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【後】放っておいて。一人にしないで。(★)

 冷たい床石は濡れていた。その上を真新しいブラシがゴシゴシと前後する。


「ふぅ……」

 

 以前フォルカーの悪戯で首にキスマークをつけられたことがあった。それは複雑な感情を生み予想以上の力を発揮させた。その結果、ブラシの柄をへし折った。

 その後、新しいブラシが無事に補充され、軽快な音をさせながら泥汚れを落としていく。


 狼達は最近城にいる方が多いのであまり汚れていない。早めに掃除を終わらせ庭へ出ると、まだ顔を出す陽の光に目を細めた。

 カコンとバケツを置き空を飛んでいく鴨の群れを見上げる。

 ぼやけた輪郭の白い息がふわりと浮かび消えていった。


「――狼従者!ここにいるの!?」


 そこへ狼の森の静寂を破る声。その口調でポルトには声の主がすぐにわかった。慌てて柵を乗り越えて彼女の元へ向かう。


「エルゼ様…!?い…一体どうされたのですか…!?」


 視線の先で長いピーコックグリーンの髪が波のように揺れる。あれは柔らかくてとても良い香りがするのだ。愛らしい菫色の瞳は猫のような輪郭をなぞり、長い睫は瞬きをしただけでも快い音を奏でそうだ。汚れを知らない白磁の肌、そしてポルトが憧れてやまない女性らしい豊満な胸元には今日も見事な谷間が出来ていた。


挿絵(By みてみん)


 後には何処にいるとも知れない狼を恐れている侍女が、木の影から恐る恐るこちらをうかがっていた。


「フォルカー様が何処にもいらっしゃらないの。こちらに来ていらっしゃる??」


 赤い艶のある唇を少し尖らせるエルゼ。傷薬用の軟膏を塗ったら、自分も少しはあんな感じになるのだろうか?


「殿下は東の応接間で政務官の皆様と公務をされているはずです。そろそろ終わる頃じゃないでしょうか?」

「そうなのよ!だからお迎えしに行ったのに、覗いてもいらっしゃらなかったの!」

(逃げた…)


 多分何らかの方法でエルゼが来ることを知ったフォルカーが、ちゃちゃっと仕事を終わらせて逃亡したに違いない。野生の勘でも働いたのだろう。

 それにしても、狼をあんなに怖がっていた彼女がまたここに来るなんて…。恋の力は恐ろしいものだ。


「従者なんだからフォルカー様が行きそうな場所を知っているでしょう?」

「殿下は神出鬼没というか、本当に別の次元の生き物みたいに消えたりするので私にも詳しくは……」

「くぉのっ、出来損ないっ!!しかもまた寝癖つけたままだし!」

「ぅ……」


 きっと遠くへは行っていないだろう。しかしエルゼが城にいる限り出てこないかもしれない。


「今まで彼が隠れていた所を思い出せないの?使いの者に調べさせるわ」


 ふん、と細腕を組む。

 ポルトは主に気を遣い、頻繁に隠れる場所ではなく滅多に行かないような場所をいくつか伝える。その中にはエルゼが思いもよらなかった場所もあったようで、「そこは思いつかなかったわ」とそこそこ満足してもらえた。


 ほっと一息ついたところで、エルゼがこちらを伺うように声音を落とす。


「……あなたのこと、少し噂になってるわよ。ロイター様にちょっかい出されたんですってね」


 ロイターはただ黙って悔しさを噛みしめるような男ではない。きっと何処かで愚痴でも吐いたのだろう。心境を現すかのように視線が落ちていく。


「……そうですか。でもエルゼ様のお耳に入れる程のことでは……」

「ロイター家は代々何かしらの役職に就いていらっしゃるけど、彼は昔からあまり良くない癖がおありなの。昔はもっと節操が無くてね、気に入った相手なら性別は問わず。一度私も声をかけられて思いっきり振ってやったわ。そしたら私の侍女に手を出そうとしたのよ?今思い出しても心地の良いものではないわね」

「………」

「…大丈夫なの?」

「?」

「侍女はその時の恐怖を三月は引きずって半年後には辞めてしまったわ。彼女には慰めてくれる恋人がいたからまだ良かったけど、あなたは…誰かそういうお相手がおあり?」


 念を押すように「フォルカー様以外でね!」と付け足す。……彼を含めてたってそんな相手はいない。そもそも誰かがいたところでこの記憶が帳消しになるわけでもないし、一人で乗り越えなくてはいけないことくらいわかっている。


「カールトン様に助けて頂きましたし、その…襲われたって言っても最後まできっちりしっかりされてしまったわけでもないので…。少し驚きはしましたが、私は大丈夫です。何も問題ありません。お気遣い、感謝致します」

「……」

「?」

「そんな顔して何が大丈夫なのよ」


 やや呆れ顔で小さくため息をつくエルゼ。


「嘘がヘタね、お馬鹿さん」


 重なる細い指がポルトの両頬…ロイター卿に厚い唇を押し付けられた場所を包み込む。嗅いだことのある花の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。彼女の香水の香りだ。

 じっと見つめる意志の強そうな菫色の瞳。そこには今にも泣きそうな顔の自分が映っていて、彼女の言葉がやけに身にしみた。

 あの男に襲われたのと同じ森で、エルゼが柔らかい髪を風に揺らす。


「いい?あんな粗野な変態男のことなんて忘れて、このわたくしの手を覚えておきなさい」


 頬の上を温かくて柔らかい指が数度優しく滑る。そして最後にはぺちぺちと軽く頬を叩くような素振り。全然痛くないそれは、元気を出せと肩を叩かれているかのようだ。


「フォルカー様の大切な従者はわたくしにとっても放っておける者ではないわ。今度あの男が何かしてきたら、ただじゃおかない。社交界であることないこと吹き込んで社会的に抹殺してやるんだから…っ」

「ぇ………」

「女たちの噂話のネットワークとその威力、とくと思い知ることになるでしょうね……!ふっふっふっふ!」

(確かにそれは凄そうだ…)

「カールトンの方にも何か口添えをしておかないといけないわね。王子の従者を助けたんですもの。ちょっとした褒美を取らせてもいい位だわ」

「――……」

「ロイター様もロイター様よ。あなたに手を出すなんてフォルカー様に喧嘩を売るようなもの。…まあ逆を言えば、貴方を手懐けることができれば悪くない手札にはなるけどね」

「………」

「なんというか…自信がおありだったのね、ロイター様……」

「!」


 最後の一言に寒気が走り身震いする。


「あのっひとつお聞きしてもよろしいでしょうか…!?」

「何?」

「エルゼ様は類い希なる美貌をお持ちです…。ただでさえ不届きな輩と関わられてきた事も多かったことでしょう。それなのに何故……」

「?」


 彼女の不思議そうな表情を余所に、ポルトの視線はある場所へと注がれた。


「何故そんなに胸元を強調されるのでしょうか……!?」

「は?」


 だってだって……!こんなに白くて立派で…視覚的暴力を振るってくるもの、男じゃなくても目に入ってしまう。この可愛らしい顔で二三度揺らされたら、酒場の男は全て下僕になってしまうんじゃないだろうか。少なくともアントン隊は隊長を残して全滅だ。


 良くも悪くも強力なエサになる…ということは嫌な思いだってしてきただろう。

 男として生活している自分ですら今こんな状況なのに、何故彼女は必要以上に包み隠さずいるのだろうか。

 真剣なポルトの眼差しにエルゼは「ふふん」と笑う。


「幼少の頃、わたくしの将来を見抜いたある方が、来るべき日に備えて助言を下さったの」

「助言…?」

「『お前はどう転んでも男共の目を惹く女に成長するだろう。両親は操を危惧し、色々野暮なことを言ってくるであろうが…これだけは覚えておけ』」


 ぽよんっと揺れる胸元を力強く叩くように片手を置いたエルゼ。もう片方でビシィッとポルトを指さし語気を強めた。


「『見えぬ谷間に意味はないッッ!!』」

「!?!?」


 どこか覚えのある衝撃だ。


「『あるモン使って何が悪い。出せるうちに存分に出して、馬鹿な男共に見せつけると良い』、とのことよ。でもそこに吊られた男とは絶対に一緒になっては駄目なんですって」


 その口調、内容からポルトはある人物が思い浮かぶ。


「あの……、“ある方"ってもしかして王妃様ですか?」

「あら。よくわかったわね」

(だんだん傾向が見えてきた…)


 まだ初潮も来てないような女児になんてことを吹き込んでいるのだろう……。陛下の女性の趣味はかなり特異的なものだったということなのだろうか?この母親にしてあの子供(フォルカー)有りだなとか、そりゃダーナー様も寝込むはずだとか……。想像するだけでも当時の家臣達がいかに大変だったかがわかる。


「殿方には殿方の、女には女の戦場があるのよ。王妃様はわたくしに武器の在処と使い方を教えてくれたのだわ」


 得意げなエルゼ。色欲にまみれた男達の中をくぐり抜け、フォルカーという宝を巡る壮絶な女の戦いを繰り広げてきたに違いない。

 ただ一番色欲にまみれている宝がその武器で倒されなかったことは、王妃も予想しなかったのだろう…。


「エルゼ様は…お強いのですね」


 彼女ならきっと、どんな厄災にも真正面から立ち向かい跳ね返す力があるだろう。


「足をひっぱるだけの弱い女はフォルカー様に似合わないもの。当然よ。でも……」

「?」

「わたくしだって何があってもショックを受けないという訳じゃないわ。貴方も今は大変かもしれないけれど…心をしっかり持ちなさい。ひとりが辛かったら我慢しないで誰かを頼ると良いわ」

「……はい」

「そうね、お酒を飲む相手くらいならフォルカー様でも…まあ、主人に直接言いにくいことだったら信頼できる誰かでもいいわ。わたくしも何かしてあげられるかもしれないし……」

「……エルゼ様が…ですか?私のために?」

「身に余る光栄でしょ?だからいいわね?あんな男に負けては絶対に駄目よ」


 そう言い残し想い人の姿を求めて駆けて行くエルゼ。その背中を慌てて追いかける侍女のスカートがたなびく。すぐに二人の姿は見えなくなった。


誤字脱字などありましたらご連絡下さいませ。

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