【後】幸せの種
「もう大丈夫」と差し出された手。見上げた先にいるのは本当に善意の人なのだろうか?
救い上げると見せかけて引きずり込もうとはしていないだろうか?
贄として連れて行かれないように、騙されないようにすることは、この厳しい現実を生きていく上で必要なことだ。でも悪意を持たない行為に疑いの眼差しを向けることは、信頼関係にヒビをいれる行為だ。そんなことは十分わかっている。それでも…自分に向けて広げられた腕を素直に見ることは出来なかった。
ポルトの話を聞いていたフォルカーが口を開く。
「まぁ、お前のその気持ちもわからんでもない。俺も似たような経験がある」
「え?殿下がですか?」
自分とはまるで立場が違うはずの彼に、ポルトは思わず聞き返す。
「まだ俺が子供だった時のことだ。剣の稽古中に仲の良くなった奴がいてな。時々城にも遊びに来てくれてたんだ。こっそり城を抜け出して川へ釣りに行ったり森に入ったりして。勿論後で怒られたけど…でも俺達はつるむのを止めなかった」
「良いお友達だったのですね」
「ああ、そうかもな。……ある夏の日、天気も良いからまた抜け出して川へ行こうと思ってさ、城に来ていたそいつの所へ行ったんだ。父上達が小難しい話をしている間を狙ってな。待合室の扉の前に立って、取っ手を握った瞬間のわくわく感は今でも覚えてるよ。俺はそこでちょっと悪戯心が働いた」
「?」
「『突然扉を開いて大声で脅かしたら…きっと面白い!』って」
よくある単純な悪戯だ。
幼き日のフォルカーは高鳴る鼓動を押さえながら、気づかれないように数センチ扉を開ける。すると隙間から中でくつろいでいるであろう子供と従者の声が聞こえてきた。
『いつまであの王子のお戯れにお付き合いされるので?活発に身体を動かすことも大切ですが、あまり危ない場所に行かれては……』
『今から取り入っておけって父上がうるさいんだよ。今日だって本当はエルマー達に町で遊ぼうって誘われたのに…。お前、まさか僕が好きでやってるなんて思ってるんじゃないよな?』
『確かに殿下と親密なご関係を築かれれば、後々坊っちゃまに大変有益なパイプになりましょうけれど……』
『わかってるよ。でもさ…いくら王子とはいえ僕の方が年上なんだぞ?あいつ年下のくせにすごく生意気だし。ホントむかつく。あーぁ、風邪とか腹痛でもなんでも良いから、王子は寝込んで今日は接見できないってことにならないかなー……』
幼子の鼓動が不規則に脈打つ。一瞬何が起きているのかわからず瞬きすら忘れた。
扉一枚隔てただけ空間が別の世界に思えた。
その日、フォルカーは彼の望む通りのシナリオを演じ、そして二度と声をかけることはなかった。
「―――こんなこと珍しい事じゃない。一度や二度の話じゃないからな。でも現場を実際に体験しちまうと……。変にゴマをする大人には慣れていたが子供相手でもこうなるのか、って……流石の俺もちょっとは凹んだ」
「もしかして殿下が今まで側に誰も置かなかったのは、それが原因なのですか?」
「色々面倒だったのは確かだし、それだけってわけじゃねーけど……。俺は俺で楽しむから、テメーはテメーでよろしくやれよって気になっちまってな。まぁ彼女が出来るまでそんなに時間はかからなかったし、すぐにどうでも良くなったけど」
「……随分と風紀の乱れたお話で」
「妬くなって」
小さく眉をひそめるポルトに思わず笑う。
「女はいいぞ。一途で情熱的な子が多い。地位が目的だとしても十分楽しませて貰える」
「はぁ、左様ですか」
「まぁまぁ。話はちょっと逸れちまったけど…。そういうことがあって、俺はしばらく近づいてくる連中に不信感を抱くようになっちまってな。疑心暗鬼のまま誰かといるよりは一人でいる方が楽だってなって。だから真意を疑って他人を信じられないお前の気持ち……、わからんでもない」
「……」
「この話、誰にも言うなよ?」
ポルトは小さく頷いた。
まるで立場が違う二人だけど、変な所で似たような経験をしていたらしい。
そこでふと疑問が生まれる。
「あの……」
「うん?」
「今は…どうですか?まだそういうお気持ちはありますか?」
「まさか。言っただろ?子供の頃の話だって。そもそも全ての使用人、役人達は仕事をする為に城にいるんだ。お前だって従者じゃなきゃ城にいないだろ。連中も自分や家族の将来がかかってるんだし、誰相手にどんな態度を取ったとしたって今更なんとも思わねーよ。むしろそんなもんに上の者が振り回される方が馬鹿ってもんだ。折角『殿下のお役に立ちたい』だの『殿下のために』だの言ってんだから、言葉通り使ってやればいいのさ。ただ、そいつ等が望む見返りをくれてやるかどうかは保証しないけどな」
フォルカーほどの人間でも、そんなことを考えるのかと驚く。
いつも慕ってくれる女性と一緒にいたのも、そして後腐れ無いような短い時間の中でしか過ごさないのも、それが理由にあったりするのだろうか?そう考えると少し寂しい気もした。
「あの……」
「うん?」
「いつか…いつか近いうちに殿下はご結婚されます。そしたらきっともっと毎日が温かい感じになって、そんなこと考えなくなります。殿下のお嫁さんは、きっと殿下のこと…たくさん大切にしてくれますよ」
「いや~、それがな。最近は『死んでもついてく』なんて言う奇特な奴が現れて…」
「!」
「それなりに楽しくさせてもらってる。だから、まだしばらく嫁はいらんな」
片眉を上げたフォルカーの視線。
あの日の言葉に嘘も後悔もない。ただ改まって言われるとちょっと恥ずかしい。
「色々詮索するつもりはないから、何でお前がそんな風に考えちまうかはわからんが……」
「―――……」
「例えば……カロンが怪我や病気で元気が無かったとする。普通に考えたら犬の一匹や二匹、放っておいて死んだってどうってことはない。また新しい猟犬を連れてくればいいんだから。良い犬はいくらでもいる」
名前を呼ばれたカロンが寝そべっていた場所を離れ側に寄ってきた。白くてフワフワの尻尾を振りながら「どうしたの?」とでも言うように可愛い目を向けている。
「動けないなら捨てちまえばいい。使えないなら意味ないからな」
「捨て…る?」
弱ったこの子を?なんて馬鹿なことを言うのだ。そんな時こそいつもよりも側にいてあげるべきだというのに。想像しただけでもキリキリと心臓が痛む。
「そんなの…無理…っ!」
フォルカーの言葉に何度も首を横に振った。
「お前が言ってるのそういうことだ」
「な…っ、出来るわけないじゃないですか…!カロンですよ…!?看病します…!毎日様子見て、ちゃんとお薬もあげて……っ」
「それが見舞いに来た連中の気持ちなんじゃないのか?」
「………っ」
ポルトは大きく目を見開いたまま止まった。
「損得で話をするなら、カロンが元気なだけで嬉しくて…それこそ得した気分になるみたいに、お前が元気でいりゃ満足する連中がいた。そういうことだと俺は思うぞ」
カロンの頭をぐりぐりと撫でる。
「…………」
ポルトは頭が上手く働かず止まったまま。
突然空から降ってきた落とし物がストンと自分のバックに入ったかのような気分だった。
「でも…そんな……」
「嘘だと思う?これも納得出来ないと?だとしたら、カロンの面倒をみるって言ったお前の気持ちも嘘になるな」
「!」
それが嘘だなんてことは絶対にない。生まれ変わったって絶対に。
でもそれは今まで皆に持っていた自分の考えとは相反することで。二つの波が大きくぶつかって思わず立ち上がる。側にあったリンゴが床に落ちて転がっていった。
「――……だって…そんな…!そんな……そんな…こと……。今まで誰にも……」
誰にも言われなかった。……いや、本当にそうなのか?
戦場で死の間際にパンをくれた仲間は?倒れそうになった時肩をかしてくれた隊長は?立場に囚われない言葉をくれるローガンやフォルカーは?
いつもなら深く考えることも無かった言葉やプレゼントの前にして、戸惑ってしまったのは何故だったのか。
“それ"は確かな形で目の前にあったのではなかったのか。
「そんな……」
何かを堪えるようにサーコートの裾をぎゅうっと握った。
「そんなことってありますか……?だって…『私』ですよ……?」
口に出すのは怖かった。
否定されたら『やっぱりそうだ』と再確認してしまう。悲しくてしばらく立ち上がれなくなりそうだったから。
目元が熱くなって、言葉の最後は声が震えてしまった。
フォルカーの顔を恐る恐る見上げる。
「俺は事実しか言ってねぇぞ」
「――……っ……」
誰の目にも映らないような時間を過ごしてきた。それがごく普通のことだと思い、疑いもしないほどに。
胸の奥をずっと黒い影が覆っていた。
その下で、いつか差すかもしれない陽の光を待ちこがれていた小さな芽…。きっとそれが自分の“本当"だったのだのかもしれない。
「殿下……」
「ん?」
「……私…、私……ここにいられて…幸せです……っ」
雪解けの雫のような涙。肩をすくめて、くしゃくしゃの顔になった。
いつもと違う様子に心配をしたのだろう、カロンが鼻を小さく鳴らし大きな前足を上げて飛びついてきた。甘えるような高い声を出しポルトの顔を一生懸命舐める。それに気づいたシーザーが「俺もやる!」とでも言うようにポルトにのし掛かった。
大狼二匹の体重を支えることのできない身体はそのまま床に転がり、盛大なペロペロの餌食となる。
冬仕様になったモサモサの毛皮の隙間から「んうぅぅぅ…っっ」と籠もった声が漏れた。
(あ)
その様子を見ていたフォルカー。
ロイターに悪戯された跡なんて、とっくの昔にこの二匹によって上書きがされていたことに気がついた。
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