポルトは蒼白になり、彼女の豹変ぶりにただただ驚くばかりだ。
「…まぁ、今日の所はいいわ。わたくし、城に戻ります。フォルカー様がそろそろお部屋にお戻りになってるかもしれないし。いい?彼に会ったら、よくお伝えしておくのよ?おわかり?」
「はいっ」
ふんっと鼻先をならし、ポルトに教えられた道を戻っていくエルゼ。
その背中が見えなくなると、ポルトは一気に肩の力が抜けた。
「………………はぁ~~……っ」
ぺたんと座り込むとシーザーとカロンが労をねぎらうように頬を舐める。二匹の可愛い頭をがしがしと撫でてやった。
「く……っ。くふふふ……っっっ」
「……笑いごとじゃないですよ……。貴方のせいでもあるんですからね」
曇り空のように濁った瞳で見つめる先、それは近くの茂みの中。今まで人影すら無かった場所から笑い声が聞こえる。
「だ…だから言ったじゃねーかっ、エルゼは凄いぞって!あははははっっ!お前、目が点になってたぞっ。あはははははっっ!」
小枝を押し分けて姿を現したのは一人の男。姿を隠すためか麻のローブを纏っている。深くかぶっていたフードを脱ぐと、馴染みの赤髪が現れた。
次回は21日頃更新予定です。
どうぞよろしくお願い致します。