【後】いつか、その時が来ても。 (★)
悔しそうに拳を握り締めるポルト。
さっきまでのやる気に満ちた瞳はどこへ行ってしまったのか、視線は落ちている。
「貴方が湖に向かった時、飛び込んででも止めるべきでした。言ってもきかない性格の持ち主だってことはわかっていたんですから……。でも……」
いつものことだと思って軽く考えてしまった。モリトール卿の叱責も当然だ。
言葉に詰まり、ポルトはフォルカーをベッドへと促すが、彼はわけもわからず首をひねるだけで腰は重い。中々動こうとしない彼を半ば強引に立たせ、ぐいっと背中を押す。それをからかうようにフォルカーはわざと体重をかけた。
「遊ばないで下さいっ」
「ただの風邪じゃねーか。おかしな奴だな……」
なんとかベッドの脇まで来ると、「だから……!」という声と共に突き飛ばすように押す。勢いに負けたフォルカーはベッドに腰を下ろし従者を見上げた。
「『ただの風邪』でもかかっちゃうじゃないですか……!」
「?」
「殿下がどんなに偉くても、我が侭でも、俺にはカンケーないとか言っても…やっぱり殿下は普通の人間で…病気も怪我も人並みにされるんです……! 」
「は…???っつか…え?何?それ今更なんだけど。お前、俺を何だと思ってたの」
「……何処かで安心していたんです。貴方は「特別」な人だから」」
この国にある物全てが彼の為にあると言っても過言ではない。
十分すぎる食料に薬、綺麗な水、温かい寝床、世話をする人間、外敵から守る屈強な近衛隊、それに土も木も川も。奉られている神ですら彼らを《特別》なのだと言う。
神話の時代から、絶えることなくこの地を支配する一族の末裔だ。
自分とは違う、お伽の世界の人間だと思っていた。
世界の理なんてすっとばして、どうにでもしてしまう人なのだと。
「何かあっても倒れるのは貴方以外の人間だって、そうなるのが当然だと思って、疑いもしなくなっていた……」
「……」
「でも…ベッドで苦しんでいる貴方を見て、それが妄想でしかなかったということを……、目の前の現実を苦しいくらい生々しく感じました」
色を無くした記憶が蘇る。
瞼の裏にこびりつくのは、床板に放り出されたままの小さな手。
燃えるように熱かったが、その何処にも力らしい力は残されていなかった。
ただ転がるように横たわっている身体に否が応にも頭をよぎる結末……。
『頑張れ』
そう言おうとして言葉を飲んだ。これ以上…どう頑張れと言うのだ。ありふれた言葉は薄っぺらく、そして無責任にも思えて沈黙に逃げた。
「仲間の中にも…雨に打たれて風邪を引いて……、そのままかえって来られなかった奴もいます。戦火に追われて逃げてきた人々の中にも、安全だといわれていた避難所の中にも…、まだ戦いが及んでいなかった土地にいた私の兄妹の中にも。小さな傷口が原因になってしまうことだって……」
ただ最期を迎える瞬間に寂しくないようにと、側で手を握っていた。
乾いた小さい唇をなんとか奮わせ望んだ物は、何一つ与えることができなかった。
突然痙攣が起きたかのように身体が大きく震え、反動なのか低い悲鳴のような声が出た。
震えが収まると共にゆっくりと一度だけ吐かれた息。
ロウソクの火が消えるように瞳から最後の光が失われ、熱いほどの体温も、時間と共に床へと吸い込まれ同化していった。
後に残されたのは、目の前で具現化された己の無力さだけだった。
「――――――………っ…」
亡骸は埋めた。でもそれが何処なのかはもう覚えていない。
彼らを送るため何十、何百という穴を掘ったのだ。場所を覚えていたとしても、誰を埋めたのかはもうわからない。
さも切なげな目でみつめていたくせに。
そんな自分は哀憐の仮面を被っていただけの薄情な人間なのだと思い知る。
この身体も、最後は同じ道を辿るだろう。
自分が皆を覚えていないように、皆の記憶からも消える日が来る。
まるで川に落ちる一滴の雫のように、存在全てが消えてしまうそんな日が。
そんな事実は漠然とした恐怖となり、夜の闇の中で身を震わせることもあった。
あれから随分と月日は過ぎ、力も強くなった。
多少なりとも生きるための知識も身につけた。別次元だと思っていた貴族世界の末端で暮らすことも出来るようにもなった。
何よりも、大切な主人は一番安全で安心出来る場所にいる人だ。
―――「この人は大丈夫。《特別》だから」。
そう思っていた。
しかし、ベッドで横たわり苦悶の表情を浮かべるフォルカーを前に感じたのは、あの時と同じ自分の無力さだ。
「ここには休める場所もご飯もお薬もちゃんとある。お医者様だっている場所なのに……。気にしすぎだということはわかっています。でもやっぱり変なことばかり考えてしまって、どうしても落ち着かなくて……。出来ることをやっておきたいんです」
胸を痛めたままで終わらせてはいけない。
過ぎ去っていった灯火に照らされ見えたものに無駄なものなどないはずだ。
小さくても良い、ひとつでも糧にする。
そして次に現れた火を、今度はこの手で守るのだ。
ポルトは顔を上げフォルカーを見つめた。
彼はしばらく何かを考えているかのように黙っていたが、最後にどこか気の抜けた声で「ふーん」とこぼす。
「お前らしいっつーかなんつーか……。その気持ちはありがたいがな」
「…………」
「可能性の話なんて始めたらキリがねーだろ。陛下が甲冑でも着てりゃ問題なかったし、近衛隊や衛兵が地上ではなく空にも気を使ってりゃお前が飛び込む必要もなかった。そもそも犯人が悪事に手を染めなきゃこんなことにはなってねえ」
「でも……」
「だいたいね、これだけちやほやされた王家の人間だって、全員が天寿を全う出来るわけじゃねーだろ?単純に事故、怪我、病気っつーのもあるし、いつの時代にも権力の集まる場所には羨望も悪意も集まるもんだ。過去にはお前よりもずーっと立派な従者がついていても、毒を盛られたり、敵国まで連れていかれて首をはねられた王もいる。北のスキュラド国王を見てみろよ。今、民衆にタコ殴りにされてるじゃねーか」
四大陸のひとつである北のスキュラド国は、終戦後の混乱に乗じた革命が起きている。次の王座を望む者達が今も絶えず剣を交わらせ治安は悪化する一方だ。その情勢は隣国であるこのファールンも他人事ではない。逐一調査させている所である。
「力には相応の代償ってもんがつきまとう。『ここ』はお前が思っているよりもずっとドス黒いもんが渦巻いてる世界だ。今はまだ父上がいるが、俺は近い将来その中心に立つ。わかる?俺はね、いつどんな方法で死んでもおかしくない人間なの。気合い入ってるところに水を差すようで悪ィんだけど……俺が先に死んじまったらどーすんの?」
「な…なんでそんなこと……っ。お側にいるのは私だけじゃないです…!近衛隊の皆さんも、アントン隊長達だっています。殿下だって逃げ足早いし、剣もお強いじゃないですか…!そう簡単には……っ……」
彼は短絡的な考え方だと諫めているのか?
それともそんな力はないのだろうとこの細腕を笑っているのだろうか。
「皆がいるっつーけど、なんでかわかってる?そんだけまわりに危険が多いってことだろ。俺が言いたいのはね、もっと肩の力を抜けってこと。前にも言ったじゃん。俺はお前に忠誠心の塊みたいなものは望んでないって。お前はお前の出来る範囲でやりゃいいし、変に責任を感じる必要もない。身の丈以上のことしてたら、前みたいにまたぶっ倒れちまうぞ?」
「あ…貴方を守って倒れるなら本望です!」
「いや、だからさ……。つか、お前も頑固だね、相変わらず」
従者の決意は相変わらず固いようだ。先日行われたと思われるモリトール卿の教育も相まり、そのうち彼女を自滅に追い込んでしまうんじゃないかと心配になる。
この前、酒場のオネーさんに襲われかけたことなんて絶対に言えない。
「女に守られて喜ぶ歳でもねーんだよ、俺は。たとえ何かあったとしても、それは俺の運命だったってことなんだから。お前こそいつまでも弓とか剣とか振り回してないで、いい加減大人しくしてろっつの」
嫌そうな主の顔。
不機嫌返しとばかりにポルトの眉間にもシワが寄った。
「わかってます…… 」
「?」
「私が…力不足だってことぐらいわかってますよ……。貴方が…貴方が私より先に逝ってしまうこともあるんだって…わかってます」
《父のいる場所》と案内されたのはウルム大聖堂の廟だった。何処かで抱いていたかすかな光を失った瞬間は、今も杭をうたれたかのように覚えている。
あそこは父だけではない、彼の終焉の場所でもある。
美しく飾られた冷たい石の世界。自身も石と化した彼が永遠の眠りにつき、闇と静寂の手に抱かれる。
亡骸が収められればもう近づくことすら許されず、石壁に額をつけ、想い、祈るだけしか許されない。
そしてまたひとり。
色を失った空を見上げる時が来る。
また…ひとりきり……。
「考えたくもないけど…すごく…すごく恐いけど、そういうこともあるんだってわかってます。もし万が一…万が一そんなことになったら……」
――そんな世界で生きていく位なら。
「私も…連れて行って下さい…!!」
「は…っ!?お・お前…今自分が何言ってるかわかってんの?っつか、婚活はどーした!」
「婚活が成功するまでは貴方の部下です!だから…一緒に連れて行って下さい!」
両手を勢いよくフォルカーの肩に置き、ぐっと力を入れる。前のめりに凄んでくるポルトはまるで恐喝でもしているかのようだ。
「ふ・ふざけんなッ!死んだ後までつきまとわれてたまるかッ!俺は天国にいるまだ見ぬ美女達と遊ぶって決めてんの!お前はお前で、こっちで新しい男でも探してろ!自慢の偽乳、詰めりゃ良いだろ!」
「すんなり天国に行けるとでも思ってるんですか!?貴方の人生、懺悔するだけでもどんだけ時間かかると思ってるんですか!」
「あん!?……ぁ……い・いや… それは……確かに……」
心当たりがありすぎてぐうの音も出ない。
「茨の道しか残されて無いようなことばかりして……!途中で怠けて、天国にも地獄にも行けないようなことになるに決まってます!」
「で・でもな…!?俺だってちょっとは良いこと……」
「ちょっとやそっとでどうこうできる数じゃないでしょ!司教様にも聞いてきましょうか!?」
「クラウスに!?待て、それは本当に洒落にならんっ」
「だ か ら!私も一緒にいきます!例え行き先が天国だろうが地獄だろうが、最後までちゃんとお供致します!」
「な・なんだよ、それ!お前いつからそんな偉そうな……っ」
「死んだら身分も何も無いでしょうがっ!貴方はただのエロくてチャラいゲス男になるんです!危なっかしいことこの上無しですよ!」
フォルカーの襟首を掴むとぐいっと顔を近づける。
「良いですね…!?すぐですよ!?その辺でフラフラしていないで、必ず迎えに来て下さい…!迎えに来なかったら追いかけていきますからね!」
「……っ……」
「わかったら返事!」
迫力に押され、フォルカーがたじろぐ。何かを言い返そうとするとすぐに「はぃ!?」怒鳴られ、反撃の糸口がまるで見つからない。
「いつもの口先はどうしました!?こんな時くらい、嘘でも…嘘でもいいから頷いて下さいよ!!」
「――…っ」
心なしか目に殺意すら宿す従者を前にフォルカーは言葉を探すが……逃げ道はないようだ。やがて操り人形の糸にでも繋がれたかのように、ゆっくりと首を縦に振った。
「 わ・わかった……」
「!!」
「どこまで出来るかわからんが、お前の言うとおりに…する」
なぜか驚いたように「……ホントに?」と目を丸くするポルト。フォルカーの襟元を前後左右に揺さぶっては「ホントにっ??ホントのホントにっ??」と何度も繰り返した。
同時に視界を前後左右に揺さぶられたフォルカーは「ホント!!ホントのホント!!」と聞かれた分だけ答える。
グラグラと目を回し始めた頃、やっとポルトの手が止まった。
「……お前なぁ…!病み上がりの人間をもっと労わ…… 」
「絶対ですよ!?」
「!」
声が震えたのとポルトが飛び込んできたのはほぼ同時。やっと親を見つけた迷い子のように、首元にぎゅうっとしがみついた。
いつもとは違う従者の雰囲気にフォルカーは少し息を呑む。
「……な・泣くほどもモンでもねぇだろ……おかしなやつだな……」
小さく震えながら浅く早い呼吸を繰り返すポルトは溢れる感情を抑えられずにいるようだ。上下する背中にフォルカーの手がまわる。チェーンメイルの固い感触は相変わらずだが、背に沿うなだらかなカーブはサーコートをまとうには心許ない気がした。
「……ま、いいか」
額と額をこすり合わせるように向けられた顔。
「泣いてる顔、初めてだ。悪くないぞ」
その滴はフォルカーの頬にも落ちた。少女も傷跡の残る手の甲で何度も拭っているが、涙は止まらない。
悔しそうに奥歯を噛みしめて、人相が変わってしまいそうなほど眉をつり上げて「こんなもの…!こんなもの…!」と謎の怒りをぶつけている。
「これは余計なものです…!体力が消費するだけで何の役にも立ちません!必要ありません!服だって汚れます!こんなもの流してる間に、もっと出来ることがあるはずです!筋トレとかっ、部屋の掃除とかっ、文字の勉強とかっ、狼のブラッシングとか……っ!」
フォルカーは半ばあきれ顔だ。こんな表情で「筋トレ」とか言う女は初めて見る。
「嘘かホントは知らんが、昔話によると俺達人間は神様が作ったものなんだってさ。全知全能、どこもかしこもパーフェクトな神様が自分の姿を模して作ったらしいぜ。だったらさ、余計なものなんて俺達に中には入ってないんじゃねぇか?まぁ、暴力とかそっちの方に極端に偏るのは問題だが……。……それでもきっと、どれも必要なものなんだよ。勿論涙も、な」
「――――――……」
「前にも言っただろ?俺の胸はね、泣いてる女なら誰でも飛び込んで来て良いことになってんの。だからお前も俺の前でくらいは無理しないで泣いておけよ。どうせ婚活もしばらく進みそうにないだろ」
「な…泣いたら弱くなります!私は強くなりたいのです…!貴方を守る剣と盾に!泣いてる場合じゃないんです!」
その言葉にフォルカーが困ったように笑う。
「これで良いんだよ。それに、頼むから俺より強くはならないでくれ。お前がモリトールみてーな頑固な熱血野郎にならないように………」
「っ」
「俺が守ってやるから。お前は、女でいなさい」
そう言って親指で彼女の涙を拭う。
振り払おうとした少女の手を掴み、もう一度自分の首へ回した。
最初は躊躇していた細腕は素直に絡まる。今度は先ほどのように声を殺すことはなく…なんとか我慢しているという感じの唸り声を上げながら、ぐりぐりと白い額をこすりつけた。
その様子にフォルカーは安堵のため息をつく。
(もうちょい…だな……)
しがみついたままポルトは頭痛がするまで泣き(唸り)続ける。
そして器用なのか不器用なのか、そのまま意識を手放すように深い眠りについた。
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