私の望み(★)
寝酒となる琥珀色のワインをサイドテーブルにセッティング。
部屋の暖炉に火を入れ、もうすぐ戻るであろう主を迎える準備を行う。
昔、「正体も知れない者に、よくこんなことをさせるものだ」と聞いたことがある。すると「俺が食い物で死んだら真っ先に疑われるのはお前だ。町中引きずり回されて石投げられちまえ。ザマーミロ、わはははは」と驚くほど己の心に純度の高い返事が来た。
もしダーナー公の時のような毒がフォルカーに仕掛けられていたら…間違いなく容疑者の一人として名があがるのは自分。フォルカーの言っていた冗談が冗談でなくなることだってある。
その危険が思っているよりも身近にあることを知っているのは自分と…カールトンだろう。
(依頼主…か…。私の知ってる人なのかな?他国の要人だったら、私には手に負えないかもしれない…)
ポルトが気になっているのはそれだけではない。
先日やっと屋敷に戻ったダーナー公の容態が急変した。メイド達の噂では、もともと寒くて乾燥するこの時期は体調が崩れやすくなるらしい。しかし先日の騒動での毒は他の病をも併発させてしまったそうだ。
冬はこれから始まるというのに、無事に越せるかどうか…主治医ですらわからないという。ふいに暗殺者姿のカールトンを思い出し、胸の奥には黒い靄がくすぶる。
城での情報収集には限界があった。なので、フォルカーが眠った後に町の酒場を回り始めたのだが…。何せ城下町は店舗数が多すぎる。まだ半分も調べていない。
一人で背負いきれないのならやはり協力者を作るしかないのだろうか?屈強な身体に硬い口を持つ者、できれば自分よりも知識の高い独身者が良い。
ふと近衛隊の二人の姿が浮かんだが、彼らはフォルカーの警護がある。自由に動ける身ではない。
(エルゼ様だったら…動けるかもしれない……)
高い身分と教養。将来フォルカーの隣に立てるように努めているの彼女の顔の広さは外交官ですら脱帽する程だ。もしかしてメイドも知らないような噂を聞いているかもしれない。身体も丈夫そうだ。何より想い人の命がかかっている。協力してくれるかもしれない。
一抹の不安があるとすれば、先々王の肖像画を父だと告げた一件で嘘をつく奴だと思われていることだろう。
本当のことを打ち明けたとしても、まともにとりあって貰えるんだろうか?「あの阿呆がこんなこと言ってましたのよホホホ」なんて雑談のネタにされてはかなわない。
せめてカールトンの抑止力になればと、先日庶務を頼まれ城へ来ていた彼を尾行した。が、早々にバレたので「勉強のためです!」と追従に切り替える。
城は人目が多いせいだろう。かなりウザそうな目で見られたが以前のように喧嘩を売られるようなことは無かった。もしかしたら足と蜂蜜ミルクを運び続けた成果……?
時折廊下の端や向かいの窓からフォルカーが睨んできたが、とりあえず後回しにする。あの人の機嫌は二の次でいい。
カールトンと過ごした時間は少なくも確実に積み重なっているようで、今日は小さな奇跡も起きた。彼が目の前で用意した蜂蜜ミルクを飲んでくれたのだ。しかも飲み残しを無言で渡してくれた。ついに心の鋼鉄の扉が開いたのか…!という感動とともに貰ったミルクを一気飲みする。
ただ、ドアの隙間から見たことのあるエメラルド色の瞳がギラつき、殺意に充ち満ちたオーラを垂れ流していたが…もうこれも後回し。多分カールトンにはバレバレだっただろう。
というか、一応暗殺リストに入っているかもしれないので出来れば遠くにいて欲しいのだけれど……。
夜風が窓をカタカタと鳴らす。
一人で過ごす部屋で他にすることもなくなってしまった。
そういえば交換日記が返ってきていたんだった。自室に戻り、プレゼントを開く時のような高揚感を抱きつつページを開く。
そこには謎の左手が描いてあった。簡単なデッサンのようなもので、途中で飽きたのか下半分がミノムシのようにぐちゃぐちゃになっていた。
恐らく彼はこの交換日記が『付き合い始めの男女がすること』という想定を忘れている。
(殿下ったら適当なんだから…)
自分の絵と比べるともしかしたら若干…極々僅差で上手いのかもしれないが、メッセージ性や芸術的観点からすると自分の方が遥かに勝っているに違いない。
(私がもっとちゃんとした《女》だったら…返事も変わってたのかな…?)
見え見えのお世辞や過度に容姿を褒め称える台詞を並び立ててくれるのだろうか?
まあ、言われた所でツッコミを入れてしまいそうだし、そもそも自分が彼にそれっぽいことを言っていないのだから、彼にだけ望むのは我儘というものだろう。
(私が…あの人に望むこと……)
日記の革表紙に手を置き親指でそっと撫でた。
誰かに何かを望んだところできっとそれは手に入らない。入ったとしても望んだ形である確証もない。
深く考えず、訪れた幸運も不幸も素直に受け入れるのがきっと一番なのだ。
フォルカーの部屋に戻り、金の取っ手が輝く火かき棒で暖炉の薪をかき分ける。
より多くの空気を取り込めるようになった炎がゆっくりと大きくなり、部屋が暖まる頃フォルカーが戻ってきた。
「……ん?お前、なんか暗いな。腹でも壊してるのか?」
「お腹は元気です。殿下の気のせいですよ」
訝しげなフォルカーを横目に、彼が就寝するための準備を整える。着替えをさせ、明日のスケジュールを確認した。
燭台のロウソクを消すと部屋は暖炉とサイドテーブルに置かれたロウソクの僅かな明かりだけになる。他に用事も無いようなので、ポルトは主人に頭を下げた。
「それではおやすみなさいませ、殿下」
「……なぁ」
「はい?」
「……まだ眠くないんだ。ちょっと付き合わねぇか?」
「?」
「……ここ、座らない?」
視線に促され、ポルトはベッドに横たわる彼の足元に近づく。しかし、「違う、そこじゃない」と言われ、すぐ隣に恐る恐る座った。
鼓動がにわかに早くなる。主人のベッドに座るなど許されることではない。胸の早鐘はきっとそのタブーを破っているからだ……と思う。
「…………」
「――――……」
彼は満足そうに目を細めてこちらを見つめている。全身がくすぐったいような感覚に襲われて思わず目をそらした。
「何か話をしよう」
「おはなし……」
彼が眠ったら酒場回りをしようと思っていた。……でも、なんだか身体が動かない。
「横になってもいいぞ。どうせ誰も来ない」
ぽんぽんと枕を叩く。さすがにそれは…と首を振ったが、「いいじゃん、別に!」と駄々をこねるように腕を引っ張られ、仕方なく寝転がった。
「さっき…何を考え込んでたんだ?」
「いえ……、何でもないです」
「あいにく俺は女の『何でもない』は信じないことにしてるんだ。この前言ってた俺には言えないやつか?」
「別に特別なことは……。ただ最近ちょっと気になることが多くて。自分がどうしたいのかも…周りも自分もうまピースがはまらないパズルみたいで……。もっと私の頭が良かったら…大人だったら、もっと普通だったら……。もっと上手く出来たのかなって……」
その言葉に小さく吹き出す。
「お前の言う普通っていうのがその辺の村娘のことだとしたら、今のお前に無理なことは普通のお前になっても無理だと思うけどな」
「そ・そんなこと……っ」
「で?普通になったお前は何がしたかったの?」
「――――……」
きっと笑顔のひとつも作れただろう。
愛嬌良い娘になって心許せる友人を作りたい。
カールトンへ笑顔を向けることができたら、もっと警戒心を解いてもらえたに違いない。
読み書きだって出来ていただろう。
そうしたらもっと勉強をして本もたくさん読んで、賢い人間になれていた。
きっとロイターに脅されなくても資料や記録を読めていた。
身体に醜い傷もなかったし、卑屈っぽい性格も無かっただろう。
そうしたらもっと…自信を持っていられたかもしれない。
……他人からの好意も、素直に受け入れられたかもしれない。
「?」
目の前の彼を見て、また視線が落ちた。
ありえない「もしも」を想定して何かを望むだなんて愚かなことだ。
「私の…望み……」
「うん?結婚して家族が欲しいんじゃなかったの?」
「まだ先で良いです。今は考えていませんし、そこは相手との縁もありますし、『普通の私』だけではどうしようもない無いと思いますし……」
ふかふかな布団の感触が頬に心地よい。覚えのある彼の匂いが眠りの縁へとゆっくり誘う。
空気に耳を傾けるように息をし、まぶたを閉じた。
二人で歩いたレンガの道。見上げた空。風が舞い上げた木の葉、流れる髪。重なる影。視線は時にぶつかり、離れ、そして同じ風景を見た。
色づいた記憶、その中にある煌めきの欠片を拾い集めるように思い返す。
「……名前……」
「名前?」
見たもの、感じたこと、全部全部ひっくるめて考えた。
今の自分…ありのままの自分が願う夢を。
「今…こうして何もしていない時間も結構好きだったりするので……。普通でも普通じゃなくても……その…これからも『ポチ』って呼んで貰えたらいいなって。そんなことを思いました」
最初はふざけた名前だと思っていた。でもこの名が聞こえている場所は安心出来る…唯一無二のかけがえのない場所なのだ。彼にはきっとわかってもらえないかもしれないが……。
フォルカーは「変な奴」と笑うと、少女の金色の髪を優しく撫でた。
「折角王子様の隣にいるんだ。もっと夢を見て欲しいとは思うけどな」
ベッドから起き上がると、何故か外出用の上着を羽織る。
「殿下?どうされたんですか?」
「お前もなんか羽織ってこい。外は冷えるぞ」
「外??これからですか??ダメですよ、こんな時間に…。近衛隊の皆さんにも止められますよ!」
「さぁて?そりゃどうかな?」
フォルカーが壁にかかっているタペストリーを上げる。そして石壁のある部分を強く押し込むと…ガコリと音がした。普通の壁だと思っていた部分に直線の筋が入り、そこに『扉』があるのだと初めて知る。低い音を立てながら開いたその奥には、下に続く階段が隠されていた。
「!?」
「絶対に誰にも言うなよ?」
彼はにぃっと口角を上げた。




